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7/12話 ☆ 嗜虐愛/被虐愛 ~sadist,&masochist~

前回のあらすじ。


梶田幸恵の、パンツは白!

1.


月の10月は、恋の季節。優しく大きなおっ月さまが、蒼く静かに地上を照らし。暑くもなく、寒くもなく、1年でいちばん、過ごしやすい季節。ぼちぼち秋の声も聴こえるこんな夜は、恋に落ちるも、良いでしょう。

さて、おっ月さまが西へと沈み、東の空から、お日さまが。今日も1日が、始まります。お早うございます、お早いですね。さあ、頑張っていきましょう。


「サトミちゃん、おはよー。」

「あ!幸恵ちゃん、おはよう!」

いつもの角で元気に挨拶を交わしているのは、ひよこさんといぬさんをつれた、二人の女子中学生。

ひよこさんをつれているのは主人公・可憐な高木里美(たかぎさとみ)さん。

いぬさんをつれているのはサトミさんのお友達・清楚な梶田幸恵(かじたゆきえ)さん。

二人は仲良く並んで、学校に向かいます。さわやかな朝の、ひとときです。

<おはようございます、いぬじろうさん。>

ひよこさんが、ぺこりと頭を下げます。

<おぅ、ピヨコット。おはようございます。>

いぬさんも、ぺこりと頭を下げます。

二人も仲良く並んで、女の子たちについていきます。さわやかな朝の、ひとときです。

<いぬじろうさんは、てんのせかいに、もどらなくていいんですか。>

ひよこさんが、いぬさんに尋ねました。ひよこさんといぬさんは、天の世界からやって来た、天の女神様の、御遣い。先月、幸恵さんを美しい愛に目覚めさせ、お役目を果たしたいぬさんは。本来であれば、天の世界へ帰らなくてはいけないはずなのですが。

その後もこうして地上に残っているのは、たしかに少し、不自然ですね。どういうわけなのでしょう。

<ああ。おまえがちゃんとやれるか、どうも、しんぱいでな。とくべつに、サポートできるよう、きょかをとった。>

いぬさんが答えます。

<それに。こんかいのミッションとはまた、べつに。おれにはしょうしょう、きになることがある。>

いぬさんが、難しい顔で空を見上げます。

「…ふーん?」

そんないぬさんをじーっと見ている幸恵さんの視線に気づいて、いぬさんは、<なんだ。>と怪訝な顔をします。

「…ふーん?」

なんとなくピンときたサトミさんも、反対側からいぬさんをじーっと見てきます。

<なんだ、なんだ。>

いぬさんは嫌がって反対を向こうとしますが、そっちには、幸恵さん。あわてて反対を向くと、こっちには、サトミさん。

「…ふーん?」

<なんだ。>

「…ふーん?」

<なんだ。>

「…ふーん?」

<なんだ。>

「…ふーん?」

<なんだ。>

二人の女の子は面白がって、交互に「ふーん」「ふーん」を繰り返します。<なんだ、なんだ。>と困っているいぬさんを、ひよこさんが首を傾げて見ています。お年頃の、女子中学生。敵にまわすと恐ろしい生き物です。

何十度めかの「ふーん」のあと、<なんだ。>と振り返ったいぬさんの視界の中に、ぬーん。ぎょっとして、いぬさんの動きが止まります。

ちょうど、自分の番で「ふーん」をやろうとしたサトミさんは、自分の後ろを見て固まっているいぬさんに気付き、「?」と後ろを振り返ったところ、ぬーん。ぎょっとして、サトミさんも動きが止まります。

自分の番の「ふーん」がまわってこないので、「?」と顔を上げた、幸恵さん。同じようにぎょっと、動きを止めます。

いつの間にか、4人の輪の中に、5人め。

正体不明の不気味ボーイが、無言でぬーんと混ざり込んでいました。

「…誰ですか?」

サトミさんが思わず、敬語で誰何します。

さわやかな朝の楽しいひとときをぶち壊す、謎の不気味ボーイ。

いったい、何者でしょうか。

<おはようございます。>

ひよこさんが、ぺこりと頭をさげました。



2.


天然パーマのウェーブのかかった、中途半端に、長い髪。

伏し目がちな、黒目の小さい瞳。

たらこくちびる。

そこだけなぜか、逞しいアゴ。

突如あらわれた不気味ボーイは、顔面を構成するパーツ、そのすべてが見事に調和しない不気味な容姿をもち。不気味なオーラをその全身にまとった、ビジュアル的にもスピリチュアル的にも、とにかく不気味な存在感のあるボーイでした。

「しい…えだ?あ、しいえ?君。1年生だよね。私たちに、なにか用、かな?」

突然、自分の背後に当たり前のように立っていた不気味ボーイに、ドキドキしながら、サトミさんが話しかけます。名札から得られる情報によると、彼の名前は、椎枝末広(しいえすえひろ)。サトミさんたちと同じ学校の、1年生のようです。はい、そこ。(童貞。)とか、勝手にデータを足さない。

「用…って、いうか。俺も、一緒にいじめてもらえませんか?」

不気味ボーイ・椎枝(しいえ)くんの口から当たり前のことのように発せられる不気味な発言に、サトミさんの表情がひきつります。

「…出たな、変態。」

「いつものパターン、来たー。」

思わず、正直な感想が漏れてしまいました。サトミさんのストレートな物言いに、何がうれしいのか、椎枝くんはニマニマと、不気味な笑顔を浮かべています。

「(どう思う?この子、やっぱり。毎月恒例の、アレだよね?)」

「(先月は出てこなかったから、油断してたー。)」

チラチラと不気味ボーイの動向を警戒心全開で見守っている二人を、いぬさんが何か言いたげに見ています。二人が「先月の変態」が誰だったのか、気がつくことは。おそらくこの先、一生涯ないままでしょう。

「えっと。椎枝?くん。いじめてもらえないか、って。一体、どういう…。」

椎枝くんが不気味な笑みを浮かべたまま、次のアクションを起こしてくれないので。そのままでは不気味なので仕方なく、サトミさんが声を掛けます。

「犬、楽しそうにいじめてたから。俺もいじめてくれないかな、って思って。」

不気味ボーイは微妙にピントのズレた、妙な回答をします。確かに、先ほどまでのいぬさんは少々うらやましい、健全な男性ならば思わず参加してしまいたくなるようなシュチュエーションにいましたが。椎枝くんの求めているものはまた、それとは大きく異なった。どうも、あまり健全とは言い難い方向性の代物のような気がしてなりません。変態特有の、本人にしか理解できない思考回路が回転しているものと考えられます。

「そういうことを聞いているんじゃないよ!?ていうか、いじめてないよ!!」

コミュニケーションの取れない相手にサトミさんは激しい動揺を見せますが、不気味ボーイは嬉しそうにニマニマするだけです。実に不気味です。今までの変態たちとは違って、積極的な危害を加えてくる素振りの未だ全く見ず、ただ、サトミさんのリアクションに何らかの変態的な満足を得ているらしい、変態。この4月から毎月毎月、様々な変態と遭遇してきたサトミさんをもってしても、これは。初めて出会う未知のタイプの変態(きょうてき)であり、その対処は容易ならざるもののようです。

不気味ボーイ・椎枝くんの対処にサトミさんと幸恵さんの二人が頭を悩ませているところに、おや。なにやら、近づいてくる女性がいます。

「あ、やっぱり幸恵じゃん。こんなとこで何やってんだ?早く、学校行けよ。もう8時になんぞ?」

親しげに話しかけてきた女性を見て、「あ。綾子さん。」と幸恵さんが反応します。そこそこの年齢の成人女性のように見えますが。言葉遣いといい、髪型といい、服装といい、どうもひと昔前のギャルといった、派手な雰囲気で。ぱっと見、清楚な幸恵さんの知人のようなイメージは持てません。

「(誰?)」と言いたげな顔で幸恵さんの方へ振り向いたサトミさんの様子を見て、派手ガール?は、「ああ、幸恵の友達?」と物怖じせずに話しかけてきます。

「あたしは、井ノ上綾子(いのうえあやこ)っての。コイツの、カーチャンの、妹な。あたしが高校ン時に、あたしの家庭教師がねーちゃんに生ませたのが、コイツ。」

派手ガール?こと井ノ上綾子さんは、ニヤニヤ笑いながらポムポムと幸恵さんの頭を軽く叩き、説明します。

幸恵さんの、お母様の、妹。言われてみれば確かに、どことなく、幸恵さんの面影が。というか。先月、突然ムダに派手になった幸恵さんに、似たところがありますね。具体的には、そう、胸とか。

幸恵ちゃんの、お母さんの、妹、というと?つまり、それは。サトミさんが、二人の関係を頭の中で整理します。「あ、幸恵ちゃんの…?」と、それを表現する言葉がサトミさんの口から出ようとした、瞬間。

「…オバサン。って言ったら、綾子さん怒るから、だめだよー。」

絶妙なタイミングで、幸恵さんがかぶせてきました。

「…アンタ、それ。毎回ワザと言ってるだろ?」

ニコニコと微笑んでいる幸恵さんに、綾子さんがひきつった笑みを浮かべました。


「あ!私、高木里美、っていいます。あの、はじめまして!」

サトミさんが少し慌てて、自己紹介をします。オレンジがかったふんわりした髪に、胸元の大きく開いた服。ブランド物のハンドバック。幸恵さんのオバ…知人、とはいえ。派手な身なりの綾子さんは、少々話しかけづらい相手として、初対面のサトミさんには見えているようです。

「おう。」

そんなことはお構いなしに、綾子さんは気さくに答えます。

<おはようございます。ピヨコットです。>

<おはようございます。いぬじろうだ。>

ひよこさんといぬさんも、自己紹介をします。

「おう。…おう?」

ぺこりと頭を下げているひよこと犬を見て、綾子さんの表情に若干の疑問の色が浮かびます。幸恵さんのオバ、いや、お母様の、妹である綾子さんは、とても若く見えますが。控えめに言っても、それ相応、そこそこのお年ではあるはずです。当たり前のようにしゃべるひよこと犬をそのまま受け入れるには、少々の抵抗があります。

「アンタ、犬なんか飼ってたっけ?」

綾子さんが、ちらりと怪訝な目でいぬさんを見ます。その顔は、「ていうか、犬ってしゃべれたっけ?」と言っています。

「いぬじろうさんは、天使さまなんだよー?」

幸恵さんはこともなげにファンタジーなことを言います。

「お、おぅ。」

綾子さんは困惑しているようですが、そこは、幸恵さんの血縁者。元来、どこかこういった不思議なものを受け入れる素養のある一族なのでしょう、「(なんか、流行ってんのかな。)」と、テキトーに納得してしまいます。

「…で。そこの、そいつは?」

綾子さんの注目が、この場で唯一自己紹介をせずにぬーんと突っ立ったままの不気味ボーイに移ります。

聴こえているのか、いないのか。不気味ボーイ・椎枝くんは無表情で、綾子さんの問いにはノーリアクションを貫いていましたが。

「ハーン?」

綾子さんが、その様子から何かを悟ったように反応します。

「何アンタ、またこのテのキモイ奴に絡まれてんの?相変わらずだねぇ。」

綾子さんが馬鹿にしたような態度で、椎枝くんに近づきます。

「ったく。なんか言えよお前。キ・モ・イ。キ・モ・イ。キ・モ・イ。」

綾子さんはつんつんと椎枝くんをつっつきはじめました。相手が不気味な変態とはいえ、初対面の相手に対してはちょっと、失礼が過ぎますね。おや。先ほど、サトミさんに「変態」と言われてあんなに嬉しそうな顔をしていた、椎枝くんが。綾子さんに対しては、不愉快だという態度をあからさまに見せています。

「うるせえぞ。オバサン。」

今までの態度からはとても信じられないくらいにクッキリさっぱり、椎枝くんが言い切りました。

「オ、オバ!?オバァ!?」

突然の意外過ぎる反撃に、綾子さんが狼狽します。椎枝くんはそんな綾子さんを無視して、スタスタと学校へ行ってしまいます。

「ちょ!?待てこら、クソガキィ!?」

2秒ほど遅れて椎枝くんの言葉の意味を把握した綾子さんの怒声が、クールに去り行く椎枝くんの背後で響きました。

不気味ボーイ・椎枝くんと、派手ガール?・綾子さん。今回の二人の主役はこうして、最悪の出会いを果たしたのでした。



3.


翌朝。例によって、いつもの角を訪れたサトミさんと幸恵さんは。そこに、綾子さんが立っているのを見つけます。二人を確認すると、綾子さんは「お。」と近づいてきました。

<おはようございます。>

ひよこさんが、ぺこりと頭を下げます。「お、おぅ。」と、綾子さんは困ったような反応を見せました。

「な、なあ。」

言いづらそうに、綾子さんが話を切り出します。

「あのさ、その。やっべえんだ。アンタらの、ソレなんだけど。」

チラリと、綾子さんがひよこさんを見ます。ひよこさんはまっすぐ、綾子さんを見上げています。

「…あたしの部屋にも。おんなじの来やがった。」

困惑気味に、綾子さんが言いました。一拍おいて、サトミさんと幸恵さん、二人が「えぇーっ!?」と声を上げます。

「ま、まあ、おんなじっていうか?大分、違うんだけど。たぶん、ソレ。アンタらの、天使?ってやつ。昨日帰ったら、いきなり部屋にいやがった。なあ、どうすればいいんだ?コレ。」

綾子さんは相当、困り果てているようです。初対面の変態不気味ボーイにすら、かなり失礼な態度を平気でとれるフリーダムな綾子さんでも。そこは、しつこいようですがそこそこいい年をした、良識ある大人。突然、天使なんてものが降ってわいてきてまず最初にすることは、「対処に困る」で間違いないでしょう。

「よかったじゃないですか!綾子さん!すごい!」

サトミさんが、パっと目を輝かせます。

「ピヨコットちゃんたち天使さまは、恋の悩みを解決してくれるんですよ!綾子さんも…。」

言いかけてサトミさんが、あ!っという顔をし、何かをこそこそと幸恵さんに聞きます。幸恵さんが、「うん、独身ー。」と答え、綾子さんが「おいコラ。」と呟きます。

「綾子さんもー。ステキな恋の願い、かなえてもらえると、思うよー?」

満面の笑顔で言ってくる幸恵さんに、綾子さんが「アンタねえ…。」と漏らし、ため息をつきました。


その夜。仕事から帰ってきた綾子さんは、ドアの前でハァー、と大きなため息をつき。意を決したようにアパートの自室の扉を開けます。乱雑に散らかった、室内。そこかしこにゴミの入ったコンビニのビニール袋が散らかり、あちらにひと山、こちらにふた山、脱いだ衣服が積み重なっています。典型的な、片付けのできない人の部屋。そんなありふれた光景の中に、異様な点が、ひとつ。散らかった床にわずかに空いたスペースに、一頭のゴリラがあっちを向いて座っています。

「(やっぱり、まだいやがったか…。まあそりゃ、いるわな。朝、外からカギ、かけて出たし。)」

綾子さんは再び、ハァー、と大きなため息をつきました。綾子さんは服を脱ぎ捨てるといそいそと部屋着に着替え、冷蔵庫の前に行き、プシッ!と缶ビール。ベッドに戻ってきて、ごろりと横になり、スマホ。その日常の光景のすべてに、ゴリラがいます。

「あー!鬱陶しい!!」

綾子さんはいじっていたスマホをゴリラに投げつけました。ゴッ、とゴリラの後頭部に、スマホが当たります。ゴリラが、こっちを向きました。

「おい!ゴリラお前、言葉しゃべれるんだろ!なんとか言えよ!!」

ゴリラは聴こえているのか、いないのか。綾子さんの言葉に、まったく反応を示してくれません。ぐしゃぐしゃと、綾子さんが頭を掻きます。

「日本語、わかんねえか?なあ!!ウ、ウホ?ウホ!ウホッホ!ウッホッホ!!」

綾子さんは懸命に、ゴリラとゴリラ語でコミュニケーションをとろうと試みます。

<トイレなら。きにせず、いっていいですよ。>

紳士的な口調で、ゴリラが言いました。

「日本語しゃべれんじゃねーか!?てか、ここはあたしの家だ!!」

必死でゴリラ語をしゃべっていた綾子さんは真っ赤になってしまいます。

「ったく…。」

いそいそと立ち上がってリビングを出ていく綾子さんに、何か言いたげにゴリラがオロオロしています。

「トイレだよ!文句あんのか!!」

綾子さんに怒鳴りつけられて、ゴリラが赤くなります。

「照れんな!!!」

綾子さんはゴリラを殴りつけました。

「ったく…。」

綾子さんがリビングを出ていこうとすると。ゴリラは反対を向いて、耳を両手で塞いでいます。

「何やってんの?」

思わず綾子さんが聞きます。

<おととか。ぜったいに、ききませんから。>

反対を向いて小さく蹲ったまま、ゴリラが言います。

「うるせえ!!!」

綾子さんの叫びが、夜のアパートに響きました。


「…で。アンタは結局、何なワケ。フツーにゴリラ、ってだけじゃ、ないんだろ?」

トイレから戻ってきた綾子さんが、ゴリラに問います。ゴリラは、もじもじしながら、小さな声でぼそぼそと呟きます。

<めがみさまの、みつかいです。てんのせかいから、きました。>

「恥ずかしがんな!!聞いてるこっちが恥ずかしいわ!!」

容赦なく、綾子さんがキレます。

「だいたいなあ?あいつらのはひよことか、犬とか。なんかファンシーな、乙女チックなデザインにデフォルメされてんのに!なんであたしのとこだけ、よりにもよって、リアル造形の実物大ゴリラが来やがるんだよ!!鬱陶しいわ!!」

綾子さんの言葉に、ゴリラはしょんぼりとしてしまいます。

<すいません。>

申し訳なさそうに、ゴリラが言いました。大きなゴリラが小さく肩を落とすのを見て、綾子さんも少々トーンを押さえます。

「…アンタ、名前は。」

チッ、と舌打ちしながら、綾子さんが問います。

<ゴリラ。>

ゴリラは答えました。

「だからなんでアンタだけそう、現実的なんだよ!!学名かよ、学名;ゴリラ・ゴリラ・ゴリラかよ!!もっと、ウホッホとか、ゴリラッコとか。捻れよ!!」

綾子さんがキレます。どうも、綾子さんのネーミングセンスも、イマイチのようですね。

「…ったくよぉ。で、アンタは、何。あたしの恋の悩みを、解決しに来てくれたワケ…だからいちいち照れんな!!」

ゴリラに綾子さんのパンチが飛びます。綾子さんは、大きなため息をつきました。

「もう、なんでもいいからさあ…。恋でも何でも、早いとこ魔法で何とかして、出て行ってくれよ…。」

綾子さんは、既にもう大分、投げやりな感じになっています。

<わかりました。>

ゴリラが、スックと立ち上がります。すう、と息を吸って、何かのモーションに入りましたが。そこで、チラ、と綾子さんの方を見て、ゴリラの動きに注目している綾子さんと目が合うと。急にまた、はずかしがってもじもじし始めます。キレた綾子さんが、缶ビールをゴリラに投げつけました。

<スーパーラブチャンス!>


『ゴリラ月夜にオルガンを弾く、女神の奇跡、ここに()れ。冴えろ月光、動け情熱。アーメンゴキゲン、ヒャーウィ☆ゴー!』


第六の御遣いが神器・月光のオルガンを弾くと、優しい月が大きく膨らみ、蒼い光が世界を包む。


ゴリラはジャンジャンと、情熱的にオルガンを弾き続けます。隣りの部屋から、上の階から。うるせえぞ!と壁・床を叩く音。すっかりゾーンに入ってしまってまわりが見えていないゴリラを綾子さんがぶん殴ってやめさせようとした、その時。振り上げた拳の小指から、不思議な赤い糸が伸びているのを綾子さんは発見しました。

「え。これってさ、ひょっとして…。」

綾子さんはまじまじと、小指に結ばれた赤い糸を見つめます。

<うんめいの、あかいいとです。あなたのうんめいのひとが、そのさきで、まっています。>

ゴリラが赤面しながらもじもじと説明しました。

綾子さんは容赦なく、ゴリラをぶん殴りました。



4.


さて、一夜明けまして。さらに、翌朝。

例によっていつもの角でサトミさんたちは、ゴリラを連れた綾子さんに出会います。

<あ、ゴリラさんだ。>

<む、ゴリラか。>

ひよこさんといぬさん、ゴリラが、互いにぺこりと頭を下げ、おはようございます、とあいさつを交わします。

中学生二人は思考が柔軟なので、特に疑問を抱かずにリアルなゴリラを「天使さま」として受け入れました。二人は、綾子さんに事の成り行きを聞いて、目を輝かせます。

「運命の赤い糸!?すごい!ロマンチックじゃないですか、いいな!!」

「どんな人、待ってるのかなー。」

素直に喜んでいる二人を見て、綾子さんは、ハァー、とため息をつきます。

「(ま、なんでもいいからとにかくさっさとその、運命の人ってやつ、見つけて。コイツから解放してもらおう。)」

綾子さんは前を歩くゴリラの、揺れる後頭部を見ながら思いました。


赤い糸を手繰って進む、サトミさんたちご一行。いよいよ、糸の手ごたえが少なくなり。次の角を曲がれば、ゴールといった模様です。皆がワクワクしながら進むなか、気乗りのしない綾子さんだけが浮かない顔をしています。

「(ほら、ほら。)」

目をキラキラさせている中学生二人に促され、仕方なく綾子さんが先頭で、角を曲がります。おや?この先はサトミさんたちの、学校の、ような…。

角を曲がった綾子さんの目の前に、ぬーん。綾子さんは思わずぎょっとして、立ち止まります。

角の先には、一匹のひつじさんを連れた、不気味ボーイが。先日同様不気味なオーラをまとって、待ち構えていました。

その小指には、運命の赤い糸。はい、みなさんの予想通りの展開ですね。恐れ入ります。

<モコットさん、おはようございます。>

ひよこさんが、ぺこりと頭をさげました。


「ふざけんな!あたしにだって選ぶ権利ってモンがあるぞ!誰がアンタみたいな、キモい変態と!!」

綾子さんがキレます。昨晩からの、乙女チックでファンタジー溢れる展開。面倒臭がってはいましたが、そこは、いくつになっても乙女は乙女。僅かなりともときめくものが、あったのです。それが、この結末。キレずにはいられない綾子さんの心情、お察し頂ければ幸いです。

「お前こそふざけるな!お、俺にだって、選ぶ権利くらいはある!俺だって、お前みたいなあばずれは嫌だ!!」

言葉を返すように、椎枝くんもキレました。この不気味ボーイは、よほど綾子さんとの相性がよいのか、悪いのか。綾子さんに対しては感情をストレートに言葉で表現し、普通に対応します。

おそらく、椎枝くんも先日の一件のあと。御遣いであるひつじさんと出会い、このロマンチック溢れる展開にときめいていたのでしょう。そのやりきれない気持ち、汲んであげてください。

「あばずれ!?ふざけんな!!あたしは、おぼこだぞ!?」

中学一年生らしからぬ椎枝くんの言葉のチョイスに綾子さんが過剰反応し、とんでもないことを主張します。

「はぁ!?お、お前、何歳だよ!?」

予想外の角度からの反撃に、椎枝くんが動揺を見せます。

「31だ!文句あんのか!!」

「31ィ!?羊水腐ってんじゃん!?」

ンだとテメー!と完全にぶちキレて椎枝くんをぶん殴ろうとする綾子さんを、サトミさんと幸恵さんが左右からどうにかこうにか

、止めます。

「おいゴリラ!なあ、マジでどうなってんだよ!?」

綾子さんの怒りが、今度はゴリラの方に向かいました。ゴリラは例によって、何か言いたげにもじもじし始めます。

「だから、それが鬱陶しいんだよ!!」

その様子にイラッときた綾子さんは、ゴリラにガスッ、ガスッと蹴りを入れ始めました。

「おい!」

椎枝くんが、いかにも不愉快だと言うように、近づいていきます。

「お前さ、相手がゴリラだからって、そんな風に暴力ふるっていいのかよ!見ててムカつくんだよ、やめろ!」

椎枝くんがぐいと綾子さんの肩を引っ張り、ゴリラから引き離します。

「はぁ!?触るんじゃねーよ変態!キモいんだよ!!」

予想外に突然、普通の事を言い始めた椎枝くんに、今度は綾子さんが動揺します。

「おい聴いてんのかテメー!いつまで触ってんだ!どっち見てんだよ、おい!!」

おや?たしかに椎枝くんは綾子さんの肩に手を置いたまま、そっぽを向いて固まってしまっています。その目の先には、ゴリラしかいません。

「なんて、太い腕…。逞しく美しい、筋肉…。」

椎枝くんは恍惚とした表情を、ゴリラに向けています。

「お、俺を。いじめて、くれないか?」

身を乗り出した椎枝くんが、ゴリラにとんでもない事を語りかけました。肩に置かれたままの椎枝くんの手を振り払った綾子さんが、慌てたように二人の間に割って入ります。

「ふざけんな!こ、このゴリラは、あたしンだぞ!お前なんかに、渡すかよ!!」

ゴリラの右腕を、綾子さんが掴みます。

「いーや!このゴリラは、お前にはふさわしくない!俺が連れて帰る、俺と暮らすべきだ!!」

ゴリラの左腕を、椎枝くんが掴みます。

「お前ホモか!?いいから寄越せ!!」

「違う!俺はマゾだ!自分が美しいと思うものに、思う存分、いじめられたい!」

二人がゴリラを奪い合い、引っ張り合い始めます。

「いい加減にしろ変態!!キモいんだよ!離せ!!」

綾子さんが離せと叫んだ瞬間、椎枝くんがパッと手を離しました。綾子さんはゴリラを引っ張ったままひっくり返り、ゴリラの下敷きになって「ぐぇ。」と悲鳴をあげます。

「てンめェ…!」

ひよこさんがゴリラを持ち上げ、綾子さんを救出します。さすがになかなか立ち上がれない綾子さんは、ものすごい形相で下から椎枝くんを睨み付けました。椎枝くんは椎枝くんで、「文句あんのか。」と言わんばかりに上から綾子さんを見下ろしています。

<あのー、ぼくのことも、すこしはきにして、くれませんか?>

一触、即発。そんな二人の間に、完全に存在を忘れられていたひつじさんが、とことこと入ってきました。その場にいる全員が、「あ、そういや居たんだっけ。」と彼のことを思い出します。

<つまりふたりとも、ゴリラさんといっしょにいられるようにすれば、もんだいないんですね?>

「え?」

「おぅ?」

当事者二人が「(あれ?それでいいのかな?)」と考えた、一瞬の隙をついて、ひつじさんが女神の奇跡を起こしてしまいます。

<スーパーラブチャンス!>


『羊もこもこマリンバ聴かす、女神の奇跡、ここに()れ。流れるは夢、(とど)まるは雲、アーメンゴキゲン、ヒャーウィ☆ゴー!』


第七の御遣いが神器・白雲のマリンバを奏でると、もこもこと透き通る雲が浮き上がり、争う心を、夢が静かに包む。


雲が晴れた時、椎枝くんは既に、今までの椎枝くんではなくなって…いますか?

「えっと…。」

「特に変わって、ないよねー?」

サトミさんが、幸恵さんが、ひよこさんが、いぬさんが。不思議そうに椎枝くんを眺めます。ゴリラと椎枝くんが、顔を見合わせました。

<おふたりには、からだをいれかわって、いただきました。>

ひつじさんが、とんでもないことを言います。

「ハァア!?なにやってんだお前!?」

綾子さんがくってかかります。

<これで、すえひろくんはゴリラさんになりましたし。あやこさんもゴリラさんといっしょにいられますし。かいけつ、ですね。>

見事になにも解決していません。このひつじさん、何を考えているんでしょうか。

「えっと…?つまり、こっちのゴリラさんが椎枝くんで、椎枝くんがゴリラさんになっちゃた、てこと?」

サトミさんが助けを求めるように、幸恵さんを見ます。

ひよこさんと、いぬさんも見ています。

「たぶん。それであってるー。」

幸恵さんが言うなら安心ですね。どうやら、その理解で良いようです。

「ふざけんなよ!元に戻せ!あたしのゴリラ返せよ!!」

綾子さんがゴリラ?をゆさぶります。

「だからゴリラはこっちだっつーの。」

呆れたように、椎枝くん?が言います。

「テメーは黙ってろ!!」

綾子さんが椎枝くん?を怒鳴りつけますが。いえいえ、ノンノン。その人は、ゴリラ?ではないでしょう、か。

「ややこしいんだよ!!」

綾子さんがキレました。ええ、ややこしいですね。もうなになんんだか、さっぱり。わけがわかりません。

ここから先は便宜上、椎枝くんを椎枝くん、ゴリラをゴリラと表記することにします。



5.


そんなわけで、椎枝くんと綾子さんと、ゴリラ。

三人の、奇妙な共同生活が始まりました。

「ったく。なんでアンタまでついてきてんだよ?」

綾子さんが、椎枝くんに言います。

「仕方ねえだろ、俺だって、好きでついてきたわけじゃねえよ。あと、それはゴリラだ。いい加減わかれ、頭悪いな。」

椎枝くんも、不機嫌に毒づきます。

「うるせえ。いちいち一言多いんだよ、アンタは。」

ハァー、と綾子さんが、大きなため息をつきました。



「な、なあ。マジでこれ、元に戻せねーの?」

ようやく事態の重大さを理解し始めた綾子さんが、ひつじさんに聞きます。

<めがみのきせきというものは、ほんとうにそれをのぞむひとにしか、おとずれないものでして。>

ひつじさんが言うと、ひよこさんといぬさん、ゴリラもうんうんと頷きます。

「望んでねえよ!!」

綾子さんがキレました。

「ひつじが言ってんのは、俺の事だろ。俺しだい、ってことだ。」

バカにしたように椎枝くんが言います。

「ハァ!?じゃなにかい、アンタはゴリラになるのが望みだったのかよ!?」

綾子さんが椎枝くんを揺さぶります。

「俺はこっちだろ。まあ、そうなったってことは、そうなんじゃねえのか。知らねえよ。」

椎枝くんはふて腐れているのか、どこか投げやりです。

<しんぱいしなくても。いっしゅうかんで、もとにもどるから、だいじょうぶですよ。>

ひつじさんがいいました。

<いっしゅうかん、そのまま、いっしょにくらして。なかなおりしてください。>

ひつじさんの言い方からは、どこか事務的なものが感じられます。

「待てコラ!?ゴリラはともかく、コイツもあたしが連れて帰んなきゃいけないのかよ!?」

綾子さんが椎枝くんを見て、絶望的な顔をします。

「状況的に、そうだろ。」

面倒くさげに椎枝くんが言いました。

ゴリラの姿の椎枝くんは、さすがにそのまま「椎枝です。」と、学校に行くわけにはいかず。

かといって、ゴリラを<しいえです。>と学校に行かせるのは、更なる問題を生むことになりかねません。

たしかに、綾子さんが二人を連れて帰る以外の選択肢がないと思われる状況です。

「1週間…。マジかよ…。」

綾子さんが、泣きそうな顔で言いました。



「ホントによー。お情けのお情けで仕方なく置いてやるんだから、アンタ。マジ、あたしの優しさに感謝しろよな。」

うんざりとした表情で、綾子さんが言います。

「ああ、そこは普通に感謝はしてる。悪いな。」

意外にも、椎枝くんの口から素直な言葉が出ました。てっきりまた何か憎まれ口を叩かれると思った綾子さんは、キョトンとしています。

「ふ、ふん?まあ。感謝、してんならいいけどよ。チッ。」

何故か不満げに、綾子さんが舌打ちをしました。綾子さんはそれきり黙っていそいそと身なりを整え始め、バッグを持ち直します。

「じゃ、あたしは仕事行くからよ。大人しくゴリラと留守番してろ。誰が来ても、絶対開けんなよ。」

言い捨てるように、綾子さんは出かけていきます。ドアを閉めようとして、はたと立ち止まり。

「下着とか、漁るんじゃねーぞ。殺すからな。」

そう付け加えると、バタンと扉を閉めて、今度こそ出ていきました。


「…なあ、ゴリラ。とりあえず乗ってみたけど、ホントにこれ、うまくいくのか。あのひつじ、なんか、へっぽこなんじゃねえか?」

ゴリラと二人きりになった部屋で、椎枝くんが言います。ゴリラは、困ったような顔で黙ったままです。

「…わかんねえよな、うまくいくか、なんて。」

椎枝くんが、諦めたようにゴロリと横になりました。

「(俺の、望み。俺しだい、か。)」

天井を見上げながら、椎枝くんは考えます。

「(天井、()っく。ったく、酷え部屋だな。片付けろよ。)」

椎枝くんはしばらく、そうして乱雑に散らかった床の、ゴミと衣服に埋もれるようにして転がっていましたが。

「ああもう!耐えらんねえ!!」

飛び跳ねるようにして、立ち上がります。

「おいゴリラ、手伝え!片すぞ、この部屋!!」

物事にあまり動じなそうな椎枝くんの、意外に神経質な一面が垣間見えてきましたね。


「…ったく、あの女。缶とペットボトル、一緒に入れんなよ。面倒くせえ。おいゴリラ、プラスチックとか、ビニールってのは燃えないゴミだからな。こっちに入れんなよ。」

部屋の中央に、3つ用意された、ゴミ袋。部屋中に散乱しているゴミを、可燃・不燃・資源に分別し、二人はてきぱきと、ゴミ袋に集めていきます。山のようなゴミが、業務用の90リットルゴミ袋をあっという間に、パンパンにしていきます。

「とりあえず、詰め終わった袋を置くスペースを確保しねえと話にならねえな。ゴリラ、服は一端、洗面所にブチこんでおこうぜ。同時進行で、洗濯機回す。」

なんでしょう。こんな生き生きしている椎枝くんは、見たことがありません。時々いますよね、こういう。妙に、片付けの才能のある人。

(わり)ぃ、ゴリラ。ここまでで1回、洗濯機回してえ。スイッチ、入れといてくれねえか?フタしめて、そこの、四角いの押すだけだからよ。」

洗面所のゴリラに、椎枝くんが声をかけます。返事がなく、洗濯機もウンともスンとも、言いません。「(ゴリラには難しかったか…?)」椎枝くんが様子を見に行くと、洗濯機の前で案の定、ゴリラが立ち尽くしています。

「ああ、悪い。難しかったよな。フタってのは、上のこいつで、閉めたら、そこの四角いのを…。」

言いかけて、椎枝くんの動きが止まります。ゴリラの手元には、1枚の、パンツ。それを両手で広げたまま、ゴリラはフリーズしています。

「そ、それは…。どうすりゃ、いいんだ?」

童貞と、ゴリラ。女性の下着の扱いなど、知ろうハズもありません。彼らに出来るのはただじっと、パンツを見つめるのみです。

「おい。なにやってんだお前ら。殺すって、言ったよな?」

スマホを忘れて引き返してきた綾子さんが、いつの間にか二人の後ろに立っていました。



その晩、仕事から帰ってきた綾子さんは。見違えるように綺麗に片付けられた部屋を見て、絶句します。

「おい!?なんだよこれ、勝手なことすんなよ!!」

綾子さんの反応にはかなりの、動揺が見られます。

「うるせえ。汚すぎんだよ、お前の部屋。お情けのお情けで仕方なく片付けてやったんだから、俺の優しさに感謝しろ。」

どこかで聞いたようなセリフを、椎枝くんが吐きます。

「ハァ!?ふざけんなよ!」

キレかけた綾子さんの目に、ちゃぶ台の上に用意された夕食が映ります。ご丁寧に、ラップまでかけてあるようです。

「何、コレ。あたし…の、分?…アンタが、作ったの?」

綾子さんが、信じられないといった顔で椎枝くんを見ます。

「そいつはゴリラが作った。嫌なら食うな。俺は疲れてんだ、寝させろ。」

あっちを向いて横になっている椎枝くんは、振り向きすらしません。

「…チッ。」

忌々しげに、綾子さんが舌打ちしながら、ラップのかかった夕食を電子レンジに突っ込みます。

「(うげ。じゃがいも半分にしか切ってねえ。マジかよ!)」

ぶつくさ文句を垂れながら、綾子さんはひどくマズい夕食を食べました。部屋の隅ではゴリラが、なんかドキドキしている様子です。

こうして、三人の1日めの夜は更けて行きました。



6.


そんな三人の生活が、しばらく続いた、ある日。

綾子さんがいつもより遅く、ベロンベロンに酔っぱらって帰ってきました。両手には、缶ビールがパンパンに入った、コンビニ袋。まだ、飲み足りないようです。

「おーう、ゴリラ!飲んでっかー!!」

すっかりアーメンゴキゲンに出来上がっている綾子さんが、椎枝くんに絡みます。

「ゴリラはこっちだ。未成年に酒を勧めんな。」

椎枝くんの対応は、相変わらず素っ気ないものです。

「ハ!つまんねー奴。」

綾子さんはドカッと、ちゃぶ台の前に腰を下ろします。そのまま着替えもせずに、缶ビールを、プシッ。一気に飲み干して、空き缶をちゃぶ台に叩きつけます。

「ったく!どいつこいつも、よぉ!!」

突然、綾子さんが怒鳴りました。寝っ転がった椎枝くんが、「何だよ。」と顔を上げます。

「結婚したくらいで仕事、辞めんなっつーの!その分のシフトに空いた穴、誰が埋めると思ってんだよ。あたしか!?テメーは勝手に幸せになってんだから、よぉ!その分まわりに気を遣え、っつーの!」

どうも、仕事で嫌なことがあったようですね。飲まずにいられないこの気持ち、察して差し上げて頂ければ幸いです。

「なんだ!?結婚すんのが、そんなに偉いのかよ!?キラキラ、幸せそうにしやがって!!人のこと、哀れんだ目で見てんじゃねえよ!!綾子さんもぉ、ガンヴぁってぇ、ステキなヒト、見つけてくださいねぇ?余計なお世話だ、クソがよ!!勝ち誇った余裕かよ!?」

スイッチの入ってしまった綾子さんは、次々と喚き散らします。アパートの皆さん、ごめんなさい。

「別にいいだろ。結婚すんのも一人でいるのも、個人の自由じゃねえか。お前が気にすんなよ。」

面倒くさそうに言う椎枝くんに、すかさず綾子さんが噛みつきました。

「うるせえんだよ!!あ、あたしだってなあ!?好きで今まで、一人でいたわけじゃねえ!!ダメなんだよ、優しくできねえんだよ、素直になれねえんだよ!!わかってんのにどうしても、いつもキツくあたっちまう。なんで、なんで男はみんな、いつも、いつも。あたしのこと、わかってくれねえんだよ!!」

ちくしょう。呟く綾子さんの目に、涙が浮かんできました。涙はみるみると溢れ、頬を伝い、ちゃぶ台に落ちていきます。

梶兄(カジに)ぃだってなあ、梶兄ぃだって。ホントは、あたしが好きだったんだ!小さい頃から、ずっと、ずっと、お()ぇより先に、あたしが好きだったんだぞ!?家庭教師に来てくれた時は、ホントに嬉しかった。なのに!いつもニコニコして優しいお姉ぇの方に、あっさり行きやがって!ふざけんなよ!!」

えぐっ、えぐっと子供のように、綾子さんが泣きじゃくります。

「誰だか、知らねえけどよ。別に、いいじゃねえか。自分を好きにならない奴の事なんて、考えても意味ないだろ。」

椎枝くんの水をさすようなドライな言葉に、とうとう綾子さんがキレました。立ち上がり、椎枝くんに掴みかかります。

「アンタに、あたしの何がわかる!?きいた風な口きいてんじゃねえよ、童貞のくせによぉ!!どーせ、女好きになったことなんか、ねえんだろ!?気持ち悪いツラしやがって、変態野郎が!!お前にあたしの気持ちなんか、わかるわけ…。」

椎枝くんの胸ぐらを掴んで怒鳴っていた綾子さんが、フッと我に帰り、言葉を止めました。椎枝くんが、とても悲しそうな顔をしていたからです。綾子さんの手の力が自然に抜け、椎枝くんの胸元から離れていきました。

「俺だって、お前と同じだよ。俺だって好かれてぇ、愛されてえ。でも、顔見りゃわかんだろ。誰も、愛しちゃくれねえよ。どうすればいいかもわからねえしな。」

椎枝くんは自重するように、言います。

「そんな、モン…。」

お前のただの思い込みじゃねえか、と言いかけて、綾子さんが言葉に詰まります。今まで散々、よく知りもしない椎枝くんを変態扱いしたことに思い当たったのでしょう。つい先程も、椎枝くんの外見について罵倒したばかりです。

「ごめん…。」

しおしおと、綾子さんが座り込みました。ちゃぶ台を挟むように、椎枝くんも座ります。

「気にしちゃいねえよ。慣れてる。」

椎枝くんはいつも通り、淡々としています。

「アンタ、さあ。」

しばらくの沈黙のあと、綾子さんが会話を切り出しました。

「こうして話してると、けっこう普通じゃん?なんで、ドM?なわけ。アンタのトシで既に変な性癖に目覚めてるとか、ありえねえだろ。」

綾子さんの言葉に、椎枝くんは「ほっとけよ。」と短く答えましたが。納得いかないと言いたげな顔で見ている綾子さんに、仕方ねえな、といった感じで語り始めます。

「幼なじみのな。ちょっと可愛い子が、いたんだよ。幼稚園から、ずっと、一緒の。明るくて、かわいくて、みんなの人気者で。ずっと、小さい頃から、俺の事をすけべ、しいえじゃなくて、すけべ、って呼んで、意地悪してた。女子のリーダーみたいな感じだったからな、他の子もみんな、すけべ、すけべ、って呼ぶようになって。だんだん、すけべ菌、すけべ菌がうつるー!とか言って、いじめるようになった。まあ、そりゃ俺としちゃ、当然嫌だったんだが…。」

思い出し、思い出し、椎枝くんが語る話を、ふんふん?と頷きながら、真面目な顔で綾子さんが聴きます。

「それがな。中学校に上がった頃からだ。あいつが、俺をいじめなくなったのは。まあ、あいつは可愛いし、人気者だし。わざわざ俺に関わる理由なんか、あっちにとっちゃ特に、ないわけで。要するに、かまってもらえなくなった。」

椎枝くんが、ちら、と綾子さんを見ます。綾子さんは話がよく見えねえな、と思案顔です。椎枝くんが、ため息をつきました。

「わかんねえかなあ?いじめてすら、もらえなくなったんだよ。無視、っていうなら、まだ我慢もできる。意図して無視してるってことは、俺の存在を認識してくれてるって、事だからな。あいつにとって俺は、無視すらされない存在。そこにいない人間になっちまったんだよ。」

椎枝くんは必死に自分にとってそれがいかに重大事件だったのか、言葉を慎重に選んで訴えますが。綾子さんは相変わらずキョトンとした顔で、「それで?」と椎枝くんを見ています。

「俺は結局、あいつが俺をいじめて、かまってくれるのが嬉かったんだよ。あいつにいじめられたかった、もっといじめて欲しくて、もっと側にいたかったから、あいつから離れなかったんだ。あいつが俺をいじめなくなって、初めてわかった。俺は、いじめられたくて、いじめられたくて、たまらない。ドMの変態野郎なんだってな。この前、高木?とかいうセンパイに話しかけたのは、なんかあいつに似た、元気で明るくて、俺をいじめてくれそうな気がしたから…。」

椎枝くんが沈痛な面持ちで言葉を切ります。しばしの沈黙が、部屋を包みました。

「え…それで?続きは?」

綾子さんが不思議そうに尋ねます。

「続きもなにも。ねえよ、今ので全部だ。」

困ったような顔で、椎枝くんが答えます。

「え、マジ?マジでそんだけ?なんでもねえじゃん。よーするに、好きなコがかまってくれなくなった、さびしい、俺だって女の子にかまってもらいたい!ってハナシ?なんだよ、普通じゃん。全然普通じゃん。お前、変態でもなんでもねえじゃん。」

あっさりとした綾子さんの反応に、椎枝くんは激しく動揺します。

「ふ、普通のわけ、ねえだろ!こんな顔した奴が、女にいじめられたがってんだぞ?ドMの、変態だろうが。これが普通のわけ…。」

「黙れよ。」

椎枝くんの言葉を、綾子さんが強い言葉で遮ります。

「なんだ?さっきから、こんな顔、こんな顔って。たしかにアンタは不細工だよ?変態ヅラだ、ぶっちゃけ、キモい。でも変態かどうかなんて、ツラで決まるモンじゃねえだろ?黙って聴いてりゃ、マジくだらねえーことで被害者ぶりやがって。アンタさ、そのコに告ったのかよ。俺の方見てくれ、かまってくれって、ちゃんとわかるように伝えたのかよ。自分で勝手に、好きだ、嫌いだ、思い込んで。わかるわけねえだろ、そんなモン。エスパーかよ?そのコは。マジ思い込み激しいな、お前。」

呆れた顔で、綾子さんが言います。椎枝くんは、返す言葉もありません。

「…ったく。アンタ、あたしのハナシ聴いてた?あたしは、な。実の姉に、オトコ取られてんだよ?そりゃもう、昼ドラばりの愛憎入り雑じる修羅場人生送ってきたんだぞ?それが、なんだ?中学生になったら好きなコが急にかまってくれなくなりました。どうしたらいいですか?くっだらねえー。あたしの部屋は子供デンワ相談室かよ?ダイヤルダイヤルダイヤルチーン、回しちゃうのかよって。あのな、不幸ぶるなら、あたしのカコ(バナ)に見合う重さのハナシをしろ!アンタ、人生終わったようなツラして、何。まだ始まってすら、いねーじゃねーか!?」

椎枝くんと綾子さんが、しばらく見つめ合います。「ばぁか。」綾子さんがポツリと言いました。

「あーあ、マジ、拍子抜け。どんなキモい変態なのかと思ったら、マジ、ただの童貞かよ。やってらんねー、あほくさ!なんか、一気にどうでもよくなったわ!」

綾子さんがどでっと、後ろにひっくり返ります。

チッ。悔しげに舌打ちした椎枝くんが、「お前だって、男とヤッたこと、ねえだろ。」ボソリと、呟きます。

「…ハーン?」

ニヤニヤしながら、綾子さんが起き上がってきました。

「そーいうこと、言っちゃうんだ。かわいくないなあ、ボク。じゃ、おねーさん。キミで初体験、済ませちゃおっかなー。」

ずい、と綾子さんが顔を近づけてきます。ゴクリ。椎枝くんが、思わず唾を飲み込みました。

「なに期待してんだ、ばーか。やーいすけべー、しいえじゃなくて、すけべー!ゴリラさんゴリラさん、ここにすけべがいますよ?助けてくださーい?」

ケラケラと子供のように、無邪気に綾子さんが笑います。

「な?フツーだろ。こういうの、やりたかったんだろ?フツーだ、フツー。お前、全然変態じゃねえよ。童貞なんて、みんなそんなモンだ。お前だけがおかしいんじゃねえ、安心しろ。」

ふん、と笑って、綾子さんが立ち上がります。怪訝な顔で見上げる椎枝くんに、「おしっこでーす、文句ありますかー?」と言って、ケラケラ笑いながら綾子さんはリビングを出ていきました。

「…ったく。酔っぱらいが。」

椎枝くんは悔しそうに言います。

「ゴリラだって居るのに。襲えるわけ、ねえだろ。」

なあ?とゴリラの方を見ると、ゴリラは真っ赤になってドキドキしています。

「なんでお前が照れてるんだよ。」

椎枝くんは呆れた顔を浮かべました。

洗面所の方で、どでっ、と音がします。様子を見に行くと、トイレから出てきた綾子さんがぶっ倒れて、そのままガーガー居眠りを始めていました。

「…ったく。中学生だぞ、俺。刺激が強すぎるだろ。」

椎枝くんが、気持ち良さそうに寝ている綾子さんを担ぎ上げます。

「重っ!!おいゴリラ!恥ずかしがってないで手伝え!」

椎枝くんが、リビングでもじもじしているゴリラに声をかけました。



7.


6日めの、夜。仕事から帰ってきた綾子さんは、珍しくちゃぶ台の前に座って窓の外を見ている椎枝くんを見て、不思議そうな顔をしました。

「珍しいじゃん?アンタが起きてお出迎えしてくれるなんて。いっつも寝っ転がって、こっち向きもしねーのにさ。」

綾子さんがいそいそと部屋着に着替え始めます。椎枝くんが、慌ててそっぽを向きました。

「いまさら何焦ってんだよ、すけべークン。こんなのもう、慣れっこだろ?あたしとアンタの仲じゃねーか。あ、何?ひょっとして、明日でお別れだから、おねーさんのこと意識しちゃった?んー?」

綾子さんが顔を近づけてきます。こういうところ、幸恵さんの血縁者なんだなあ、と思いますよね。

「まあな。」

素っ気なく、椎枝くんが答えます。

「ありゃ。認めちゃった。」

意外そうな顔で、綾子さんが言いました。

「1週間。早かったよな。」

椎枝くんが、独り言のように言います。

「ああ、いろいろあったけど、よ。明日でもう、これも終わりだ。」

綾子さんも、どことなく、思うところがありそうです。

「せいせいした!だろ?」

綾子さんのセリフを先回りしたように、椎枝くんが言います。

「まあな!」

綾子さんは明るく答えます。何か言いたげな顔を、椎枝くんが向けてきました。

「何だよ?ンな顔すんなって!アンタならもう、大丈夫だ。自分がフツーだって、もう、自分でわかったんだろ?幼なじみのコにでも、サトミ?ってコにでも、告りゃいいじゃん。アンタなら、出来るよ。」

綾子さんが、ハァー、とため息をつきました。

「いーよなあ、アンタらは、若くてよ。こっから、いくらでも人生、巻き返しきくじゃん。アンタは顔はキモいし、性格もムカつくけど、それだけのオトコじゃねーよ。あたしだって、ムダにアンタの倍以上生きてねえんだ。いろんなオトコ見てきた、あたしが保証してやる。アンタなら、大丈夫だ。アンタなら大丈夫。」

うん、うんと綾子さんが笑顔で頷きます。

「…チッ!」

椎枝くんは舌打ちすると、ゴロリと横になり、そっぽを向いてしまいました。

「何だよ。」

ちょっとムッとした綾子さんに、椎枝くんが。

「ありがとよ。」

向こうを向いたままで、呟きました。



そして、翌日の夜。

いつもより早く仕事から帰ってきた綾子さんの部屋には、「ゴリラ」の姿はなく。「椎枝くん」だけがちゃぶ台の前に寝っ転がって、テレビを観ています。

「あれ、アンタだけ?あいつは?」

綾子さんが「椎枝くん」に話しかけます。

「あいつなら、なんか用があるとか言って、出てった。」

「椎枝くん」の答えに、「ん?」と首を捻りつつも、綾子さんは。その違和感の正体に気づかないまま、ずかずかとキッチンに入っていきました。

「今日で最後だ、ってんのに、あいつ。あのカッコで、どこ行ったんだか。まったく、童貞はコレだからかなわねーよな。」

ふふん、と笑いながら。スーパーの袋いっぱいに買ってきた食材を、綾子さんがキッチンに並べ始めました。いつの間にか起き上がってきた「椎枝くん」が、不思議そうに綾子さんを見ています。

「あぁ、コレ?」

綾子さんが照れ臭そうに笑いました。

「あいつ、料理だけはヘタクソだからな。ま、最後だし。おねーさんが、ホントの料理ってモン、見せてやろうかと思ってさ。ゴリラ、ぶったまげんなよぉ。あたし、家庭科は5だったんだぞ?」

フンフンと楽しそうに鼻歌まじりに料理の準備を始める綾子さんに、思いのほか、真面目な声色で。「椎枝くん」が、問いかけます。

「気づいて、たのか…?」

緊張した様子の「椎枝くん」に怪訝な顔をしながらも、「ああ、料理だろ?」と綾子さんは、普通に答えました。

「あいつ、ゴリラが作ったとか、ヘタクソなウソつきやがってさ。バレバレなんだよな。よっぽど、うまく作れなかったのが悔しかったんだろうな。意地張りやがって。案外、かわいいとこあるっつーか?ま、おねーさんは優しいから、残さず食べて差し上げたけど!あーりゃ、ヨメさん苦労するぞぉ?」

クックックック、といかにも楽しげに、綾子さんが笑っています。

「ヘタクソで悪かったな。」

「椎枝くん」が、ぶっきらぼうに言いました。

綾子さんが、再び、「ん?」という顔をします。

「俺は料理できるヨメさんもらうから、心配すんな。世の中、お前みたいなガサツな女ばっかじゃねーんだよ。」

綾子さんの、動きが止まりました。

「ゴリラなら、いねえよ。いい加減で気づけ、バカ。俺が、俺だ。」

ゴトッ。

綾子さんが持っていた玉ねぎを落とした音が、フローリングの床に響きました。


「…どういう、ことなんだよ。」

震える声で、綾子さんが言います。

「どうも、こうも。こういう事だろ。俺は、俺で。最初から、ゴリラと入れ替わってなんか、いなかったってだけだ。」

淡々と答える椎枝くんに、綾子さんがキレました。

「ンなこたわかってんだよ!!そこじゃねえよ!!なんでそんなナメた真似、今までしてたんだ!!わけわかんねえよ!!」

綾子さんの身体が怒りでブルブルと震えています。今まで騙されていたという、怒り。椎枝くんに対して抱いる気持ちの一端を、本人の目の前で嬉しそうに語って見せる形になってしまった、気恥ずかしさ。楽しみにしていた今夜のイベントを、最悪の裏切りで潰された、やりきれない想い。様々な感情が、綾子さんの身体の中で渦を巻いています。

「なんで、って…。お前と、一緒にいたかったから…に、決まってんだろ。」

気まずそうに目を逸らしながら、椎枝くんが言います。

「ハァア!?」

綾子さんが驚きと怒りと悲しみと、もう、わけのわからないごちゃ混ぜの感情を、叫びに変えました。

「だから。お前が、好きだって言ってんだよ。最初から、好きだったんだよ。こっち、中学生だぞ?この間まで、小学生だったんだぞ?お前みたいな綺麗で胸のデカイ女と知り合って、好きにならねえわけ、ねえだろ!しょうがねえじゃねえか!!」

綾子さんの感情に応えるように、椎枝くんも感情をあらわにします。

「初めて会った、あの日。どうしても、お前のことが、頭から離れなくなって。悩んでたら、あのひつじが出てきやがった。ちょうどよく、お前のところにゴリラがいる、これも女神さまのお導きですね。なんて言いやがって、な。で、俺たちで、ひと芝居打つことになった。」

椎枝くんは下を向いたまま、話し続けます。

「なんだ、そりゃ。意味、わかんねえ。」

綾子さんは諦めたように、キッチンのイスに腰を下ろしました。ハァー、と、大きなため息をつきます。

「悪かったな、騙すような真似して。でもな、俺は本当に、お前のことが…。」

「うるせえんだよ!!」

綾子さんの叫びが、椎枝くんの言葉を遮ります。

「どいつこいつも、ふざけやがって。おかしいと、思ってたんだよ。ゴリラに、いきなり惚れるとか。不自然過ぎんだろ…。」

ハン!と鼻で笑うと、綾子さんは気だるげな口調で、椎枝くんに語りかけてきました。

「もーいいわ、なんか、冷めた。冷めちったよ、くっだらねえ。何が女神の奇跡だよ、騙しやがって。結局、奇跡なんか、イッコも起こってねえんじゃねーか…。」

綾子さんの声が、次第に震えていきます。

「お、お前…。泣いてんのか?」

驚いた顔の椎枝くんが、綾子さんを覗き込んできました。

「泣いてねえよ!!」

綾子さんの目から、大粒の涙が次々、こぼれ落ちていきます。

「なんなんだよ、どいつこいつも。バカにしやがって。バカに、しやがって…。」

綾子さんは子供のようにしゃっくりあげ、遂に黙ってしまいました。重い沈黙が、キッチンを包み込みます。

「いや。奇跡は…起こったよ。とっくに、起こってる。」

長い沈黙を破ったのは、椎枝くんの言葉でした。

「俺にとって、俺みたいな奴にとって。好きな女とこんな風に一緒に過ごせて、いろいろ話して。笑ってくれて、泣いてくれて。俺には一生起こらないと思ってたことが、一気に起きた。お前にとっては、なんでもなかったのかもしれないけど。俺には、夢のような1週間だった。奇跡でもなきゃこんなこと、あり得ないだろ。」

椎枝くんの口調はいつも通り、淡々としていますが。彼は元来、こういう口調でしか話せないだけなのでしょう。むしろ今は、無理に感情を抑えているようにすら、見えます。

「だから。そういうのが、キモいんだって。勝手に思い込むなって、言っただろ。一人で盛り上がってんじゃねーよ、ガキが。いらねえよ、そんな言葉。」

綾子さんはもう顔も上げずにただ、ピラッ、ピラッ、と手を振って、「さっさと消えろ」と意思表示をします。椎枝くんは一瞬、何かを言おうとしましたが。その言葉を飲み込んで、黙って頭を下げます。

「いろいろ。悪かった。俺の事は、もう忘れてくれ。」

それだけ言うと、綾子さんに背を向け。椎枝くんはキッチンを後にしました。

後ろ手に、静かに綾子さんの部屋のドアを閉めた時。椎枝くんの両目からようやく、初めての涙が溢れてきました。感情をうまく表せない男の、精一杯の、愛情表現。好きな女の前で涙を最後まで見せなかったことが、彼のせめてもの、男としての意地だったのです。なんの事はない。彼は、不気味ボーイなどではなく。どこにでもいるありふれた、バカで、すけべで、意地っ張りで、ムダにプライドだけが高くて、無理して大人ぶっていて。自分の気持ちに素直になれない、思春期真っ盛りの不器用ボーイ13歳だっただけなのです。

1週間、綾子さんと暮らしたアパートから、ひとり離れて歩いていく、不器用ボーイ。その背後で、彼が先ほど静かに閉めたはずの扉が、バン!と音を立てて開きます。中から飛び出す、涙で化粧がぐっちゃぐちゃになった、酷い顔の、派手ガール?もとい、どこにでもいる、ありふれた不器用ガール、31歳。

「待てよ!!」

しゃっくりあげながら、綾子さんが叫びます。

「なんだよ!今さら、好きとか言うなよ!あたしを、ひとりにするなよ!!」

ワーッ、と小さな子供のように、綾子さんが泣き出します。

「なんだよ、なんだよ。マジ、なんなんだよ、アンタ。いきなり現れて、いきなり居なくなって。言っただろ!あたしはなあ、好きでこのトシまで、ひとりでいたんじゃねえんだよ!!今さら、あたしをひとりに戻すなよ!!あたし…もう、ひとりじゃ生きていけねえよぉ。耐えられねえって。居なくならないでくれよぉ。あたしを、捨てないでくれよぉ…。」

座り込んでしまった綾子さんに、椎枝くんが駆け寄ります。

「綾子ッ…!!」

ぐっちゃぐちゃの酷い顔で、椎枝くんが呼び掛けます。

「ハン!ようやく、あたしの名前、呼びやがって。年下のクセに。お前、とか、生意気なんだよ。童貞。」

涙に曇っていた綾子さんの顔に、パァッと、暖かい笑顔の光が射します。

「うるせえよ。いいトシして、オトコとヤッたこと、ないくせに。」

椎枝くんの顔にも、微笑ましが浮かびます。それは相変わらず、不気味な笑顔でしたが。今の彼は、世界の誰よりも、きっと、自分の気持ちを素直に表現できている、そんな。彼の生涯、至上の笑顔で愛する人を、見つめていました。

「…アンタ、泣いてんじゃん。ダッセーの。」

椎枝くんの顔を見た綾子さんが、噴き出しながら言います。

「さっきから泣いてんのは、お前の方だろ。」

ちょっとだけムッとしたように、椎枝くんは言いました。

彼にとってどうやらそこだけは、最後まで絶対に譲れない、男の意地というやつだったようですね。


物陰から二人のやりとりを聴いていたゴリラは、満足したように頷くと、ひとり。何も言わずに愛の舞台の、アパートを去ります。その背中はちょっとだけ、寂しそうで。大きな背中、揺れる頭が次第に夜の闇に溶け、やがて静かに、見えなくなっていきました。



8.


サトミさんの部屋で、チーン!チーン!と2回、『ときめきラブコンテナ』の目盛りの動く、音がします。

<あのふたり。うまく、いったようですね。>

この1週間、サトミさんの部屋になにげなく住み着いていたひつじさんが、顔を上げます。

「(あの二人って…あの二人?いったい、何が、どうなって。うまくいったんだろ。まあ…別に、いいけど。)」

経緯を知らないサトミさんは、釈然としない表情です。

<じゃ、ぼくはもう、これで。>

ひつじさんはとことこと窓に歩み寄ると、ガラッと窓を明けます。

「帰っちゃうの?」

サトミさんの質問に、ひつじさんは。

<ぼくのやくめは、もうおわりましたので。>

ひつじさんはまるで、もし彼が人間であるならメガネをクイッとでもやるかの如く、事務的な雰囲気で返答します。

<おせわに、なりました。>

ひつじさんは夜空に向かって飛び上がり、あっという間に見えなくなってしまいます。ひよこさんが、パタパタとハネを振って見送りました。

「(そっかぁ…。椎枝くんと綾子さん、うまく、いったんだ。いいなあ…。)」

恋に恋する乙女の見上げる夜空に、一筋の流星。可憐な少女は憧れの人を想い、願いを懸けるのでした。



月の10月は、恋の季節。優しく大きなおッ月さまが。寄り添う二人を、静かに、蒼く照らします。暑くもなく、寒くもなく、1年でいちばん、過ごしやすい季節。ぼちぼち秋の声も聴こえるこんな夜は、恋に落ちるも、良いでしょう。

その夜。日本では、多くの人が一筋の流れ星を目撃し、ロマンチックな想いを夜空に馳せました。

その流星の、落下点。さいたまの、いつもの角で。

<チッ。ようやく、もどってこられた。さすがのおれさまでも、なまみでのたいきけんとつにゅうは、チィとこたえたぜ、ファッデム。>

1ヶ月ぶりに地球に帰ってきた黒いひよこさんが、ひとり、アメリカンジェスチャーで悪態をつくのでした。






















































次回、予告。


「ナアナアナア?マネージャーくん。私、いつまで、このアホみたいなフリフリ着て。アッホくせぇかわいこぶりっこ、してなきゃならねえんだろ。ぶっちゃけ、見てる方もキツくないかい。需要あんの、実際。」


主人公/六道アリス


<へ!いいじゃねえか。いいかんじに、もりあがってきやがった!やってやろうぜ!>


御遣い/龍・ドラグレット


次回、第8話☆大衆愛 ~the idol master~


「化粧も崩れて、髪はボッサボサ。衣装はジャージ、ご丁寧なことに返り血だらけ。ハ!スッゲェアイドルも、いたもんだ。いいぜ、気に入った!この最悪なシュチュエーション、ショボくせえ、チンケなハコ。このステージで六道、アリス。生涯最高、最後のライブ!テメーらに、拝ませてやるァー!!」


coming☆soon!

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