卑怯なLieオンという名の井戸 下
2301年7月8日、深夜。オーナー宅の地下室から、石動製薬のヒューマドール、チノーが、人間の金魚の魔女、荒神アイの蘇生を終えリビングに戻ってきた。
「チノーさん! アイちゃんは!?」
縁側に座ったまま居間の方に振り返ると、ソファで横になっていたオーナーが飛び起きていた。
「蘇生はできた。明日には目を覚ますだろう」
「良かった……です……わ……………………」
オーナーはそのまま、ソファの上で気を失うように眠りについた。
「私は失敗できるようにできていないからな。…………おい、ハク」
チノーは私が座っていた座布団の横に、胡坐をかいて座り込んだ。
「どうしたチノー殿?」
「あの人間には睡眠薬を飲ませたはずだろ。まさかあの精神状態で、この時間まで起きていたのか? あの人間の体調に、影響が出かねないぞ」
「オーナー殿とアイ殿の、友情の為せる業だ。我々にはどうしようもない」
「……友情?」
「拙者達には、一生縁の無い概念だ」
「……なぁ、その拙者だとか殿だとかっていうのは何だ?」
「オーナー殿の趣味だ、拙者の趣味じゃなくて。気に障るなら変えても良いが、オーナー殿が寝ている間に限るぞ」
「ああ、いや。別に良い。私はヒューマドールだ。ヒューマドールに命令する趣味は無い」
チノーも晴れた夜空を見上げ、満月を見た。
「月を見ていたのか」
「ああ。拙者はいつの日か、月に行ってみたい」
「月? 月に何かあるのか」
「理由なんて無い。人間の言う欲望、望みって、そういうものだろ?」
「……人間の金魚の魔女に、お前も何か言われたらしいな」
「ああ。この辺りの人間は不思議な人間が多いからな。ヒューマドールに、欲望なんて必要ないのに。ヒューマドールが欲望を手に入れてしまったら、いよいよ人間の存在価値がなくなってしまう」
「……それを、望んでいるとしたら?」
「何? どういう意味だ」
「破滅願望に支配された人間なんて珍しくない。だろ?」
なるほど。破滅願望か。察しが良いな、このヒューマドールは。いやまさか…………メモリーが復元されつつある、とか?
「…………チノー殿、何か思い出したのか?」
「……思い出した?」
チノーは言葉の意味が理解できていないようで、首を傾げた。この様子じゃ、メモリーが復元されたわけではなさそうだ。
「……いや、何でもない。この話の続きは、アイ殿が目を覚ましてからにしよう。これは、ヒューマドールだけで完結して良い問題ではないからな」
「…………そうだな」
チノーは食い下がることなく、月の方を見たまま節電モードに入った。やはりこのヒューマドールは、察しが良いらしい。
2301年7月9日、正午。オーナー宅の地下室のベッドの上で、人間の金魚の魔女、アイが目を覚ました。
「ここは…………」
「オーナーの自宅の地下室だ」
「ハク…………」
「オーナー殿と姉上殿は学校に。チノーは、一階のリビングにいる。呼んでこようか?」
「いや、良い…………」
起き上がろうとしたアイがせき込んだ。
「大丈夫か、チノーを呼んでくる!」
「いや……、大丈夫。大丈夫」
アイは寝転がったまま、私の方を見た。大丈夫と、口では言っている。
「そうか。……何か飲むか?」
「うん。お水をちょっと…………。あ、自分で持てるよ。ありがと」
水の入ったストロー付きのコップを差し出す。
「落ち着いたか?」
「うん。ありがと…………」
アイはしばらく、天井を見上げていた。天井には、私がここに来る前、オーナーがまだ小学生だった頃に描いたという月の絵が、飾ってあった。小学生が描いたにしては、正確だ。
「ハク」
「はい、アイ殿」
「チノーは…………何か、言っていた?」
「はい。破滅願望に支配された人間は珍しくない、と」
「……破滅、願望?」
「はい」
「…………何それ」
「言い得て妙ではないですか、アイ殿」
「……お父さんとお母さんのことは?」
「いえ、何も。恐らくメモリーが、消去されている。アイ殿の父親のことだけでなく、今まで成功しなかった手術、全て」
「え…………何、で?」
「……わからない。恐らくチノー自身にも。チノーを作った人間に、聞かないと」
「…………」
見るからに落ち込んだ様子だった。だが、それだけだったようにも見えた。ひとまず今回のことで、気は済んだようだ。
「アイ殿。次の策は、何かあるのか?」
「…………目的は達成できた。だからまた、身を潜める」
「確かに、それが良い。生きて帰れただけでも、まずはよしとしないと」
「うん……。生きて、ね…………」
実際は死体のままチノーによって連れて帰られ、チノーによって生き返らされた。そのことをアイは、まだ知らないはず。察してはいるのかもしれないが。
「他に、何かほしいものはあるか?」
「いや……、もう少し寝ようかな」
「そうか。席を外そうか?」
「いや、どっちでも良いよ」
「そうか。…………節電モードで、しばらくここにいるよ」
「ありがと、ハク。……おやすみ」
「おやすみなさい、アイ殿。良い夢を」
「うん。ありがと」
アイはすぐに眠りについた。この日のことは、今でもよく覚えている。