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寝袋から起き上がると、台所の水道で顔を洗う。冷たい水に、手を引っ込め
たくなるものの勢いで一気に洗った。流しの収納に引っ掛けていたタオルで
手早く拭く。
それが終わると再び寝袋に足を突っ込み、バッグの上に畳んでおいた服を
もぞもぞ着込んだ。
買っておいたストレートティーを飲む。気温のお陰で、ぬるいというより冷たい
に近い飲み心地だったが、こうなると暖かい飲み物が欲しくなる。
朝飯代わりのパンの袋を開けた。メンチパンを一口かじる。ごわつくメンチと、
ぱさつくパンの食感に、口の中の水分が一気に無くなる感じがして、慌てて紅茶を
飲んだ。
普段の生活と変わらない、まさにいつもの朝。違いが有るとするなら、今正に
この瞬間にも俺は知らない誰か(何か)と同居しているという事であり、そいつが
どっかの隅からコッチを睨み付けてるかもしれないって事だ。
美少女やおねいさんなら、ウェルカムマットをひいて応対させて頂くところな
んだが。
生憎対象は人を脅かすのに一味唐辛子を真っ先に使用した、漢気感溢れる
「未確認地縛物体」である。全力で排除する事になっても、心は痛まんだろう。
食い終わったメンチパンの袋を、ゴミ箱代わりのコンビニ袋に突っ込む。
ストロベリーポッキーの箱は、別分けして置いてあった。
これが証拠物件と成る、なんて考えは毛頭無く、ただ勿体無いし、洗って唐辛子
落とせば食えなくも無いんじゃないか? という、いささか意地汚い動機による。
ふと、ポッキーの箱を手に取ってみた。何となく、唐辛子がどうなってるか確認
しようと思っただけであり、別に、さっき言った洗って食おう云々が実行できるか
確認した訳じゃないぞ。
大量に残ってた真っ赤に染まったポッキーは、総て消えていた。もちろん、自分
が無意識に捨ててないか、コンビニ袋を確認する。さっき食ったメンチパンの
袋が、未だ水滴の残る幕の内弁当の空箱の上にデコレートされてるだけだった。
何なんだ? 冬支度で、かき入れ時なアリがまとめて持ってったのか? だが、
アリのせいにするには、時期が遅すぎだろう。何より、辛いモンは持ってかない
だろうし。
俺は夢遊病じゃないよな。口の周りに残っているのは、メンチの衣で唐辛子
じゃない。
第三者の手によるドッキリまで想定して、有り得ないと判断するにいたり、俺は
漸く認めざるを得ない結論に辿り着いた。
アレがコレを美味しく頂いた(この場合、人間的表現が正しいかどうかはさて
置くぞ)としか思えん。だとするなら、どんだけ辛党なんだ。霊って。
一味唐辛子の粉が袋に残るだけの空き箱を、コンビニ袋に投げ込む。ガサッと
いう大きめな音が響くと共に、それとは全く別種の音が耳を掠めた。
「でてけ」
音は人の声に聞こえた。当然のように辺りを見渡し、ダッシュでトイレ、
風呂場、部屋の前の廊下まで確認する。
誰もいない。
ちょいと先の市道を通る車の音が切れ切れに響くくらいだ。部屋に戻り、自分の
座っていた寝袋に座りなおす。幻聴かどうか云々って、考えるまでも無いな。
間違いなく先住者こと、俺命名「未確認地縛物体」の声だろう。
このバイトを始めてから何度かこういった物件を担当したが、まともな遭遇体験
ってのは初めてだったりする。折角こんなバイト始めたんだから、是非ホンモノを
見てみたい、体験してみたいと以前は思っていたんだが。
何と言うか、いざ遭遇してみると、感動ってないもんだな。
定時連絡代わりに、一条さんに報告しておくか。そう思い立ち、携帯を手に
取るとメールが入っていた。
発信者不明、スパムメールか?
『detekedetekでてけでてけでてけでてけでtけでてけでてけでてけ出てけ出てけ
出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出て行け出て行け』
開いてみると、用件から内容まで凄い勢いで「出てけ」のオンパレードだった。
これは、霊からのメッセージって解釈で良いのか? つか、どうやって作成した
んだ。出だしを見るとローマ字変換なのか? 途中一箇所、打ち間違えてるがな。
それにしても、携帯メール使う霊って初めて見たぞ。むう、こんな輩にポッキーを
駄目にされ、お供え代わりに頂かれたというのは、微妙に悔しい。
にしても、初体験だらけだな、俺。
本格的な調査云々は後回しにして、先ずは一条主任へ電話した。状況を説明し、
アドバイスを求める。主任は、低血圧ぎみの眠たげな声で言放った。
「霊相手なら、良くある事」
そうなのか?
釈然としない思いのまま、携帯をオフにする。こんな気分の時は、甘いもんでも
食って、落ち着くに限るな。そう思い、残っていた俺貯蔵庫と化している方の
コンビニ袋を探った。
うん、元祖チョコ味ポッキー発見。さて、心穏やかに食後のおやつを頂き、本日
の予定を考えるとするか。荷物が届くまで待って、上川来たら、ディスカウント
ストアに連れてって貰おう。買い物メモを作っとかないかんな。
ココの祓い云々は、落ち着いてからの方が良いだろう。
考え事をしながらバリバリと開いたポッキーは、一味唐辛子で真っ赤に
染まっていた。
ウガーッ(怒りの雄叫び)
宅急便は、俺が『ポッキーの洗い』を食い終わった頃(誰が霊に食わせる
もんか!)、程無くしてやって来た。ダンボールで三箱。
宅急便の荷としては多いだろうが、引っ越し荷物としては少ないだろう。
貨物車両の荷台と部屋を往復する間、宅急便の兄ちゃんは、フレンドリーさに
怪訝な表情を六四でブレンドし、言放った。
「凄いトコに住んでるねぇ。なんかの間違いか、騙されてるかと思ったよ」
はい、そう思われても仕方ないですね。曖昧な笑い方で、いやいや家賃が安くて
云々と口を濁し伝票にサインすると、宅急便屋さんは軽快に頭を下げて扉を
閉める。
小走りに戻っていく足音の後、ガンガンガンと鉄製の階段を駆け下りる音が
室内まで響いた。一人の時は気付かなかったが、結構安普請じゃないか、ココ。
何はともあれ懸案一つ終了。後は上川が来るまで、待ってればいい。
ポッキーの事を一旦忘れて、忘れていた歯磨きをおこない、時間潰しも兼ねて、
梱包を解いた。
今回は暇潰しに事欠かないぞ。ダンボールのガムテープを剥ぎ取り丸めると、
コンビニ袋に突っ込んでいく。
暇潰しの友、携帯ゲーム発見! この前買ったロールプレイングゲームを
イイ所で中断していたので、早速再開しようと思うのは、もしかしなくても現実
逃避だな。
ゲームの電源をオンにして、メーカーロゴが画面に表示された辺りで、ミシッ
と、小さな音が聞こえる。顔をピクッと引き攣らせた俺は、携帯機から流れる
雄大なテーマミュージックのボリュームを下げ、聞き耳を立てた。
宅急便の兄ちゃんが荷物を運んでいた時とは明らかに違う、ミシミシという音が
部屋の壁を揺らす。階段の方から反響するように聞こえてくるのは、忍び足で
誰かが近付くような、小さく密やかな音。
そっと伺っていると、出し抜けに玄関の扉が叩かれた。
脅かすなって思ったが、向うはそれが本職か。俺は深呼吸一つすると、そっと
扉を開く。
扉の前に、コート姿のサングラス男が立っていた。
「は?」
「うおりゃぁぁぁぁっ!」
俺が口を開く前に、男は、俺の脇をすり抜けると室内に転がり込む。
雄叫びと共にコートへ突っ込まれた両手が、オートマチックの銃を取り出す。
唖然とする俺の前で、グラサン男は転がりながらあたり構わずハンドガンを
連射した。
「いででででっ」
パスパスという空気が抜けるような音が辺りに響く。壁に当たって跳ね返った
白いBB弾が俺のところまで飛んできてぺちぺち当たり、痛い、というかウザい。
「えーい、止めろ上川っ」
数年振りに再会した友人、いや悪友は、俺の怒声に肩越しで振り返ると、ニヒル
な笑みを浮べた。
「久しぶりだな、緒方」
「先ず、色々聞きたい事は有るが、最初に問いたい。馬鹿か? お前は」
「馬鹿とはなんだよ、馬鹿とは。かなりいい感じにマネ出来ていると思うけど」
いや、何の真似だよ。というか察したくないのに何となく真似した対象の察しが
付くが。兎に角、靴を脱げ。話はそれからだ。
「ヤッパリ、革靴じゃないのが駄目だったかな?」
出し抜けに、可愛らしい女の子の声が響く。俺は思いっきり驚いて(仮に霊だと
したら、昼間っからどんだけ元気な霊だよ、とか思ったモンでな)玄関に
振り返った。
くりくりした勝気な瞳が飛び込んできて、半歩下がってしまう。濃い栗色の
ショートヘアが扉の向うからひょっこり顔を出していた。俗に言う狸顔って
やつか? 大き目の瞳に、小ぶりな鼻と何時でも楽しげな口元。「やっ!」と
片手を挙げて俺に挨拶すると、ぴょこんと跳ねて玄関に入ってきた。
「へーえ、テツローって、こんなトコに住むんだ」
身長は俺の肩口位しかない。大きめなジャンパーをセーターの上に羽織っている
せいで、低めなのが余計に強調されている。ご丁寧にジーパンもぶかぶかで、
すその方を何度か折り返していた。そんな事よりだ、何故に俺の名前を知って
いる?
「ぬお? テツロー、あちしの顔を忘れたっていうのかいっ?」
ワザとらしい驚愕の表情を浮べながら、おどけた口調で目を丸くする。
ん、ちょっと待て。俺の名前、徹郎のローを伸ばすその喋り方、
聞き覚えが有る様な無い様な。そうだ、小学生の頃一緒に遊んでいたあの子だ。
名前はあ、あ……。
「ああ、なんて事だろう。ギャルゲーならフラグ立ちまくりの過去を、このアホの
子は綺麗サッパリ忘れているとは」
だから立ち眩みしているようなポーズで、ショックを受けてるフリをするな。
それと、誰がアホの子だ。
「もーっ、あたしだよ、鮎川まこと、まことのまはひらがなのま」
腰に手を当てて頭を突き出すようにしながら、女の子は抗議する。
その子供っぽいポーズに、俺は漸く名前と顔と過去の記憶をリンクさせる事が
出来た。
そうだ、まこっちゃんだ。過去の思い出が走馬灯のように蘇る。上川と三人、
いつも一緒に遊んでいたトリオの一人。というか、走馬灯蘇ったら死亡フラグ
立たないか? 俺。
私は貴方のおとうさんです、と、突然告げられた映画主人公よろしく、玄関先の
板間で立ち尽くす俺の脇から、上川が揃えた靴を玄関に置く。
「ホント、緒方はひどいよな。鮎川はお前に会うの、楽しみにしてたんだぞ」
OK、解ったからお前は散らばったBB弾拾ってろ。
「あの、すまなかった鮎川さん。ウン年振りで、すっかり変ってたもんで」
そう言いながら、俺は鮎川に頭を下げる。色褪せきった記憶と比べるに、
見違えるほどの変化はしてないよな、その、縦にも横にも。
「まず、鮎川さん、という言い方が堅っ苦しいからやめい。それと、解りやすい
世辞は止せやい。それにしても、マッシュと同じ位の認知度とは、あたし甚だ
遺憾だよ」
靴を子供のように脱ぎ捨てながら、鮎川は板間に上がりこむ。で、マッシュ
って誰だ。
「そんなこたぁどーでもイイッ。むしろ問題なのは上川君の登場についてだよ」
「はい? 登場?」
一体、何の事だ。
「やっぱ、鳩を飛ばさなきゃ駄目だったかな?」
真剣に問うてくる鮎川の顔を見て、思った。主犯はコイツだ。
「なー、この弾全部拾わなきゃ駄目か?」
上川が片手に山盛りとなった白いBB弾を持ったまま、こちらに声を掛ける。
なんか落穂を拾う名画を思い出すな。一人でやれっと言い掛けるも、結局は皆で
散乱したBB弾を片付けた。
実行犯(上川)が撃った弾をあらかた片付けると、俺達はやれやれと腰を下ろす。
「ふーっ、勤労の後の飲み物は美味いねーっ」
勤労の元を作った主犯は、自ら買って来た「いやいや、勤労少年達に愛の手を
差し伸べるのは基本じゃよ」ペットボトルのコーラをラッパ飲みした。
「凄いトコを借りたもんだね、緒方。まるで、こっちの方が出るアパートみたい
だよ」
貰った缶コーヒーを飲みつつ、上川が苦笑する。うん、ココがその仕事場です。
沈黙。
「!?」
またまた御冗談を、という上川のジェスチャー。俺の否定の仕草。
鮎川、俺目掛け親指を立てる。「グッ!」上川ゆっくり缶コーヒーを置く。
後、脱兎。
この間三秒。
「嫌ぁぁぁっオゴッ!」
ああ、オゴッ、は俺がコートの裾を踏んだ事による、上川の背中強打時に発せ
られた、声にならない音だ。
嫌々する上川の襟首を捕まえて、ニッコリ笑った。鮎川が。
「上川君、逃げちゃ駄目だよう、逃げちゃ」
むっちゃ楽しそうだなぁ。
「えー、そんな事無いよう」
満面の笑み。
「だってさ、遠目にこのアパート見えた時、上川君一応『視た』んだよね。
そうでしょ?」
「あああはいみたというかみえてないというか僕ニーゲーテー」
相変わらず、惚れ惚れする位のうろたえっぷりだな、上川。片手に飲み物、片手
に襟首な鮎川は、コーラを一飲みすると諭すように続ける。
「で、上川君的には直接ヤバそうな雰囲気は感じなかった、んだよね?」