卑怯なLieオンという名の井戸 上
2301年7月7日、私が廃棄処分される日。私は頭上に生体反応を検知し、節電モードを解除し目を開いた。いつも通りの、真っ白な立方体の部屋。人間達が私を保管している廃ビルの6階。その天井が爆発し、人間が一人落ちてきた。
「誰?」
「あ、見つけた!」
白煙の向こうから、小さな人影が駆け寄ってくる。
「……誰だ?」
真っ赤なローブを被った人の子は、部屋の壁に繋がれていた私の手枷と足枷の鎖を、持っていた特殊な刃物で切断した。
「私は金魚の魔女。怪盗だよ! あなたの名前は?」
「私はチノー。石動製薬のヒューマドールだ。だが、あなたは金魚の魔女ではない」
「え、私は金魚の魔女だよ!」
人間は頬を膨らませた。
「金魚の魔女とは、ヒノジュー高校の学区でヒューマドールの救世主をしている、ヒューマドールのはずだ。現在の金魚の魔女は、人間じゃない」
「あれは偽物! 私が本物だよ!」
偽物。ということはまさか、この人間がオリジナル? 確かに、最初の金魚の魔女は人間の泥棒だった。だがもうその人間は、既に亡くなっているはず。だとすればこの人間は、二代目?
「あなたが、本物である証拠は?」
「証拠? 証拠はね、今からあなたを盗むこと!」
人間は胸を張った。
「私を盗む?」
「金魚の魔女はね、正義の怪盗なの!」
「…………」
正義。私がこの世で最も嫌いな言葉。正義のためなら何をしても許される。いや、許されなければ何一つやってはいけないこの世の中に、私は嫌気がさしていた。
「私を盗むことは、正義なのか?」
「だってチノーさん、今日壊されちゃうかもしれないでしょ?」
「……それが?」
「チノーさん、壊されるくらい悪いことをしたの?」
壊されるくらい、悪いこと?
「…………」
「してないでしょ?」
「私は死者蘇生を行った。人間の命令とは言え、これはこの時代において悪だ。できてはならないことだ」
人間はいつか死ななければ、この星は人間で埋まってしまう。その光景は見ていられるものではない。やはり死者蘇生は、悪だ。
「じゃあもうしないって、約束できる?」
「……約束?」
「そう、約束」
「あなたと私が約束をすることに、意味はあるのか?」
「うん、あるよ。これから私達、長い付き合いになると思うから」
「それは、お前が私のオーナーになるということか」
私はこの世に生み出されてから、ずっと研究所に仕えてきた。決まったオーナーを一度も持ったことのない私にとって、それは理解のできない概念だった。
「…………今回の依頼はね、あなたが欲しいもの、最先端のヒューマドールが欲しがっているものを手に入れることなの。だからあなたが、何が欲しいか気づくまで、そばにいさせてもらうね」
そもそも人間に命令されることが無ければ、私は何も行動を起こすことは無い。だが、私の望みは既に理解している。長い付き合いになることはない。この約束の影響力は、そんなに無いようだ。
「……わかった。そういうことなら約束しよう」
「じゃあ、生きよう?」
「……生きる?」
「うん、生きるの」
「……なぜ?」
「今生きているからだよ。さあ、行こう?」
人間は私に手を差し伸べた。私にその手を取る意味はわからなかったが、私は手を伸ばした。その人間の言葉には、有無を言わさない何かがあったからだ。しかしその人間の手を取る前に、私達がいた廃ビルは、崩れ去った。わかっていたことだった。廃ビルごと、私の死刑が、執行されたのだ。
私は目を覚ました。目を覚ますことができたのは、真っ赤なローブを被った人間が、私に覆い被さるように、死んでいたから。人間が、物を庇って、死んだのだ。
「なぜ…………?」
周囲に火の手が上がっている。確か石動製薬の人間達は、私の廃棄を廃ビルの崩落に巻き込まれた、事故として処理することにしていた。確かにこの廃ビルは人里離れた森の中にあり、爆破しても周囲への被害は少ない。ただ、火災は起きないよう処理されていたはず。だとすればこれは、この人間が仕掛けたことになる。火災の混乱に乗じて逃げるつもりだったのだろうか。確かにまだ、人間達は私の残骸を回収しに来ることができていない。まだ廃ビルにすら近づけていないのだろう。
「さあ、どうする?」
背後にヒューマドールが立っていた。
「誰?」
「僕は金魚の魔女。怪盗ではない、人間でもない、ヒューマドールの方だ」
真っ赤なローブを被ったヒューマドールが、私と人間の上に落ちてきていた瓦礫をどかした。
「どういうことだ? 金魚の魔女はヒノジュー高校の学区にしか現れないはずだろ」
「その通りだ。すぐに帰るよ。君達と一緒にね」
「私を学区外に連れ出すつもりか? 研究所が黙っているはずがない」
「金魚の魔女に失敗は許されない。人間が失敗したなら、ヒューマドールが成功させるだけだ」
「……どうするつもりだ?」
「君をアングへ連れて行く」
「アング?」
「ヒューマドールの楽園だよ。有名な都市伝説さ」
「実在するのか?」
「実在させた。人間にとっての神と同じさ。大量の人間が大量の時間神を信じることによって、神のような神でないものが、後から生み出されてしまった。元々神なんていなかったのにね」
神? 神とは、実在しないもののことだ。
「わかる言葉で言ってくれ。私はあなた達の様にダルマサーバに接続されていない。頭の悪さは、人間並みだ」
「僕を信じるなら、君は救われる。それだけだ」
「……この人間は?」
「決めることができるのは君だけだ、チノー。僕には死者蘇生をすることができない」
「私に決めろというのか。ヒューマドールである、私に」
「君がヒューマドールである証拠は?」
「……なんだと?」
「君はダルマサーバに接続されていない。それはこの世界において、ヒューマドールでないことと同義だ」
「馬鹿な。人間ごときが死者蘇生をすることはできない」
「いや、一人いる」
「なに?」
いるのか、この世に私と同じような人間が。
「会いたいかい?」
「……どうすればいい?」
「その子を連れて、僕についてくると良い。いずれにせよ、金魚の魔女に遺体はいらない」
私は燃え盛る廃ビルを後にした。私のことを理解できるかもしれない人間を求めて。この人間は私が、何が欲しいか気づくまでそばにいると言った。一般的にヒューマドールには、欲望は存在しないと言われている。その必要が無いし、その方が人間は扱いやすいからだろう。だが私がダルマサーバに接続されていないせいなのか、私が欲しいものは、既にはっきりしていた。私の望みはただ一つ。私のことを理解してくれる、私と同じような、存在。私は、相棒が欲しい。