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何なんだ? まぁ、霊に勝てる女に逆らおうとは思わんが。
見れば、上川もいそいそと、手を洗いに台所へ行っている。
俺も遅れて立ち上がると、差し出された石鹸を取って、手を洗った。
畳部屋に戻ってみると、鮎川は自分で持って来た紙袋から大きな包みを取り
出して、きちんと並べ始めている。包みを開くと、縦列駐車したおにぎりが
顔を覗かせた。
「家庭の味が恋しいだろうと思ってな。援助物資を持ってきたぜ」
本当に色々な意味で、漢前です鮎川さん。それでは早速、頂きます。
「ちょっと待ったぁっ、忘れてたぁ」
どうした? 味噌汁入った保温ポットでも忘れたか?
鮎川は、上目遣いで俺たちを見ると、妙に作った声を出した。
「別にアンタ達の為に作ってきた訳じゃ無いんだからねっ!」
……えっと、頂きます。
「ふぅ、ご馳走様でした」
おにぎりは(俺達の為に作ったんじゃないにしても)確かに美味かった。
おかずも、ウインナーに卵焼き、ほうれん草のおひたし等々……。ピクニック弁当
の定番メニューオンパレードというツボを突いた心憎い面々揃いに、総て平らげて
しまう。ペットのウーロン茶を飲みながら、俺は、ああ家庭の味って素晴らしい、
と再確認していた。
「いやーっ、こうやって家族揃って食事を取るのは十年振りだな、かーさんっ」
いっとくが、俺の発言じゃないぞ。
「そういえば、昔は弁当を作って貰って三人で出掛けてたね。子供だったから町内
の公園で弁当を広げたりしてさ」
上川も懐かしそうに目を細める。
「公園だけじゃないぞ。俺達、なんか可愛がられてたから、人の家で弁当広げ
させて貰ったりもしてたろう?」
子供の頃って、本当に傍若無人だからな。
「それはあちしの人徳というものだよ、ちみぃ」
今は人徳って言うより、漢前って感じですけどね、姐さん。
窓から見える太陽は、既に傾き始めている。窓辺に立った鮎川が外を見ながら、
ふと、小さく口ずさんだ。
「カラスが鳴くから、かーえろ……」
一瞬、カクンっと俺の脳みそが揺らされた気がした。同じ光景。同じ言葉。
同じ場所。
『さぁ、カラスが鳴くからかーえろっ』『なにそれ』
『おねいちゃんに教えてもらったんだよっ』『あー、良いなぁっボクもならい
たい』
『テツロウにも、今度教えてあげるね。でも、明日は来ちゃ駄目よ』
『えーっ、どうしてぇ・・・・・・』
--あの時、駄目だったのに、俺のせいで--
「どうかしたか、緒方?」
呆然と鮎川を見詰めている俺を不審に思ったのか、上川が声を掛ける。それに
気付いた鮎川が俺を見た。少しだけ憂いを帯びた表情を浮べたが、直ぐに
打ち消し、いつもの調子で明るい声を張り上げる。
「ヘイ、ボーイ。俺に惚れると、怪我するぜっ」
「はっ? 惚れっ!? いやいやそんなんじゃねーよっ」
もっと何かこう、埋まっている何かが、ホラ失われた記憶が今、
音を立てて……。
「崩れるんですね、解ります」
駄目だ、鮎川の作ったニヒル顔で、総てが吹き飛んでしまった。
「あ、うん。もう崩れるでいいや」
「駄目だぜボーイ、直ぐに諦めたら。ついでに空を見とけっ、うつむくなっ」
その、鮎川先生、もっとこう、普通にいけませんかね?
鮎川はキリリと凛々しい表情を作り、俺の方を見据えた。
「漢なら諦めて諦めて諦め抜いて、最後の最後に前のめりに諦めるのが漢ってモン
じゃないんですかっ緒方さんっ」
解った、俺が悪かった。
その後、散らかしていたゲームカセットやゴミを片付けると、二人は家路に
着いた。
結局本日も、案件対象(ま、ぶっちゃけ霊なんですけどね)を逃した訳で、さて
この先どうしたもんやら。イワク云々神云々、深刻な事態の筈なのに、何故か、
のほほんとした状態が続いている。俺の人徳(というか、初心者っぷりなんだが)
が成せる業か?
「寒っ……」
何と言うか、いきなり部屋ががらんとした感じに思えるのは、やっぱり俺の心が
淋しさを感じてる証拠かね。今は一応、非正規同居人が居る訳だし、淋しくは無い
と思うのだが。
やはり、さっきの鮎川を見てから、どうにも何かが引っ掛かる。思い出せない何か
が有る気がするんだが。
そこまで考えて……俺はようやく思い出さねば成らない事に思い至った。
定時連絡しなきゃ。
慌てて携帯を取り出し、神儀局へ掛ける。電話に出たのは珍しく、事務職の人
だった。
「今、主任は席を外しているから、折り返し掛けさせるよ」
そういうと、アッサリ電話が切られる。直ぐに携帯が鳴ったが、表示は知らない
番号だった。何故だろう、出なければ命に係る気がするよ。
「緒方か? 一条だ」
「やっぱり一条さんでしたか。神儀局のいつもの番号とは違ってたんで、驚き
ましたよ」
「ヤボ用でな、ちょっと表に出てる」
定時連絡として、本日コレまでの経緯を伝える。霊がゲームをやった件では、
小さく吹き出し、笑い声が上がった。
「そうか、霊に成ってもゲームとはね」
総てを話し終えると、霊の正体について意見を求める。
「正体……あー、ソイツの?」
主任にしては珍しく、歯切れの悪い物言いが返ってきた。
「上川さんの息子さんが、どう言って来るか待ちなさい。長くは掛からない
だろうし。……これはアンタの仕事なんだから、最終的な決断はアンタに委ね
られる。解ったわね? あとは……そう、後は鮎川さんね」
それだけ言うと、俺が聞き返す前に電話が切れた。
何が起こってるんだ……一体。
今回の案件に対し、俺の実力では明らかに力不足だ。もっとベテランの職員か、
上川の親父さん辺りが登場しないと何ともならないんじゃないか? なのに
本部は今の所、動く気が無いらしい。
「はて? さっぱわかんね」
鮎川が据え付けてくれたテレビからは、流行のお笑いグループのネタが流れて
いる。
見るでもなくぼぉっと考え事をしていて、そのまま俺は眠ってしまった
ようだ……。
……夕焼け小焼けの歌が聞こえる。
--夢、なのか--
俺は今住んでいるアパートを見上げていた。アパートの外壁は小綺麗で、塗り
替えられたばかりの感じがする。自分の腰まで届くねこじゃらしを一本引っこ
抜き、ペンキの匂いがする階段を一段ずつ、飛び跳ねるように上がっていく。
弾む足音が反響し、後ろにもう一人居るのが解るが、俺は振り向かず、渡り廊下
を駆ける。部屋の前に来ると、ノックもせずに中に飛び込んで……
世界が暗転した。
真っ白だった壁は、書き割りに成り下がり、閉め切った室内、セピアトーンの
世界の中、目に見える形で風が渦巻く。奇怪なうねりはそこだけ、赤黒く鮮明な
色合いを帯び、全身を吹き抜けていく。
色付いた風は禍々しく、頬を撫でる度に震えが走る。体の芯は凍てついた様に
痺れ、俺はどうしようもなく立ちすくむ。
俺の後ろで、誰かが背中越しに悲鳴を上げ、小さな足音が消えていく。
振り向いた黒髪の女は驚きの表情を浮かべ、手にしたゲーム機のパッドを取り
落とす。
「来ちゃ駄目って言ったじゃないっ」
叱る様なその声は、明らかな恐怖を押し留める為。禍々しい風は毒々しく
色付き、総てを包もうとする。ゲーム機を抱えて女は立ち上がり、重い冷風に侵食
されていく。
「お父さんに言うのよっ、あたしが押さえになるから、時を待って……」
既に体の殆どを失いながら、女は無理した笑みを浮べる。
「行きなっテツロウッ」
「……っ!」
絶叫の筈なのに、小さく聞こえるその声。
カシャンッという音と共に、黒いゲームカセットが引き抜かれ……
……世界は、色を取り戻した。
携帯の着信音が何度も部屋に響く。俺は、ハッとして起き上がった。
「もしもし緒方か? やっと繋がった」
どこか堅い上川の声が聞こえる。
「ああ、上川……すまない、ちょっと寝てたもんで」
「ゴメン、急いで連絡を取りたかったんだ。例の件、親父から聞く事が出来た」
「どうだった?」
「詳しい話は直接話したい。部屋に居るよな、そっちに行っていいか?」
了承して電話を切る。俺は何故か、上川と鮎川が一緒にくるだろうと確信して
いた。
上川は三十分程で現れた。もちろん、鮎川を伴って。
出迎えた玄関先で、俺は言わずにおれなかった。
「夢を見たよ、さっきさ。何度見ても内容を思い出せなかったあの悪夢、今は
ウソみたいに鮮明に思い出せるんだ」
上川は硬い表情で頷くと、鮎川を促がして中に入る。畳部屋に座ると、ポケット
から缶コーヒーを取り出し一息に飲み干す。
小さく息を吐くと、俺の方に向き直った。
「君が見た夢は、無関係じゃないよ」
知ってたさ……ん、何で俺は……知っていると感じたんだ?
「ここに住んでいて意識不明と成った前の住人は、僕達の同業者だ。もちろん
神儀局が出来る前、まだ個人能力者が、非公式に委託を受けていた頃のね」
……おねえ……ちゃん。
「如月咲美さん。彼女の名前だよ。親父に詳しい話を聞いて、薄っすらと思い出
した。僕達は子供の頃、その咲美さんに何度か遊んで貰っている。
……この場所でね」
上川は一瞬、淋しげな笑みを浮かべた。
「彼女は、ある依頼を受け、長期に渡り術の仕込を行い、ココで鎮めの儀式を
実行した。その時、不慮の事故が……」
「あたしが悪いのっ!」
突然、鮎川の声が響く。
振り返ると、やっぱり……涙を堪える表情を浮べていた。
「あたしが、今日は来ちゃ駄目って、言われてたのに、怖いの、平気だから
……って」
鼻声で、しゃくり上げ始める。
「強いトコ、格好良いトコ、テツローに……見せたくて……無理に……」
夢で見たシーンの前後が、うっすらと染み出すように思い出される。
今日は怖いの居るから、いっちゃ駄目だって……幼い鼻掛かった俺の声。
でも、あちし怖いの平気だもん……ぶんぶん元気に振り回される小さな両手。
そっか、怖いの見ても平気だったら、おねいちゃんきっと驚くよ。
……猫じゃらしが揺れる。
肩口に顔を押し付けてきた鮎川の頭を不器用に撫でながら、俺はたどたどしく
答えた。
「お前のせいじゃない。扉開けたのは俺だ……お姉ちゃんをビックリさせようと
思って行ったのは間違いないんだ」
甘いシャンプーの香りが鼻を掠め、当てられたおでこが熱く、少し……
くすぐったい。
上川は視線を窓の外に向けながら、話を続ける。
「突然、君達が入ってきた事により、儀式の型が崩れたんだ。鎮める対象の念が
フィードバックして来た如月さんは、とっさの回避策として、自分の霊魂を利用
したらしい。恐らく、鎮める対象をその場に縛る為に、地縛霊としてこの場に
留まったのだと思う」
総ての繋がりが、一つの大きな縁と成って顕現する。
有る者にとっては寂しさを伴った納得であり、有る者にとっては、過去の抗え
ない縛めだったろう。俺にとっては……。
自分の感情を押し殺したまま、上川を遮る。多分に、逃避があった事は否めない
だろう。
「事実だとしても……今の鮎川にはきつ過ぎる内容だぞ」
「でも、聞いてもらわなきゃ成らない。貴方もです。如月さん」