成澤の魂Ⅰ
今、俺は息子の運転で鳥巣に向かって車を走らせている。3月以来、三ヶ月ぶりのお見舞いだ。無性に成澤の顔が見てみたくなったから。それと鳥巣の絶品グルメ、「みのや」のごぼう天うどん。
三つ子の魂百までとか言うけど、魂っていったい何なんだろう。その人のアイデンティティー?
俺の小説「二十歳の紀子」・エッセイ「旅日記」・「浪人日記」の大事な登場人物で俺の大親友、成澤はその魂が抜けて全然戻ってこない。ちゃんと身体は動いているのに。
病名は多発性硬化症、免疫が自分の脳細胞を敵とみなして攻撃し殺してしまう。そして、還暦になった今年1月、脳幹部を攻撃されて中枢組織が死んでしまった。この身体に成澤の魂が再び戻ってくるのは…奇跡、奇跡の大奇跡なんだろうか。
人生百年時代、老後資金二千万とか報道されて、分を知らない憐れな奴らが喧喧顎顎の議論を繰り広げているが、俺に言わせて貰えばナンセンスだ。贅沢せずに無駄な出費を押さえ込んでしまえば最低限の文化的生活は送れる、と思う。ダメだったら生保もあるし。そういう俺は年収夫婦あわせて175万。いつまで最低限の文化的生活を送れるかは神のみぞ知るだ。仕方ない。現役のとき、ジジイになってからのことは考えたくなかったから。
還暦過ぎても生きておられる奴は一部で、選ばれた人間だということを肝に銘じておかねばならない。平均寿命とは0歳児の平均余命だ。平均余命とは、ある年齢の人々が、その後何年生きられるかという期待値だ。生命表で計算されている。 生命表には、10万人が生まれたとき、ある年齢に達するまで何人生存し、その年齢の内に何人が死亡するかが計算され掲載されている。あくまでも期待値であって、今生存しているほとんどの者が平均寿命まで生きられるとは勘違いしないほうがいい。二千万も糞もない。まだ60年も生きてない者は自分が神に選ばれるかどうか、どきどきしながら待つといい。
朝はちょっと遅めに9時過ぎに小倉を出た。ルートは高速を使わない飯塚経由ルートだ。鳥巣に着いたのは12時前、店の中ではもう待ちが出ていたが、十分掛からず座れた。昨日の夜計った体重は無念の67キロ超え、翌日の「みのや」のうどん堪能のため、晩飯は抜きだ。慣れた行為なのでどうってことはない。で、朝計った体重は66・5キロ、まぁこれくらい落ちるのは想定済みだ。
注文はごぼう天うどん三杯に味おにぎり一皿、白おにぎり三皿、このうち二皿は息子の分だ。というのが、「みのや」の三個入りおにぎりの一個は凄く小さくて丸ごと口の中に入ってしまう。
俺ら夫婦がこの店に来るのはうどんの他に煮昆布と辛子高菜炒めが目的だ。小皿に三度ほど盛って食べてしまう。うどんとおにぎりの量はそうまでないのだが、煮昆布と辛子高菜炒めを食い過ぎて、帰って体重を計ったら朝より600グラムも増えていた。で、今日も晩飯抜き。
成澤の終末医療の病院は、「みのや」のある県道から左に折れた左側だ。「みのや」からここまでは俺が運転した。病室は二階だが、部屋が変更になったようだ。三ヶ月ぶりに会った成澤、最低限の栄養補給だけだから顔が痩せ細って別人のようになってはいたが、正真正銘、俺の親友成澤だ。
「成澤来たぞ。分かるか?」
「今日は家族三人でお前に会いに来たぞ」
身体が俺の声に反応して動いたが、意識はないのだから、ただの条件反射だろう。でも嬉しい!
「おう成澤分かったか」
「ちゃんと分かったんやな」
成澤は喉に人工呼吸器は装着されてはいるが、ここにちゃんと居る。ありがたい。何度も何度も呼び掛ける。目には見えないが、成澤の魂はこの病室に居て、今か今かと己の肉体に戻る機会を窺っているに違いない。俺はそう信じる。ただ、今はアンマッチなだけだ。その内、「おうYMR」と何事もなかったかのように声を掛けてくれる筈だ。
俺は己の瞼に焼き付けるように成澤に顔をぐっと近付けて頬を摩ってやる。温かい。生きている。清潔なタオルで覆われた枕には成澤の毛髪が結構落ちている。
「成澤、お前早よ目ぇ覚まさんと髪抜けてしもうてよぉ、俺に勝るとも劣らん禿になっちまうぞ」
「写真一枚撮らせてくれなぁ。ほいで早よ魂が戻るごと小倉から毎日念ば送っちゃるけんのぅ。俺はそんために今日は来たんじゃぁ」
「ねぇこのまま帰るん。大濠公園行ってみようよ」と嫁。
息子、「俺はせっかく鳥巣まで来たんやけん久留米で行きたいとこがあるんよ」と車を出した。
梅雨の嫌らしいところ、太陽が顔を覗かせていてもすぐ雲に覆われて雨が降りだす。
「また降って来やがった。大濠公園行ってもどうしようもねぇぞ」
「そうやね」と嫁。
久留米のブックオフの駐車場で、諦めきれない風に、「ほんとこのまま帰るん?」
「ちゃん次第や」と俺。
「小倉まで90キロや。二時間以上掛かるけん着くんは4時ぐらいになる。帰ろう」と息子。
ナビを帰宅にセットして走り始めてライン。成澤の嫁からだ。
――思いの外、ご近所ママさんが早く帰ったのでうちに寄りませんか?
――分かった。今久留米でよかったわ。
久留米医大前で息子と運転を代わった。約二年ぶりの成澤の自宅訪問だ。行ったら、「おうYMR」と成澤が出迎えてくれそうな幻想を抱く。最後に訪れた二年前、確か田尻の家を訪ねた後だ。ということは土日か。なら有給消化に入った10月15日以降しか考えられない。
退職を決心した俺は、一か八か、障害年金を申請することにした。しかし問題が。障害を負ったのが俺が11歳のときだったためカルテが残っていない。受診状況等証明書が添付できない申立をせねばならず、それには初診日に関する第三者からの申立書(第三者証明)の添付が必要だった。要するに、中学時代の友達にその頃には既に障害を持ってましたと証言して貰うことだ。
成澤、電話で依頼したら二つ返事でOKしてくれた。退職のお詫びも兼ねて自宅を訪ねた俺は、車買って貰っているのに途中で投げ出してすまないと重々頭を下げて帰って来た。
いつも中央にでんと座っていた主の居ないリビングは驚くほどこざっぱりしていた。ソファーが二脚置いてある。
「何か綺麗に片付いとるない?」
「そう。猫二匹との独居生活やけんね」
成澤の嫁は寂しさを埋めるために猫を飼い出した。長男のKI君は5月に結婚して市内の成澤の実家を改装して住みだした。来年初孫が生まれるとのこと。お目出度い。成澤もさぞ抱きたかったことだろう。次男のSTS君は福岡市に独り住まいだ。
成澤宅の二匹の猫は、嫁と息子に、俺ら家族が猫を飼っていた頃を懐かしく思い出させてくれる。嫁はかわいいかわいいを連発する。猫じゃらしで遊んでやる。
「犬亡くなったん?」
「うん去年の7月にね。もう歳やったけんね」
俺が、前日の土曜日に電話して、成澤に翌日の日曜日の来訪を約束してすっぽかされたのが去年の5月19日。
「俺が来て成澤に会えんで家の前で待っとったとき、こてっこてって倒れながらよたよた歩きよったもんなぁ」
「その頃はもう左向きにしか歩けんやったんよ。ばって死んだときKIが一番悲しんでね。不登校んとき慰めてくれた友達やったけんね」
「KI君が不登校?成澤から聞いたことねぇな」
「高校二年の後半から半年くらいかな。その頃家は殺伐として暗かったよ」
「何が原因やったん。確かKI君は野球部やったよね」
「そう。自分の頑張りば監督が全然認めてくれんで心が病んだごたるんよ」
「ばって、現役でFKOK大学通ったやろ。ある意味天才やん」
「それはそうかも」と成澤の嫁、満更でもなさそう。