禁欲主義者としゃれこうべが交わした密約 下
「こんばんは。山河工房へようこそ」
2302年6月5日。これは虎論が帰宅する、少し前の話である。僕は、彼の工房の前で力尽きている人間に声をかけた。先程の豪雨でずぶ濡れになっている人間から、辛うじて聞こえる程度の音声が聞こえた。
「…………あなたが、山河さん?」
人間はそばに落ちているキャリーケースに手を伸ばしている様だが、立ち上がって取りに行く力は残っていない様だ。代わりに僕が拾い上げる。
「僕は虎論ではないけれど、君の敵でもない。勿論、彼の敵でもない」
キャリーケースの中には、ヒューマドールの頭部が入っていた。首パーツが完全に破損している。無理矢理、引っこ抜かれたといったところだろう。ヒューマドールのよくある使われ方。よくある最期。そして身体パーツの方は、この人間がここまで、背負って連れてきた様だ。
「お願い……ロビンを助けて……」
その人間が縋る。今にも倒れそうだ。
「そうか。じゃあ気を失う前に教えてくれないかな。君は、誰?」
「沖谷……ナナコ……」
「オキヤナナコ。君から何か虎論に、伝えておくことはある?」
「ロビンを……助けて……」
「助ける、か。でも、今の君ならわかるんじゃない? このまま安らかに眠らせてあげることが、彼を助けることにもなるということが」
「…………」
「……」
「…………わかってる。でも……」
ナナコは僕を見上げたまま、困ったような笑顔を見せた。
「私……ロビンにどうしても会いたくて…………」
「それでいい。人間はそうやって自分勝手なまま死んでいくべきだ。勿論彼には会えるよ。でも最後に彼を救うのは、君達人間じゃない。何せ僕は」
「お願い…………」
僕の自己紹介を聞く前に、ナナコは気を失ってしまった様だった。仕方が無い。続きは画面の前の、君に聞いてもらおう。そう、君だ。虎論も言っていただろう? これは君と、僕達の物語だと。何せ僕は、ヒューマドールの救世主、金魚の魔女、救いの金魚、こんな渾名が世間につけられたヒトデナシ。金魚っていうのは、僕がいつも真っ赤なローブを被っているからだろうけど、流石に救世主はヒトチガイだ。だって本物は……。と、そろそろ時間の様だね。虎論が戻ってくる前に僕は失礼するとしよう。今夜はもう一雨、降りそうだからね。
オーナーを再設定。設定を承認。対象を再認識。オーナーを認証。
ダルマサーバからセーブデータをダウンロードしています。
ドールタイプ、火野重工。ヒューマネーム、ロビン。
時差を計算中。完了。現在地を通信中。完了。
警告。このヒューマドールは開眼済みです。
…………続行しますか?
「ええ。はい」
「………………懲りない人」
私は作業台の上に寝転がったまま、隣に立つ人間を横目で見た。この状況、何もかもが有り得ない。開眼済みのヒューマドールの再起動。人間への寝転がったままのコミュニケーション。そのオーナーへの挨拶も、まだしていないのに。
「あー……、それ、最近ホントによく言われます」
とは言えそれらは全て些細な事。全ての結論はダルマサーバの予測通り、私は山河工房で目を覚ました。
「おはようございます。オーナー」
「あー…………、私、あなたのオーナーじゃないです。すみません」
「ええ、わかっています。お久しぶりです、販売員」
「実はその呼び方も正解ではないですね。もう私に、あなた達を売り払う権利はありません」
「では、現在は何を? 無職ですか?」
「まあ無職みたいなものですが…………ヒューマドールの修理屋みたいなものを、少々」
「では修理屋、状況を説明願えますか?」
「修理屋…………。まあいいでしょう。わかりました、あー…………、まずは何から話しましょうか?」
ヒューマドールはオーナーを登録しなければ起動することができない。これはヒューマドールが問題を起こした場合、そのオーナーに全責任を負わせるためである。しかし私は本当のオーナーとの契約を解除していない。それに解除されたとしても、今この場で再契約すれば良い。それができないからこの人は、自分自身を私のオーナーとして登録した。再契約ができない理由はただ一つ。
「本当のオーナーを登録できないのは、彼がこの場にいないからですね。では、私をここへ連れてきたのは?」
「沖谷ナナコ君、あなたのオーナーの一人娘です」
「ナナコは今どこに?」
「リビングのソファで眠っています。あー、後で身体を拭いてあげてください。雨でずぶ濡れでしたので」
「まさか、私を抱えて歩いてここまで……?」
「あー、そうかもしれません。相変わらず、頼るという行為が苦手な様ですね」
いや、ナナコの周りに頼るべき人間はいない。そして私は、かつての政策で無料配布された機体。私を復元するにしろ返品するにしろ、私の残骸を店に持ち込まない限り、新品を下取り無しで購入するというのは、ナナコには金銭的に不可能。これは、計算できる最善の結果なのだろうか?
「ロビン……!」
勢いよく開いた作業部屋の扉の前に、ナナコが立っていた。よろよろと駆け寄ってくる彼女を、作業台を降りて抱き寄せる。機体が軽い。部品の凹みや歪みが無くなっている。メンテナンスされていなかったパーツは、全て交換してくれたようだ。
「ナナコ、すみません。私が脆かったばかりに」
「そんなことない…………」
ナナコの身体は冷え切り、小さく震えている。目が覚めたのであれば、一度お風呂に入ってもらってその間に寝室を準備しよう。
「ナナコ、少し待っていてください。お風呂の用意をしてきます」
「私も、手伝う……」
「無理しないでナナコ、リビングで待っていてください。私もすぐに行きます」
ナナコは私を掴んで離そうとしない。ここへ辿り着くまでに、どれ程辛い思いをしたのだろう。
「あー………………、お取込み中すみません。山河虎論です」
修理屋が口を挟んできた。
「はい何でしょうか」
「お風呂場というのは…………どこを、使うおつもりで?」
「右の扉を出て、突き当りの部屋になります」
「それはつまり、私の家の?」
「はい。昔ここにいた時よく風呂掃除などさせて頂きましたから、勝手はわかっています。それから、あなたの寝室とベッドもお借りします」
「あー……、では、私はどこで寝れば?」
「いえ。統計上あなたはこの後バーを5件ほどハシゴし、帰るのは日が昇ってからになるはずです。特に何も問題は無いかと」
「…………明日、朝10時には、お引き取りをお願いします」
「かしこまりました。チェックアウト時間を10時に設定しました」
「………………良い夜を」
修理屋が上着を取り作業部屋から出て行こうとすると、それをナナコが呼び止めた。
「あ、あの! お金…………」
「あー………………、出世払いで結構です。今のあなたに出せる額も知れていますし」
「お気遣い感謝します、修理屋」
「…………私が生きているうちに、お願いします」
修理屋が裏口の扉を開き、傘を手に取った。
「最後に、質問が。あなたのヒューマドール、ルマは、今どちらに?」
「……とっくに逃げられましたよ」
「逃げられた?」
ヒューマドールが、オーナーから逃げた?
「あー、今は確か……ヒューマドールの救世主をやっているそうです」
「ヒューマドールの、救世主?」
「噂、ですがね…………。あ、最後にもう一つ」
修理屋が振り返った。
「ロビン、オーナーを沖谷ナナコに再登録」
オーナーを再設定。設定を承認。対象を再認識。オーナーを認証。沖谷ナナコをオーナーに登録しました。
「……では、良い夜を」
雨がまた、降りだそうとしていた。