6/12話 ☆ 同性愛~homo sexual~
前回のあらすじ。
くそハム、三度殺されかける。
1.
嵐の9月は、恋の季節。つぎつぎ発生れる台風が、日本列島、縦断し。恋の嵐が、吹き荒れます。
ごらんなさい。ほら、あそこにも。
特大の、恋のタイフーン。ここ、さいたまに、遂に上陸しようとしているようですよ、っと。
2学期。ひさびさの学校へ向かうサトミさんは。いつもの角のあたりで、はたと立ち止まりました。
「圭二くんの、匂いがする!!」
2学期早々、さっそく憧れのイケメン・新帝圭二さんの気配を察知したようですね。相変わらずです。
サトミさんはしゃがみこむと、ふんふんと地面に残った圭二さんの痕跡を辿り始めます。
「奴は、こっちか!」
サトミさんはガサガサと空き地の茂みを掻き分けて進み始めました。ひよこさんがとことこと、あとに続きます。二人は完全に通学ルートから逸れていきます、誰か止めてあげてください。
「近い…そこだ!!」
サトミさんは一気に、茂みの中から飛び出しました。ゴーンと鈍い音を立て、歩道橋が揺れます。
頭から茂みの先の歩道橋に突っ込んだサトミさんは、目を回して倒れてしまいます。大きなヘコみのできた歩道橋を、ひよこさんが見上げています。
「(地震…かな。)」
歩道橋を歩いていたイケメンの圭二さんは突然の揺れに一瞬立ち止まりましたが、気にせずに行ってしまいました。次は頑張りましょう。
「サトミちゃん、サトミちゃん。遅刻しちゃうよー?」
おや。目を回したサトミさんをやさしく起こしてくれる方がいますね。いつの間にかうしろにいた、お友達の梶田幸恵さんです。
幸恵さんはサトミさんをしばらくの間、やさしく起こしてあげようとしていましたが。サトミさんはよほど当たりどころがよかったのか、なかなか起きてくれません。困った顔で、幸恵さんとひよこさんが顔を見合わせます。幸恵さんが「やれ」と親指を下げるハンドジェスチャーで、ひよこさんに指示を出しました。
「はうぁ!?」
おでこにひよこさんのくちばしを突き刺されたサトミさんが、面白い悲鳴をあげて跳ね起きました。状況が飲み込めずキョロキョロしているサトミさんに、「サトミちゃん、おはよー。」と幸恵さんが声をかけます。
「あれ!?幸恵ちゃん!えっと、おはよう!?ていうか、なんか頭いたい!?」
サトミさんはまだ若干の混乱があるようですね。
「いやぁー、まいったまいった!でも、さすが幸恵ちゃん!よく見つけてくれたね、ありがとう!」
なんとか遅刻せずに学校へ着いたサトミさんたちは、教室へ向かう廊下を進みます。
<ゆきえさんには、サトミさんのいばしょが、わかるんですね。>
ひよこさんが感心したように、幸恵さんを見ています。
「幸恵ちゃんはね、私が困ってると。いつも見つけて、必ず助けにきてくれるんだよ!私のヒーローだ!」
嬉しそうに、サトミさんが言います。
「わたしには、わかるのー。」
幸恵さんも、嬉しそうに微笑みます。
「さぁ、2学期だぞ!張り切っていこう!」
先頭のサトミさんが勢いよく、教室の扉を開きます。
一歩、教室に入ったサトミさんが。「はうぁ!?」と本日2回目の、面白い叫びをあげました。
教室の、真ん中。サトミさんの隣の席に、なんと。サトミさんの憧れのイケメンな方、新帝圭二さんが、制服を着て当たり前のように座っているではないですか。サトミさんと幸恵さんは、おもわず顔を見合せます。
イケメンの圭二さんのまわりには既に、クラスの女子どもが群がって、きゃいきゃい騒いでいます。サトミさんは隣の席なので、嫌でもその中に入って行かなくてはいけません。
サトミさんはドキドキしながら、自分の席に進みます。ちなみに、幸恵さんは逆隣の席なので。やはり、同じようについていかなくてはいけません。
なんとなく気まずい気持ちで、圭二さんの方をチラチラ見ながら。サトミさんは席に座ります。
「おはよう。」
圭二さんに普通に挨拶をされて、サトミさんは、まるで掃除機を初めて見たネコさんのように垂直に飛び上がりました。バスケの選手にだって、こんなジャンプはできません。
天井に頭をぶつけたサトミさんが、崩れたコンクリートとともにガラガラと落ちてきます。しかし、恋する乙女は、不屈。バネ仕掛けのオモチャのように、ビヨンと勢いよく立ち上がり、復活しました。
「おおおおはよう!圭二くん!?必殺技が墨田落としで弱点が背中の圭二くん!えっ、なんでいるの!?なんで!?」
サトミさんは完全に我を失っています。
「よく、覚えているね。」
圭二さんがフッと微笑みます。
「高木さん、知り合いなの!?」
「友達?カレシ?いいな!」
クラスの女子どもが容赦なく、二人のやりとりに反応します。期せずして話題の中心になってしまったサトミさんは、あうあうと言葉につまって、意味もなくばたばたと手足を振り回します。
「名前。教えたっけ。」
そんなサトミさんの様子を涼しい顔で眺めながら、イケメン圭二さんはお構い無しに話しかけてきました。
「えっ?あっ!あ、あのね、その。名札!名札、見た。名札、みたんだ、あはははは。」
あわてて誤魔化すサトミさんを、「ふぅん。」と興味なさげに圭二さんはスルーしてしまいます。別に、たいして気になる問題ではなかったのでしょう、か。
「よろしくね、高木里美さん。」
圭二さんに名前を呼ばれて、サトミさんは頭から湯気を噴射し、バッタリと倒れてしまいました。
「(あの人…年上だと思ってたけどー。同学年だったんだー?)」
隣の席で目を回しているサトミさんを見ながら、幸恵さんが首を捻ります。
「(なんだろう…今、あの人。なんか変なこと言ってた気がするー。)」
鋭い幸恵さんは、二人の今のやりとりに、どこか、引っ掛かるものを感じたようですね。いったい、どの部分がおかしかったのでしょう。
「(あと…それとは別に。なんか。気に入らないー。)」
幸恵さんがむぅと、眉をしかめました。
おや。カメラが幸恵さんに寄っていきますよ。
今回の主役は、お待ちかね。
サトミさんのお友達、清楚で胸の大きい、梶田幸恵さんです。
2.
教室が異様な雰囲気に、包まれています。
教室の中央に陣取った、圧倒的なイケメンの作り出す、圧倒的なイケメンオーラ。なんというか、クラシック音楽の演奏とか、フランス料理とか。そういった雰囲気が、教室中に広がっています。男子生徒はなんとなく、みんな背中にキラキラを纏いながら「フッ。」とか言いつつ、前髪をかきあげなければいけないような、そんな衝動に駆られています。
イケメン・新帝圭二さんはさすがイケメンだけのことはあり、すべての行動がサマになっていました。立ち上がる。座る。物憂げに溜め息をつく。窓の外を眺める。時計を見る。その1つ1つにムダがなく、完成されている動き。圭二さんの一挙手一投足にクラスの女子どもの熱い視線が集まり、心音を高鳴らせます。
なかでもこの人。先ほどからすっかりのぼせあがって過呼吸に陥っている隣の席の主人公・高木里美さんは、もはや正常な精神状態にあるとは言えません。
「圭二くんだ、圭二くん。ナマ圭二くんがとなりにいる。ナマ圭二くんのとなり。ナマ圭二くん。」
サトミさんは、声に出てしまっている事にも気づかず。宙に目を泳がせながらナマ圭二くん、ナマ圭二くんとブツブツと呟き続けています。仕方ありませんね。憧れのイケメンが、2mと離れていないすぐ隣にいるのです。恋する女子中学生には、刺激が強すぎます。
「高木さん。悪いんだけど。」
ナマ圭二さんがそんな危険な状態のサトミさんに話しかけます。何をする気なんでしょうか。サトミさんの耐久力はもうとっくに0です。
「テキスト、一緒に見せてくれないかな。まだ、受け取ってないんだ。」
サトミさんが卒倒し、机に頭をぶつけるゴーンという音が響き渡ります。このイケメン、あっさりトドメを刺しやがりました。ピクリとも動かないサトミさんをよそに、圭二さんはちゃっかりサトミさんのテキストを奪い、何事もなかったかのような顔で授業に参加しています。
さいわい、イケメンに注目が集まっているため、クラスの皆はサトミさんの奇行をそれほど気にしていません。
あ、いや。そんなサトミさんの様子を、さっきから面白くなさそうに見ている方が1人、いらっしゃいますね。久々に登場のめがねボーイ・有荘柘雲くんです。有荘くんは斜めうしろの席から、机に倒れ伏したままのサトミさんを、そして、その隣のイケメン圭二さんを、敵意のこもった眼差しで睨み付けています。
一度はサトミさんにプロポーズし、ごめんなさいされると監禁してしまうほど想っていた有荘くんです。今の状況はそれはもう、面白くないことでしょう。そもそも彼はまだ、あきらめていないのです。
ふと、前方からの視線を感じた有荘くんが目をあげると。教室の正面、サトミさんの席の斜め前方向に位置する席から、ロリコン小太り・妹尾武くんが。同じように敵意を込めて、圭二さんを睨み付けています。
この二人が教室を支配する、圧倒的なイケメンオーラの元にあっても自我を保っていられるのは。ひとえに非イケメンとして10年以上の人生を生きてきた者の持つ、パーフェクトなイケメンという存在に対する問答無用の敵愾心、さらにはサトミさんと仲良くしやがって!という強烈な嫉妬心によるところが、非常に大きいのですが。
それ以上に二人は、圭二さんをひと目見たときから、なんというか。「とんでもなく、ろくでもないやつの持つ雰囲気」とでも、いいますか。直感的に「コイツは悪い奴だ!」という良くない印象を、圭二さんに抱いていました。
端的に言えば、かつて二人を散々な目に遇わせてくれた、あの黒いひよこさん。それとまったく同質の存在感を、圭二さんから感じ取り、本能的に警戒しているのです。
そして、もう1人。彼らとは比べ物にならないレベルで先ほどから、面白くないという顔をしている方がいます。そう、サトミさんの隣の幸恵さんです。いつも穏やかな微笑みを絶やさない幸恵さんの顔が、今日は大分イライラと。珍しく、険しい表情になっているようですね。
非モテ二人の思考にシンクロニシティー的な何かを感じた幸恵さんが、「ん?」と顔を上げます。それは教室内に、対・イケメン新帝包囲網。別名、嫉妬ライアングルが形成された瞬間でした。
同時刻。三年生の教室では、なんだか呼ばれたような気がした熱血ストーカー・定家先輩が、「何っスか?」と顔を上げていました。
3.
ティンコー、ティンコー、と、チャイムが鳴り響きます。
昼休み。圭二さんのまわりには、例によってクラスの女子どもが、きゃいきゃい集まってきますが。圭二さんはそんなものにはまったく関心がない、とでも言うかのように、すっくと席を立ってしまいます。
「高木さん。大分、頭をぶつけていたみたいだけど。大丈夫?」
集まった女子どもをまるで意に介さず、圭二さんはサトミさんに声をかけてきます。
「一応、保健室で診てもらおうか。」
圭二さんが、サトミさんを促します。
今朝方から頭をぶつけ過ぎて思考力の落ちているサトミさんは、何も考えずにふらふらと立ち上がり、ついていってしまいます。
幸恵さんとひよこさんが、心配そうにそれを見送ります。
ヒューッ、と、クラスの男子から歓声が上がり、女子どもは、悔しそうにハンケチを噛みしめました。
廊下を進む圭二さんの背中を見ながら、サトミさんは。なんだか、夢の中にいるような、ボンワリとした、不思議な気持ちでいます。
「(圭二くんと一緒に、学校の廊下を歩いているなんて。なんだか、信じられないなあ…。)」
まさに夢のような、シュチュエイション。サトミさんは嬉しいと思うより先に、信じられない、という思いの方が強く出てしまいます。
これは今朝、歩道橋に頭をぶつけて気絶した、自分の観ている夢なのではないか。そんな考えがサトミさんの頭をよぎりますが。散々ぶつけた頭の痛み、特に、ひよこさんのくちばしを突き刺されたおでこの痛みが、これが現実であることを証明しています。
おでこに手を当てて前を見ていなかったサトミさんは、いつの間にか立ち止まっていた圭二さんの背中に、ドンとぶつかってしまいます。
「あ!ごめん…。」
顔を上げたサトミさんは、圭二さんが窓の外を見ていることに気付き。同じく、窓の外へ視線を飛ばします。
圭二さんの視線の先には、築地本願寺に似た、エキセントリックなデザインの建物がありました。
「あ!アレね。アレ、武道場、なんだ。ほ、ほら、剣道とか、カラテ?とかの。校長先生がそういう武道とか、好きな人でさ。ヘンなデザインだよね?あはは。」
サトミさんはあわあわと、圭二さんに説明します。
「武道場…。」
圭二さんが「武道場」という言葉に反応を示しました。
「あ!興味、ある…?行って、みようか…?」
サトミさんの提案に無言で頷くと、圭二さんはまた、すたすたと先に歩いて行ってしまいました。
昼休みで無人の武道場の中は薄暗く、独特の雰囲気があります。
板張りの、広い床が、半面。もう半面は、赤と緑に色分けされた、柔道に使われる畳の床。壁には竹刀や木刀が架けられており、正面には、大きな鏡。その上には「乗り越えられた限界はまだ、それが自分の限界でなかっただけである/大リーグ イチロー選手」と、大振りの筆で書かれた額縁が飾ってあります。
サトミさんは授業で何度か、この武道場に入ったことはありましたが。今日は、人がいないせいか。しんと静まりかえった武道場からは、神秘的な、なんだか、ここにいてはいけないような空気をサトミさんは感じるのでした。
入り口で立ち止まっているサトミさんとは対照的に、圭二さんはまるで自分の家であるかのように遠慮なく、奥に進んでいってしまいます。圭二さんはしばらく、なにかを確かめるように歩いてみたり、立ち止まって床を何度か踏んでみたり、していましたが。やがて、板張りのスペースの正確な中心にくると、神棚に一礼し。自然体のまま、正面を向いて立ちました。
圭二さんの、雰囲気が変わりました。立ち姿は先ほどまでとまったくかわらない、普通のままなのですが。その普通に立っている姿勢が、既に次の動きの「構え」として、機能しています。
サトミさんは、圭二さんのただならぬ雰囲気になんだか緊張してしまって。声をかけられず、見守っています。
圭二さんが滑るように、床を移動し始めました。前後、左右。それにそれぞれ、斜め45度を加えた、ちょうど、漢字の「米」の字を書くような動き。決して速い動きではないのですが、まったくのムダがなく。圭二さんの身体が一切揺れないまま、次の位置、次の位置へと移っていく様は、まるでテレポーテーション(瞬間移動)を繰り返しているようにさえ見えます。
サトミさんには、「たぶんなんか、武道のやつの動き?」くらいにしか理解できませんでしたが。日本舞踊のような優美さをもつ圭二さんの動きを、サトミさんは魅入られたようにただじっと、見つめ続けていました。
「こらぁ、武道場は授業以外は、立ち入り禁止だぞ!誰じゃあ!」
武道場の静寂が突如、無粋な怒声で引き裂かれました。圭二さんが動きを止め、サトミさんが振り返ります。
そこには、Tシャッツにジャージ姿の、クマのような「体育の先生」が立っていました。
「あ!体育の先生!すいません!あの…。」
慌てるサトミさんを遮るように、圭二さんが口を開きます。
「すいませんでした、体育の先生。僕、今日転校してきたばかりで。存じなかったものですから。」
圭二さんは頭こそ下げませんが、意外にも素直に謝ります。
「転校生…?ふん、二年か。」
体育の先生が、圭二さんの名札をちらっと確認します。
「ずいぶんと華奢だな。そんなチャラチャラしたナリで、お前。何か武道をやるのか。」
馬鹿にしたように、体育の先生は言いました。
「どうせ、女の前でカッコいいところをみせようとしたんだろ?髪なんぞ伸ばして、色気づきやがって。」
素直な態度こそとってはいるものの。コイツは、ちっとも悪いと思っていない。長い教師生活で鍛えられた体育の先生の目は、圭二さんの口先だけの謝罪などにはごまかされません。そう、慇懃無礼。丁寧な口調からは、その実、まるで相手に対する敬意が伝わってきません。だいたい体育の先生体育の先生って、さっきから、こいつら。俺の名前がまるで、体育の先生みたいじゃないか。
「古武道を、少々。祖父が、道場を持っているもので。」
圭二さんは体育の先生の挑発は気にせずに、平然とした態度で体育の先生の質問に答えます。
「古武道!」
体育の先生が噴き出しました。剣道や柔道、カラテなどの武道ですら近代スポーツのトレーニングを取り入れる時代に、堂々と古武道なんて言葉を出してくるとは。コイツは、あれだ。格闘技マンガに感化されてちょっとかじって、中学二年生がよくかかる病気を発症しているにちがいない。体育の先生の表情に、意地悪な笑みが浮かびます。
「古武道とは、珍しいなあ。いったい、どんな奥義(笑)が使えるんだ?先生にちょっと、見せてくれよ。」
体育の先生がのしのしと、圭二さんの前に歩いていきます。向かい合うと、クマのような体育の先生と華奢なイケメンの圭二さんでは、まさに大人と子供のような体格差がありました。
「柔道、ですか。それなら、畳の方が良いでしょう。」
体育の先生のクマのような肉体を一瞥して、圭二さんが言います。
体育の先生は「お?」と不思議そうな顔を一瞬浮かべましたが、さっさと畳の方へいってしまう圭二さんを見て、ちょっとムッとした様子を見せます。
「(脅かして、からかってやるだけのつもりだったが。そっちがその気なら、いいだろう。女の前で、ぶん投げて、泣かせて、恥かかせてやる。)」
体育の先生は未だ、圭二さんを甘くみているようですが。自分に背中を向けている、その相手の顔が。残酷な笑みを浮かべているのを、体育の先生からは残念ながらみることができません。
ハラハラしながらサトミさんは、二人の成り行きを見守っています。
「サァこい!」
畳の真ん中で向かい合うと、体育の先生はそのクマのような胸板をドンと叩きました。圭二さんがスッと頭を下げたその隙に、体育の先生は怒濤の勢いで圭二さんに掴みかかってきます。「サァこい!」といっておきながら、なんという、卑怯。いいえ、これは柔道の奥義、先手必勝というやつです。卑怯では、ないのです。
体育の先生のクマのような腕が、宙を切りました。体育の先生にはまるで、圭二さんが突然消えたように感じます。二歩。右、45度前。前。先ほど見せた、足捌き。たったそれだけの動きで、圭二さんは体育の先生の斜め後ろに回り込んでいました。
掴む相手のいなくなった体育の先生は、その勢いで前につんのめります。体勢を崩した体育の先生の脚を圭二さんが払い、体育の先生の身体が反転、頭から床に落ちていきます。
「(死ぬ!?)」
体育の先生が死を予感し、サトミさんが思わず目を覆いました。
とすん。やさしい落下音がし、二人がおそるおそる目を開けると。
体育の先生は畳の上に、長座の姿勢でやさしく着地させてもらっていました。ネコさんのように、Tシャッツの首もとを掴まれているのがなんともチャーミングです。
あの一瞬のうちに、圭二さんは体育の先生のクマのような巨体を空中でもう半回転させ。さらに、引っ張りあげることで大幅に落下の速度を減衰させたのでした。文句なしの、イッポンです。
体育の先生がようやく、自分が死にかけたことを思いだし、ガタガタと震えはじめました。圭二さんはTシャッツを掴んでいた手を離すと神棚に一礼し、サトミさんのいる入り口へ戻ってきます。
「さっきの、技?もしかして…。」
武道場から教室へ戻る廊下を進みながら、サトミさんが圭二さんに話しかけます。
「墨田落とし。」
あ、やっぱり、アレがそうなんだ。圭二さんの素っ気ない答えに、サトミさんは納得した表情を見せます。
2学期初日から次々と巻き起こる非日常的なイベントにドキドキしっぱなしのサトミさんは気づきませんが。
圭二さんは実は今までに何度も、この技でサトミさんを容赦なく電柱に突き刺しているのでした。
嵐のような2学期初日は、まだまだ続きます。
4.
「それでね!体育の先生が、こう、くるっとまわって。死んじゃうかと思ったのに、ふつうに座ってて!なんかね、よくわかんないけど、すごくて!墨田落とし?っていう必殺技なんだって!」
放課後。上気した顔のサトミさんが、興奮ぎみに昼休みの出来事を語ります。しきりにすごいの!すごかったの!と圭二さんのすごさを伝えようとするサトミさんに対し。おや。
話を聞いている幸恵さんの方は、「そう。」とか、「ふうん。」とか、実に微妙な反応を繰り返しています。いつも優しい笑顔でサトミさんの話を聞いてくれる幸恵さんにしては、実に珍しい事ですね。なんだか相当、ご機嫌ななめのようです。
サトミさんが昼休みを一緒に過ごしてくれなかったのは、幸恵さんにとって初めてのことでした。しかも当のサトミさんは、幸恵さんではない人と過ごした、幸恵さんの一緒にいない間に起きた出来事を、とても楽しそうに教えてくれるのです。
幸恵さんはイライラと、不快な気持ちがこみ上げてくるのを抑えられません。
「圭二くん、なんであんなすごいんだろ?イケメンで、しかもすごいとか!すごくない!?あ、ていうか結局保健室行かなかった、頭いたい!」
サトミさんは実に嬉しそうに、話を続けています。幸恵さんの反応の悪さにも、まるで気づいていません。
「わたし、こっちだから。じゃあね。」
いつもの角に着くが早いか、幸恵さんはさっさと話を打ちきり、足も止めずに行ってしまいます。
「あ!また明日ねー!」
手を振るサトミさんは結局最後まで、幸恵さんがいつもの口調ではないことに気がつきませんでした。
「(なんだか、なあ。)」
1人になった幸恵さんは、不快な気持ちを吐き出すようにため息をつきます。今までも、サトミさんがイケメンの圭二さんに夢中になり、まわりがまるで見えなくなるのは、よくあることでした。しかしそんな時でも、サトミさんは必ず、幸恵さんのことだけは見ていてくれたのです。今日のサトミさんは、まるで。一緒にいても、幸恵さんのことが、目に映っていないかのようです。気づけば今日1日、学校で二人は会話らしい会話をしていませんでした。
「(なんだか、なあ。)」
幸恵さんが2度目のため息をついた、その時。幸恵さんの後方、いつもの角のあたりから。ドーンと何かが電柱に突き刺さる、聞き慣れた衝撃音が聴こえてきました。
「(サトミちゃん!?)」
幸恵さんは思わず、来た道を足早に引き返します。
いつもの角の、いつもの電柱には、サトミさんの姿はなく。かわりに、一匹のいぬさんが頭から電柱に突き刺さっていました。
幸恵さんはしばらく、いぬさんの様子を眺めていましたが。
とりあえずそのままではナンなので、電柱から引き抜いて、地面に下ろしてあげることにしました。
いぬさんは<ぬぅ。>とか、<むぅ。>などと、苦しげに唸っていましたが。幸恵さんに「冷え冷えシート」を貼りつけられそうになると、本能的に危険を察したのか。ガバッと跳ね起きて、幸恵さんから距離をとります。
「犬さん、大丈夫ー?」
状況が飲み込めずにキョロキョロしているいぬさんに、幸恵さんが話しかけます。幸恵さんの持っている「冷え冷えシート」と、自分が気絶していたらしい状況。さらに、幸恵さんの後ろに見える、ちょうど自分の大きさの穴の空いた、電柱。
それらが頭の中で繋がり、いぬさんは。<ああ。また、やってしまたか。>と呟きました。
<どうも、ちじょうはせまくて。きょりかんが、つかめない。やはり、あまりはしらないほうが、いいのか。>
いぬさんは気まずそうに、自分が刺さっていた電柱を見上げています。
ふと、いぬさんが自分を見ている幸恵さんの視線に気がつきました。<おぉ。>と、いぬさんが幸恵さんの方に向き直ります。
<すまないな。うつくしい、むすめ。どうやら、せわになったようだ。>
いぬさんペコリと、幸恵さんに頭を下げます。
<さて…ヤツは。このあたりから、ヤツのにおいがしたのだが。>
いぬさんはふんふんと地面に鼻を近づけ、「ヤツ」の痕跡を辿ります。
<ヤツは…こっちか。>
そのままいぬさんは、空き地の茂みに入っていってしまいます。さりげなく、幸恵さんがそのあとに続きます。
<ちかい…そこだ!>
いぬさんがダッと、茂みから駆け出します。予想通り、ゴーンと鈍い音を立てて歩道橋が揺れました。
ずるずると力なく、いぬさんが崩れおちていきます。2つ並んだ歩道橋のヘコみを見上げながら、幸恵さんは。「(なんだか、サトミちゃんみたい。)」と、小さな笑みをこぼすのでした。
幸恵さんの部屋。ベッドの上で、いぬさんがノビています。呼吸にあわせて上下するお腹を、くすくすと笑いながら幸恵さんが時折、突っつきます。
あ、と思いついた幸恵さんが「冷え冷えシート」を取り出し、いぬさんに近づけます。いぬさんが超反応で跳ね起き、ダッと飛び退きました。よほど、アニマルウォリアーにされるのが嫌なのでしょう。
いぬさんはしばらく、落ち着かない様子であたりを見回していましたが。自分の前に先ほどの「うつくしいむすめ」がいることに気づくと、状況を理解したようでした。
<すまないな。うつくしい、むすめ。すっかり、せわになってしまった。>
いぬさんが頭を下げます。
「ゆきえ。」
幸恵さんに声をかけられ、いぬさんが顔を上げます。
「名前。梶田幸恵、ゆきえ、でいいよー。いぬさん。」
幸恵さんの言葉に<おぉ。>と合点がいったようで。
<いぬじろうだ。>
いぬさんも、自分の名前を名乗りました。
「いぬじろうさん?変わった、名前だねー。」
幸恵さんは頭の中でピヨコット、ロバート、チューペット…と、御遣いたちの名前を並べます。幸恵さんは知りませんが、いのししのマーガレットさんもいましたね。あと、ホワイトタイガーさん。
<てんし、だからな。それは、いろんななまえがいるさ。>
幸恵さんの考えを読んだかのように、いぬさんが言います。気のせいか、ちょっとだけ。悲しそうな顔をしたようにも見えました。
「あ、天使さまなんだー?」
幸恵さんが嬉しそうに顔を輝かせ、いぬさんを見ています。
<みつかい、というのだがな。>
答えながら、いぬさんは。目の前の「ゆきえ」が、天使と名乗るしゃべる犬があらわれてもまったく驚かないことを、不思議に思いました。
<(まえにとうきょうにきたときには、「ぬお!?いぬがしゃべりおった!」などと、みんな。ひどくおどろいたものだが。)>
いぬさんは、70年ほど前に訪れた「東京」を思い浮かべます。
<(いまのじだいのこどもは、こころがつよいのだろうな。)>
いぬさんは幸恵さんをしげしげと眺めて、なんとなく納得します。
<(それに。からだのせいちょうも、よい。)>
いぬさんの目線が幸恵さんの胸のあたりにいき、あわててイカンイカンと目を逸らします。
「いぬじろうさんはー。いぬパンチの、いぬじろうさん?」
不意に話しかけられ、いぬさんが飛び上がります。なかなか、憎めない方のようです。
<いぬパンチ。それはたしかに、おれの、ひっさつわざだが…。>
ドキドキしながら、いぬさんが答えます。
「じゃあ、やっぱりー。ピヨコットちゃんのいつも言ってる、いぬじろうさんだー。」
幸恵さんの口から出た名前に、いぬさんが食いつきました。
<ピヨコットをしっているのか!ピヨコットは、ぶじ。げんきで、やっているのか?>
いぬさんの表情に若干の、不安がみられます。4月の終わりに別れて、4ヶ月と、少し。大分、心配していたようですね。
「うん。元気だよー。頑張って、天使さまのお仕事してるー。あ、今、友達のところにいるからー。わたしと一緒にいれば、明日、会えるよー?」
いぬさんは安心したように、<そうか…。>とため息をつきます。しばらくピコッ、ピコッと、窓の外を眺めながら耳を動かしていましたが。
<もうしではありがたいが、うつくしい、むすめ。おれは、ヤツをおわなくては、ならない。ピヨコットには、げんきでやれといっていたと、つたえてくれ。>
いぬさんは窓の外へ向けて、跳躍の体勢をとります。
<では、さらば…。>
言いかけて、思い出したように、いぬさんが振り返ります。
<そうだ、うつくしい、むすめ。せわになった、れいというのでも、ないのだが…。>
いぬさんの言葉を、幸恵さんが「ゆきえ!」と遮ります。
<お、おぅ、ゆきえ。>
いぬさんが気恥ずかしそうに、言い直しました。
<ゆきえ。ゆきえは、こいになやんでは、いないか。>
いぬさんが真剣な顔で、幸恵さんに訊きます。幸恵さんは意外そうな顔で、その言葉を少し、考えていたようですが。
「わたしはー、大丈夫!わたしの大好きなひとはねー。いつも、一緒にいるんだよー?」
笑顔で、いぬさんに答えました。
<そうか。もし、なにかなやみがあるなら、ちからになりたかったのだが…。>
いぬさんは、申し訳なさそうにしています。
<では、こんどこそ、さらばだ!>
いぬさんは頭から、窓ガラスに突っ込んでいきました。きらきら綺麗に輝くガラスの破片とともに、いぬさんがアスファルトの路面に落ちていきました。
翌朝。いぬさんを連れた幸恵さんは、ウキウキとした気持ちで学校へ向かいます。幸恵さんの部屋の窓を破壊してしまったいぬさんは、なんでも、ウデのいい職人さんの心あたりがあるそうで。
結局。その修理が終わるまで、幸恵さんと行動をともにすることになりました。せっかくだしー、ピヨコットちゃんにも会っていけばー?という幸恵さんの提案を、いぬさんもさすがに今度は大人しく聞き入れました。
「(サトミちゃん。サトミちゃんに、はやくいぬじろうさん、会わせてあげたいな。サトミちゃんも、ピヨコットちゃんも、きっと喜んでくれる。)」
幸恵さんの歩調が、次第に速くなっていきます。
「(サトミちゃん。わたしのところにも、天使さま、来たんだよ。わたしもこれで、サトミちゃんと、おんなじ。サトミちゃんと一緒、嬉しいな!)」
嬉しそうに前を進む幸恵さんを見て、なんだかいぬさんも、嬉しい気持ちになります。やがて二人は、いつもの角にやって来ました。いつも通りなら、サトミさんの現れる頃合いです。
「(あっ!)」
角を曲がった幸恵さんが突然足を止めました。その視線の先には、サトミさんではなく。イケメンな方、圭二さんがいます。
幸恵さんの目は、圭二さんの足元に釘付けになりました。圭二さんの足元には、黒いひよこさんがちょこちょこと、ついて歩いています。
「(ウソ…なんで…?)」
幸恵さんは目を見開いたまま、そこに固まっています。
<じゃあな、けいじ。おれはこっちだからよ。>
黒いひよこさんはがさがさと、公園の茂みの中に入っていきます。黒いひよこさんと別れた圭二さんは、なんでもないような顔をして先に行ってしまいました。
心配そうな顔で、ただならない様子の幸恵さんを、いぬさんが見上げています。
「いぬじろうさん。いぬじろうさんは、なんで、ひよこじゃないの?」
震える声で、幸恵さんが言いました。
5
結局。なんとなく気まずくなってしまい、その日、いぬさんがサトミさんに紹介されることはありませんでした。幸恵さんのいる校舎を、いぬさんはちょっと寂しそうに眺めています。
今日もサトミさんはゴキゲンで、隣の幸恵さんは逆に、とんでもなくフキゲンです。圭二さんのちょっとした動き、ちょっとした言葉にいちいち楽しく目を回すサトミさんが、幸恵さんの神経をイライラと逆撫でします。
そんな二人の様子に圭二さんはまったくの知らんぷりで、そして。何故か、関係ない有荘くんと武くんの二人が、幸恵さんがいつ爆発するかと、ビクビク怯えて過ごすのでした。
授業が終わると、幸恵さんはガタッと席を立って、すぐにいなくなってしまいます。今の幸恵さんは、サトミさんの隣に1秒でも長くいることが、耐えきれない苦痛だと感じ始めていました。
放課後。1人、足早に教室を去ろうとする幸恵さんを、サトミさんがあわてて追いかけます。幸恵さんはとてもとても、サトミさんと一緒に帰りたい気分ではなかったのですが。見つかってしまっては逃げるわけにもいかず、仕方なくいつものように、並んで帰ります。
「やっぱりさー、圭二くんって、カッコいいね!」
サトミさんがキラキラと目を輝かせ、語りかけてきます。幸恵さんには、もはやサトミさんの話している内容が、まったく頭に入ってきません。ただ、「圭二くんが~、」「圭二くんは~」とサトミさんの口からその言葉が出る度に、幸恵さんの感じている不快指数がハネ上がっていきます。
「あ、それでね!今月の、23日の、土曜日…。」
言いかけたサトミさんはようやく、様子の明らかにおかしい幸恵さんに気づいて、言葉を止めます。
「幸恵ちゃん、どうしたの?大丈夫?」
まったく心当たりがないと言うかのような顔で覗きこんでくるサトミさんを見たとき、ついに幸恵さんの我慢が限界を迎えました。
「あのね。わたしはあの人に、興味、ない。」
いつになく厳しい口調で話す幸恵さんを、サトミさんが驚いた顔で見ています。
「圭二くん、圭二くん、圭二くんって、いい加減にして。昨日から、そればっかり。わたし、別にいらないじゃない。そんなにあの人が好きなら、あの人と帰れば。」
サトミさんが信じられないものを見るような顔で、幸恵さんの言葉を聴いています。しかし、限界を迎えてしまった幸恵さんは、もう止まりません。乗り越えられた限界はまだ、それが自分の限界ではなかっただけ。逆に言えば、乗り越えられなくて迎えてしまった限界は、もう本人の意思ではどうしようもないものなのです。
「サトミちゃんは、わたしよりあの人の方が、好きなんでしょ。今日だって、ずっとあの人の方、向いてたもんね。隣からそれを見てた私が今日1日、どんな気持ちだったか、わかってる?本当はサトミちゃんだって、わたしなんかよりあの人と一緒にいたいんでしょ。わたしなんか、もういらないんでしょ。」
淡々と、幸恵さんが自分の想いを吐露していきます。幸恵さんにとっては昨日から我慢に我慢を重ねての不満の爆発なのですが、残念ながらサトミさんには幸恵さんが突然、理不尽にキレ出したようにしか感じられません。
「幸恵ちゃん、本当、どうしちゃったの?私が幸恵ちゃんのこと、いらないなんて思うわけ、ないじゃん!私、幸恵ちゃんのこと、イチバンの友達だと思ってるし。イチバン、大好きだよ?」
サトミさんの言葉に、幸恵さんの表情が一瞬、いつもの優しさを取り戻したかように見えました。しかし、それも。そのあとに続いた「…そりゃあ、私は、圭二くんのことも、同じくらい、大好きだけど…。」というサトミさんの言葉を聴いて、一瞬で消え去ってしまいます。
「イチバンの大好きは、二人もいない。」
一段トーンの下がった声で、幸恵さんが呟くように言います。
「…サトミちゃんは、わたしのイチバンだよ?サトミちゃんは、わたしがイチバンじゃ、ないの?誰かと一緒とか、誰かと比べるとか。イチバンって、そういうのが、もう全然関係ない人の事だよ?」
真剣に訴えてくる幸恵さんの様子に、サトミさんは明らかに困惑しています。
「ヘンだよ、幸恵ちゃん。今日の幸恵ちゃん、本当に、ヘン。どうしちゃったの?いきなり、そんな事言い出すなんて。幸恵ちゃんも圭二くんも、どっちも私の大切な人だよ?どっちがイチバンとか、どっちが好きとか。そんなの、おかしいよ!」
一方的に言われ続けていたせいか、サトミさんも少し、語気が荒くなります。二人はお互いに、「(どうしてわかってくれないの!?)」という想いで、お互いを見つめていました。
「おかしいのは、サトミちゃんの方だよ。」
冷たく言い捨てると、幸恵さんはサトミさんに背を向けて、1人で歩き始めてしまいます。
「幸恵ちゃん!」
サトミさんが、あわてて呼び止めますが。「何?」と振り返った幸恵さんに睨み付けられたまま言葉に詰まっているサトミさんを呆れたように一瞥すると、幸恵さんは今度はもう振り返ることなく、歩いていってしまいました。
「幸恵ちゃん…。」
泣きそうな顔で、サトミさんは呆然と立ち尽くしています。
足元のひよこさんが、困ったようにサトミさんを見上げています。
<(ふむ…。あの、むすめたち。ほうっては、おけんな。)>
物陰から二人の一部始終を見ていたいぬさんが、声に出さずに、呟きました。
6.
公園の茂みの中をがさがさと、黒いひよこさんが進みます。この先には、先日彼の発見した、「おもしれぇモノ。」大通りの、歩道橋があります。
2学期から圭二さんがサトミさんたちの中学校に転入し、面の割れている人間が何人かいるので、教室に一緒に入れない黒いひよこさんは。
退屈しのぎに、昼間の時間をこのような、「おもしれぇモノ」に費やすようになっていました。
朝夕の、通学時間帯。この先の歩道橋は、お年頃の女子中学生で溢れ、それをローアングルで観賞するには、絶好のポジションなのです。最低ですが、黒いひよこさんは悪魔なので、仕方ありません。
<チ。なんだ…?またか、ウゼェ。>
ひよこさんは茂みの中に、明らかに自分の進むルートに被せて進行している、何者かの気配の痕跡を感じていました。ここ最近、黒いひよこさんの行く先々で、感じる気配。黒いひよこさんを追跡している、何者かの気配です。
黒いひよこさんは、歩道橋に新しく出来た、2つめのヘコみを見つけて、<はて。>と首を捻ります。このダメージ痕、なんだか、見覚えが、あるような。黒いひよこさんの脳裏を、とある「必殺技」の名前がよぎります。
<ま、いいか。そんなことより、パンチラ、パンチラ。おれは、いぬパンチより、パンチラがすきー、っと。>
黒いひよこさんは自分の気持ちに常に正直な方のようです。
折しも、下校の時刻。ゴキゲンな黒いひよこさんは、<ちにゃー、ちにゃー。>と声を上げながら、お年頃の女子中学生たちを思う存分、ローアングルから観賞し続けています。
黒いひよこさんの視界を流れる、色とりどりの、パンチラ。その内の1つ、真っ白なパンチラが突然立ち止まり、突然、黒いひよこさん目掛けて降りてきました。逃げる間もなく、黒いひよこさんはスカートの中に捕らわれてしまいます。
<もがー、もがー。>と突然の災難にわけもわからずパニックに陥っている黒いひよこさんを、何者かの指が掴みあげます。
<ゲェ!?>いつもはクールな黒いひよこさんが、思わず面白い悲鳴を上げました。黒いひよこさんの目の前には、「53まんおんなのなかまの、きょにゅうおんな。」幸恵さんが、感情のない機械のような冷たい目で、黒いひよこさんを見下ろしています。
「あなた。魔法、使えるんでしょ。今すぐ、私に使って。男に、モテるようにして、欲しいの。」
幸恵さんの意外な言葉に、黒いひよこさんは余裕を取り戻したのか。
<そんなもん。そのちちがあれば、いくらでモガッ!>
ヘラヘラといつもの調子で軽口を叩こうとして、幸恵さんに握り潰されかけます。
「あなたに、選択の余地はない。」
幸恵さんが、真顔で恐ろしい事を言います。
「わたしの言うことをきかずに死ぬか、大人しく言うことをきいて、死ぬか。どちらを選びなさい。」
選択の余地はないと言った直後に、なんという無茶な二択を迫るのでしょう。黒いひよこさんも普段なら笑ってしまうところですが、あいにく。幸恵さんの目と、黒いひよこさんを締め上げている握力から、本気で言っていることが伝わってきます。
<わかった。なんでもいうこと、きいちゃう。だから、ころすのはやめてね?>
ね?と可愛らしく首を傾げて念を押す黒いひよこさんを、幸恵さんがゴミのように投げ捨てます。地面に強かに叩きつけられた黒いひよこさんは、明らかに不満顔で起き上がってきました。
<まったく。あくまをきょうはくするなんて、いのちしらずは。3000ねんいきてきて、おまえがはじめてだぜ。>
毒づきながら黒いひよこさんは、この4月からの出来事を思い返します。完璧にハマったはずの『ラブスカウター』の呪いをあっさり解除したのを皮切りに、闇のルビーに閉じ込めた「53まんおんな」をどこまでも追いかけてきて。黒いひよこさんの変な子分・マルゲリーさんにさりげなくトドメを刺してくれたのも、この女。しかも2回。
「53まんおんな」ことサトミさんは黒いひよこさんにとって、たしかに脅威ではありましたが、<まあ、アイツはバカだし、どーにでもなるんじゃね。>と、どこかナメている部分があるのに対し。
観察力が鋭く、いざともなればこうして、黒いひよこさんが一番苦手な物理的な暴力を用いて躊躇なく殺しにくる幸恵さんは。ぶっちゃけ、黒いひよこさんにとっては相性が最悪の相手であり、強い苦手意識を抱いていたのでした。
<おまえ。このうらみは、まつだいまでかたりつがれるよ?>
黒いひよこさんは悔しそうに言います。
「いいから。今すぐ、わたしをモテるようにして。男なら誰でも、たとえ、どんなイケメンでも、わたしの言うことには何一つ逆らえない。そのくらいのレベルでモテさせて欲しいの。速くして。」
幸恵さんが黒いひよこさんを急かします。黒いひよこさんはまだ、ここには書けないような汚い言葉でブツブツと文句を垂れていましたが。幸恵さんが「あと3秒、2、1。」と殺害カウントダウンを始めたため、仕方なく闇の奇跡を発動させます。
<スーパーダークチャンス!>
『悪魔が来たりてラッパ吹く。顕現せよ、闇の奇跡。舞えよ黒焔、巻き起これ竜巻、ナムナムマグナム・ぼんじーソワカー。』
闇の悪魔が神器・『黒焔のラッパ』を吹き鳴らすと、地は割れ、風は狂い、黒い焔が世界を焦がす。
幸恵さんを、禍々しい黒い焔の竜巻が包み込みます。それが晴れた時、幸恵さんは既に今までの幸恵さんではなくなっていました。
部屋に帰ってきた幸恵さんを見て、いぬさんは絶句します。幸恵さんの大きく開いたブラウスの胸元からは豊満な谷間が惜しげもなく覗き、アップにまとめた髪、露出した、うなじ。まるっきり、イメージが違っています。そして、短く切り詰められたスカートからチラリと見える下着は、先ほどの白ではなく。地獄の闇のような、真っ黒に変わっていました。
7.
翌日から。幸恵さんの生活は、ガラリと変わりました。幸恵さんが道を歩いているだけで、いかにも素行の悪そうなチャラチャラしたイケメンや、いかにも素行の悪そうな怪しげなオジサンなどが寄ってきます。幸恵さんはそれらを良いように使い、服やアクセサリー、化粧品等をプレゼントしてもらい、日に日に、より綺麗に、より派手に、よりセクシーになっていきます。
学校においても幸恵さんのまわりには、取り巻きの男子が群れをなすようになりました。とりわけ、教室では、幸恵さんの席のまわりにクラスの男子どもが集団を作り。圭二さんのまわりにきゃいきゃい集まっている女子どもの集団と双璧を成しています。
幸恵さんと、圭二さん。異性にモテモテの二人の間に位置するサトミさんの席は異様な二大勢力に挟まれ、もはや身動きがとれません。
「(もう!なんなのコレ!?)」
サトミさんは状況のあまりの変化に、頭の理解が追いついていきません。
取り巻きの男子ども、女子どもに阻まれ。サトミさんは、幸恵さんにも、圭二さんにも、簡単には近づけなくなってしまいました。とりわけ、幸恵さんとは先日の一件で気まずくなったままであり、なんとか仲直りをしたい、という思いがあるのですが。
物理的に接近を阻む、男子どもの壁と。あまりに突然変わってしまった幸恵さんの持つ、おいそれと近づかれることを拒絶するかのような、精神的な壁。二つの厚い壁を越えられず、悶々とした気持ちのまま、1週間、2週間と時は流れていきます。気づけばサトミさんは二大勢力のどちらにも入れず、クラスの真ん中で、ひとり。孤立するようになっていました。
「(このままじゃ、いけない!)」
サトミさんが意を決して幸恵さんに話しかけたのは、9月22日、金曜日の昼休みのことです。その日、幸恵さんは例によって、取り巻きの男子どもに囲まれて、内容のないようなくだらないおしゃべりに興じておりましたが。
男子どもをかき分けて前に立ったサトミさんに、おや、と珍しいものを見るような目を向けてきました。
「あ、あのね、幸恵ちゃん。この前は、その。ごめん!それでね、明日の、土曜日なんだけど…。」
泣きそうな顔で、たどたどしくサトミさんが話します。しかし、なにか心を決めて話しかけてきたのであろうサトミさんを、幸恵さんは冷たくあしらってしまいます。
「明日?なに?悪いけどわたし、男の子と約束、あるから。」
それだけ言うと、男子どもとのおしゃべりに戻ってしまい、目の前のサトミさんには目もくれません。
「幸恵ちゃん!ねえ!本当にどうしちゃったの!?いったい、何があったの!?お願い、こっち見てよ。私の話、きいてよ!!」
耐えきれずに、サトミさんが叫びました。クラス中の視線が、サトミさんに集まります。
「私、嫌だよ、こんなの。お願い、仲直り、しようよ。」
サトミさんが、途切れそうな声で言います。いつも元気なサトミさんが、今はすっかり肩を丸めて。今にも消えてしまいそうなほど、小さくなっています。
「わたしの気持ち、わかってくれた?」
幸恵さんが、やさしく、諭すような声で言いました。「え…?」とサトミさんが、顔を上げます。
「誰だって、自分の大好きな人が、自分を見てくれなくなって。自分の知らないところで楽しそ
うにしているのは、とても嫌なものなの。わかったでしょ?」
ニッコリと微笑む幸恵さんを見て、サトミさんは背中にゾッと、冷たいものを感じました。
「見て、サトミちゃん。男の子なんて、こんなものだよ?ちょっと胸とか脚とか見せてれば、こうやって集まってきて。なんでも、言うことをきいてくれる。あの人だって、おんなじだよ?こんなのより、わたしの方が、ずっといいよ。サトミちゃんも、あの人よりわたしのほうがいいって。これで、わかってくれたでしょ?」
ね?と可愛らしく首を傾げて、幸恵さんは念を押します。
「違うよ!圭二くんは、圭二くんだけは、違う!圭二くんはそんな人じゃない!」
サトミさんは必死で反論します。その言葉に、見る見る幸恵さんの顔が曇っていきます。
「そう…。わかって、くれないんだ。」
幸恵さんは立ち上がると、どこかに行ってしまいました。男子どもがそれに続きます。
圭二さんのまわりでは、女子どもがまた、きゃいきゃい騒ぎ始めています。サトミさんはひとり、空っぽになった幸恵さんの席を見つめて、立ち尽くしていました。
その夜。自室で「柚子はちみつレモネード」のグラスを傾けている圭二さんの前に、業ッ、と黒い焔の竜巻が巻き起こり。中から、黒いひよこさんが現れます。黒いひよこさんはクックックックと、かなり上機嫌な様子です。
<いやぁ、いやぁ。じつにゆかいだ。ホント、おもしれぇことになったなあ。53まんおんなのやつ、すっかり、しょんぼりしちまって。ザマァねえぜ。>
ヘラヘラヘラヘラと嬉しそうに笑いながら、黒いひよこさんが言います。
<しっかし。あの、きょにゅうおんな。まさか、あんなことをいいだすなんてな。あくまのおれさまでも、ぶったまげるぜ。あ、なに?おまえ。あんがい、まんざらでもない?>
黒いひよこさんはよほどゴキゲンなのでしょう。圭二さんに、今日は必要以上に絡んできます。
「別に。」
例によって圭二さんは、「あんなこと」については、軽く流してしまいます。
「それより、君さ。あの子に、取り憑いてなくていいの。」
圭二さんは「柚子はちみつレモネード」のグラスを置きながら、黒いひよこさんに問います。どうやら黒いひよこさんにちょっとムカついた時の、圭二さんの癖のようですね。
<ああ、それな。おれさまにも、プライドというか。クールなおれさまのイメージをまもりたいというもんだいが、あってだな。そうそう、パンツになってばかりも、おれんのよ。>
黒いひよこさんは、困ったようにため息をつきます。
<ま、それに。あのとんでもねえダークパワーなら、おれさまがくっついてなくても、そうたやすくは、じょうかされないだろ。>
黒いひよこさんは机の上の、物凄い勢いでアンテナを揺らしている『ダークボックス』を見上げます。
<(まえに、1かい。53まんおんなのパワーがいじょうにハネあがってたことが、あったが。クソじんぎのこしょうとばかりおもっていたが、アレは、アレだ。きょにゅうおんなのダークパワーのほうを、まちがえてけいそくしちまってた、ってわけかい。)>
クックックッと、黒いひよこさんが怖い笑い方をします。
<しかし、けいじ。おまえ、アレか。ひょっとして、あのきょにゅうおんながこんだけのダークパワーもってるって、さいしょから、わかってたのか?やるじゃん。>
感心したように、黒いひよこさんが微妙に失礼なお世辞で圭二さんを褒めます。
「いや?違うけど。ただ、あの子たち。いつも仲良しゴッコしててなんか、ムカつくから。喧嘩させたら面白いかな?と、思って、さ。」
圭二さんが涼しい顔で「柚子はちみつレモネード」のグラスを持ち上げます。
<ハ!まったく、おまえは。つくづくサイテーで、おもしれぇヤツだよ!>
黒いひよこさんは、心底楽しそうにゲラゲラ笑うのでした。
翌朝。サトミさんはなんとなく、じっとしていることができずに。ひとり、外へ出ました。
「(はぁ…私、なにやってんだろ。)」
ため息をつきつつ、手の中の封筒を見つめます。
「(これ…どうしよう?)」
悩みながらもサトミさんの脚は、自然といつもの角へ向かいました。
角を曲がった、その先。
バッタリ顔を合わせたサトミさんと幸恵さんは、お互いに固まります。ああ、なんということでしょう!幸恵さんの隣には、圭二さんが親しげに並んでいるではありませんか!
「えっ…?なん、で…?」
サトミさんは、今見ているものをどうしても、信じる事ができません。幸恵さんがため息をつき、静かな口調で話し始めました。
「サトミちゃん。わたし、今日、男の子と約束あるって、言ったよね?」
幸恵さんの目は、完全にかわいそうな人を視るときのソレです。
「わたしたちね、これから、デートなんだ。付き合うことにしたの、わたしたち。」
幸恵さんの言葉にサトミさんの脚はガクガクと震え、目は大きく見開かれ。
「ウソ…。ウソ…。」とか細い声で、サトミさんは呟き続けます。
「圭二くん、あっさりOKしてくれたよ?結局、この人も他の男の子と、おんなじだったね。わたしの言った通りでしょ?」
ふふん、と勝ち誇ったように、幸恵さんが笑います。
「嫌だっ!!」
サトミさんが絶叫しました。さすがの幸恵さんが、動揺の色を顔に浮かべます。
「なんで!?なんで、こんな酷い事するの!?サイテーだよ、幸恵ちゃん!!そんな幸恵ちゃん、大っ嫌いだ!!」
えっ、と、幸恵さんが表情を強ばらせ、固まりました。サトミさんの「大嫌いだ」というストレートな言葉が、かなりの衝撃を与えたようです。
「ばか!!!」
サトミさんは持っていた封筒を地面に叩きつけ、泣きながらどこかに駆けていってしまいました。幸恵さんは、ショックで呆然としています。
「今日は、追いかけないの。」
圭二さんが平然と言い放ちます。その端正な顔面に、幸恵さんの拳がめり込みました。
「死ね!!!」
幸恵さんは叫ぶと、どこかに駆けていってしまいます。
意味もなく殴り倒された罪もないイケメン・圭二さんはあわれ、その場に倒れたまま、置き去りです。
仕方ありませんね、お年頃の女子中学生の心は、複雑なんです。こればかりは古武道の天才的な才能をもつ圭二さんであっても、読み切れませんでした。
ただ、なんとなく。みなさんの「ざまぁ。」という声が聴こえた気がするのは、気のせいではないと思います。
8.
サトミさんの部屋と、幸恵さんの部屋。二つの部屋で、同じように。空間という壁を隔てた二人の少女が、背中合わせに泣いています。
「(どうしよう…どうすれば、いいの?)」
二人の心の声は、風に乗り。やがて、川原に寝そべるいぬさんの耳に、届きました。いぬさんの耳が、ピコッ、ピコッと動きます。
<むぅ。>と目を開け、立ち上がったいぬさんは。ぐいと顔を上げ、幸恵さんの部屋の方角を向きます。
<あのむすめには、おんぎがある。>
いぬさんはひとり、<うむ。>と頷きました。
<スーパーラブチャンス!>
『犬が走りてトライアングル叩く、女神の奇跡、ここに在れ。吹けよそよ風、想いを運べ。アーメンゴキゲン、ヒャーウィ☆ゴー!』
第五の御遣いが神器・そよ風のトライアングルを叩くと、優しい風が樹々を揺らし。窓から窓へ、伝えられない言葉を運ぶ。
ガラスが割れたままの幸恵さんの部屋の窓に、不思議な風が吹き。ひらひらと、一通の封筒が舞い込んできました。
「(あれ…さっきの。サトミちゃんが持ってた…?)」
幸恵さんは涙で濡れた顔を上げ、封筒を拾います。
「幸恵ちゃんへ。」
可愛らしいひよこのシールで封のされた封筒には、幸恵さんの名前。
「(わたしに…?なんだろう。)」
幸恵さんはゆっくりと、封筒を開けました。中には、映画のチケット。そして、サトミさんのちょっとクセのある字で書かれた、便箋。
「幸恵ちゃんへ。お誕生日、おめでとう!今日から幸恵ちゃんの方が、お姉さんだね!!これからもずっと、ずっと、仲良しでいてね!幸恵ちゃん、大好き!!」
小学生が書いたような、ストレートな、飾り気のない文章。それだけに、サトミさんのウソのない気持ちが伝わってきます。便箋を持つ、幸恵さんの手が震えました。
「※P.S. 映画は私からのサプライズプレゼントだ!絶対、一緒に行こうね!約束だ!」
風に乗り、サトミさんの声が聴こえてきます。幸恵さんは、目を閉じました。この手紙を書いているサトミさんの姿が、目の前のことのように浮かび上がってきます。
机に向かってウンウン唸ってボールペンを咥えている、サトミさん。「国語、苦手~。」とぼやくサトミさんを、ひよこさんが不思議そうに見上げています。
「あ、これ?これね、幸恵ちゃんの、プレゼントなんだ。23日、幸恵ちゃんの、誕生日だから。」
楽しそうに、サトミさんが言います。
「(誕生日…?あ、そうか。今日。わたしの誕生日だ!)」
幸恵さんは今さらのように、驚きました。
「この映画ね。中学生になった頃、幸恵ちゃんと、初めて二人で観に行ったやつ。いま続編、やってるんだ。私ね、子供だけで東京に映画観に行くの、初めてで。すごいドキドキして、緊張して。違う電車乗って、迷子になっちゃった。でも、幸恵ちゃん、ちゃんと私のこと、見つけてくれて。ありがとう、ありがとうっていっぱい泣いて、その後、映画観て、また二人で泣いちゃた。思い出の、映画なんだよ!」
サトミさんの言葉を、ひよこさんは熱心に聴いています。
<サトミさんは、ゆきえさんがだいすきなんですね。>
ひよこさんが言います。
「うん!大好き!!幸恵ちゃんは、私のイチバンの、大切な人だよ!!」
最高の笑顔でサトミさんが答えます。
「幸恵ちゃんはね、私が困ってると。いつも見つけて、必ず助けにきてくれるんだよ!私のヒーローだ!」
「サトミちゃん!!」
幸恵さんが叫び、立ち上がりました。
同時に、弾かれるように黒い焔が、幸恵さんの身体から吹き飛ばされていきます。
「サトミちゃん、泣いてる。わたし、行かなきゃ!!」
幸恵さんはダッと、駆け出します。一度、はたと立ち止まり。床に転がっている黒いひよこさんをガラスの割れた窓からぶん投げると、ふたたび走り始めました。黒いひよこさんは、悲鳴を上げる間もなくお星さまとなりました。
川原で寝そべるいぬさんの耳に、『ときめきラブコンテナ』の目盛りの動く、チーン!という音が届きます。いぬさんはピコッ、ピコッと耳を動かし、<あのむすめたちなら、もうだいじょうぶだろう。>と呟くと、満足げに目を閉じました。
そんないぬさんの隣に、誰かが腰をおろします。<むぅ?>と目を開けたいぬさんは、ぎょっとして跳ね起きました。
<ゆ、ゆきえ!?なぜ、ここが。>
カッコよく気づかれないようにアシストし、恩を返したつもりだったいぬさんは、激しく動揺しています。
「わたしには、わかるのー。」
おや。幸恵さんの口調が、いつもの優しい感じに戻っていますね。いぬさんも、幸恵さんの服装が元に戻っていることに、気がつきます。残念ながらもう、確認できませんが。下着も、白に戻っていることでしょう。
<ゆきえはやはり、このほうが、いい。>
いぬさんは清楚な幸恵さんの姿に、目を細めますが。そんないぬさんを幸恵さんがじーっと見ていることに気づいて、あわてて目を逸らしました。
「ね、さっきの風。いぬじろうさんの、魔法でしょー?」
幸恵さんが、意地悪そうな微笑みを浮かべます。
<なんの、ことかな。>
んー?んー?と顔を近づけてくる幸恵さんから逃げるように、目を伏せたいぬさんがぐい、ぐい、と顔を背けます。そんないぬさんの様子に、幸恵さんは、不思議な気持ちが芽生えるのを感じていました。
「(なんだかサトミちゃんの気持ち、わかっちゃったかも。イチバンの、大好き。二人、いてもいいよねー?)」
幸恵さんの唇が、いぬさんのほっぺに、チュッと、触れました。
「いぬじろうさん、行こー!」
幸恵さんは立ち上がると、固まっているいぬさんを引っ張り、駆け出します。サトミさんの居場所は、幸恵さんにはもう、ちゃんとわかっているのでしょう。9月23日、土曜日。今日は、ステキな休日になりそうです。
次回、予告。
「ふざけんな!あたしにだって選ぶ権利ってモンがあるぞ!誰がアンタみたいな、キモい変態と!!」
主人公/井ノ上綾子
<トイレなら。きにせず、いっていいですよ。>
御遣い/猿・ゴリラ
「お前こそふざけるな!お、俺にだって、選ぶ権利くらいはある!俺だって、お前みたいなあばずれは嫌だ!!」
主人公/椎枝末広
<あのー、ぼくのことも、すこしはきにして、くれませんか?>
御遣い/羊・モコット
次回、第7話☆嗜虐愛/被虐愛 ~sadist,& masochist~
「なんだよ!今さら、好きとか言うなよ!あたしを、ひとりにするなよ!!」
「いや。奇跡は…起こったよ。とっくに、起こってる。」
coming☆soon!