天「ウェンゼイクライ - 3」
1989年8月25日
夏休み、早くも終盤。前半はがむしゃらに宿題を終わらせた。理由は単純明快。
『鬼ヶ丘島四泊五日旅行』があるからだ。夕依はまだ宿題が終わっていないらしく、泣きながらどうにか終わらせたらしい。
ただ一つだけ心残りがある。あの人をこの旅行に誘いたい。誰だっけ、小さい頃私のお世話をしてくれた青年。
流石にまだ生きてると思うけど、私のこと覚えてるかな。父にこの青年のことを話してみた。すると急に真面目な顔になった。
まるでその青年がなにか不都合なものであるかのように。
「……もう、話しておくか。黙っていてすまなかった。リナが小さい頃にお世話になった青年。それはおそらく如月檸斗のことだと思う」
如月?! 私と同じ名字。あの青年は如月家と関係がある?
「リナのお母さん、ロナは私と結婚する前如月雅士という男に籍を入れていた。お前の叔父……明日から始まる旅行の主催者だ」
「…………」
「檸斗くんはその間に産まれた子だ。血は繋がっていないが、リナの兄だ」
「………ねぇ、お兄ちゃんは今どこにいるの?
「埼玉の方で働ている。電話して誘っても良いが、なんて言われるかはわからない……」
父は暗い顔をしながら受話器をとった。おそらく断られて悲しむ私の顔を見たくないのだと思う。
「………もしもし、如月ですけど」
「リナの父です。檸斗さんですか?」
「あぁ、お父さんですね。どうかなさいましたか?」
「明日から鬼ヶ丘島というところへ行くんですが、実は親戚の一人が風邪をひいてしまって空き枠ができたんです。……来てくれませんかね……?」
「……リナはそこへ来ますか?」
「えぇ、もちろん」
「…………行きます! 絶対に行きます!」
かなり大きな声が聞こえてきた。久々に聞いたその声はすこし低くなってた気がしたけど、確実にお兄ちゃんだった。
私は父から受話器を奪い取り耳に当てた。
「もしもし、お兄ちゃん?!」
「おぉ、リナ。久しぶりだね。最後にあったのは……何年前だっけ?」
すこし抜けているところも変わっていなかった。あの声。落ち着く吐息の多い声。目の前が涙で潤む。
「あした、絶対に来てね! 約束だよ!」
「わかった。約束だね。もうあの時みたいにはならない。絶対に約束は守るよ」
一日中話していたかったけど、明日実際に会って話すことになった。もう楽しみで仕方がなかった。何を話そうか。どんな顔で会おうか。ずっとそれだけを考えていた。
*
八月二十六日 午前六時
久々に六時ぴったりに起きた。脳がずっとドーパミンを出し続ける。朝ごはんを食べている途中も、バッグの中身を確認している途中も。ずっと興奮していた。
「リナが家で明るい顔をするなんて久々だな。リナが高校に入学してからお父さんはお前の笑顔を一度も見たことがなかった……」
私はパン二枚を数分で食べた。早くお兄ちゃんに会いたい。できるだけ早く。
車で行くとかなり時間がかかるが私には5分ちょっとのことのように感じられた。途中から夕依、雨宮。そして雪と私の友達が続々と乗車する。
「あれぇ、はぅちゃん久々に楽しそうだね。なにか会ったのかなぁ?」
「フフン、私だけにしかわからない楽しみだよ♪」
「旅行、楽しみなのです。これがタダなんて考えられないです!」
そう。この旅行。実は雅士さんが旅費のすべてを負担し、誰もお金を払っていない。つまり天国というわけだ。
「ちゃんと雅士さんにお礼を言うんだぞ。ほんと、如月家で良かったなぁ~」
気づけば「When They Cry」という店についていた。
そこに居たのは、如月檸斗お兄ちゃんだった。
「……お兄ちゃん……! お兄ちゃん!!!」
久々に見るその姿。背はあの時から変わっていない。ただ逞しくなった気がした。スーツ姿でシュッとしたその姿は、私のヒーローだった。
「やぁ、リナ。久しぶり! 長らくあえなくてすまなかったね。研究とか仕事とか忙しくてね」
「全然いい。お兄ちゃんとまた会えたって事実が、私は嬉しい!」
傍から見ると親と子の再開だった。お兄ちゃんはもう三十代。時の流れは早い。あのときはまだ大学生で二十代だった。
潮がひいて鬼ヶ丘島までの道ができる夕方までまだ時間があった。その間私達はトランプで遊ぶことにした。