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「おはようございます、フレデリカ様」


 まずは、凛とした魅力的な声音が耳を衝いた。

 次いで、シャッと布地を引くような音とともに、瞼の向こう側が俄かに明るくなる。覚醒を促されてそろそろと開いた双眸に飛び込んできたのは、鳥籠のような形をした大きな天蓋だった。繊細な刺繍が施されたその白いベールを透かし、日の光が差し込んでいる。

「大変っ、……ルレルとコルの餌!」

 寝過ごした! と、跳ね起きたフレデリカだったが、肌の上を滑るあり得ない肌触りに暫し固まる。

 反射的に伏せた視線の先にあったのは、これまた清楚な純白のネグリジェ……鈍い光沢のある生地は、恐らく絹であろう。当たり前だが、着古して毛玉ができている上に、継ぎまで当てられた木綿の愛用品ではなかった。

「……ルレルとコルとは?」

 固まる彼女に、再び魅惑の声音が問い掛けてきた。

 弾かれたように視線を上げると、天蓋のベール越しに黒衣の人影が見える。カーテンが全開になった窓を背にして立つその人物は、逆光ではっきりとは確認できなかった。

「……お家っ……実家で飼育している乳牛ですの。その子達から搾乳するのが、わたくしの朝一番の日課で……それで、うっかり寝過ごしてしまったかと」

「乳牛……それに搾乳、でございますか? 貴族のご令嬢自らっ?」

 眩しさに目を擦りながらフレデリカが説明すると、正体不明の声には明らかな驚きと落胆が混ざる。

 寝惚け半分だった彼女の胸に、沸々と怒りが湧いてきた。朝っぱらから「貴族のご令嬢」の寝室に許可も得ずに入り込み、名乗るより先に批判なんて……そちらこそ、一体何様のつもりだ。

「何か問題ありまして? わたくしは農作業で鍛えられた自分の手に誇りを持っておりますの。丹精込めてお世話をすれば、するだけルレルとコルは必ず応えてくれますわ。何と領地の搾乳コンテストであの子達、優勝しましたのよ!」

 気付けば、フレデリカは豪奢な寝台の上で仁王立ちになり、両手を前に突き出すと、そう高らかに啖呵を切っていた。

 外出の際には漏れなく手袋で隠していた手には、細かな擦り傷やひび割れ、長年農工具を操ってできたタコまでである。家畜達に害がないように爪も短く切り揃え、美しく磨き上げたり、色を乗せたりしたことは一度もなかった。

 労働者階級のそれと、何ら変わりない。社交界では眉を顰められるかもしれないが、命を育むためにこの手を選んだのは他ならぬフレデリカ自身だ。

 その姿を目の当たりにする無作法な侵入者からは、呆気に取られているらしいポカンとした気配が伝わってくる。

 さすがにやり過ぎたか……潮が引くように眠気が遠退いて理性が蘇り、フレデリカが一抹の不安を覚え始めた時、その耳へ控えめに手を叩く音が飛び込んできた。もちろん、その音源は目の前だ。

「お見逸れ致しました、フレデリカ様。実は、主より貴女様が自ら愛人の座を望まれたと伺ったものですから、放蕩な方に違いないと思い込んでおりまして……けれど、それは私の浅慮でございました」

 拍手をしながらズンズンと寝台に近付いてくるにつれて、逆光に隠れていたその容姿が明らかとになる。

 艶やかな赤毛と碧玉のような青い双眸が、息を呑むほどに美しい女性だった。華奢な体躯を包むクラシカルな黒のお仕着せ、赤毛をまとめる白いブリムが恐ろしく似合っている。眼差し一つ、引き結ばれた口元からは、隠し切れない円熟した艶を感じた。

 フレデリカよりも年嵩だろうと察するが、年の差は姉妹とも母子とも知れない。前に突き出したまま忘れていた両手を恭しく取られ、蠱惑的な笑みを向けられると、気恥ずかしさに頬がじわじわと紅潮してくる。

「私は当屋敷侍女長を務めるアマンダと申します。ウェイド様からフレデリカ様の身の回りのお世話を仰せつかりました。貴女様のように清貧な淑女にお仕えできて、とても光栄ですわ」

「……っ、……どうも」

 ごく自然な造作で傷だらけの手の甲に口付けられ、無様に叫び出さなかった自分を褒めてやりたい。居た堪れなくなるほど、柔らかで瑞々しい感触だった。

 これでは、どちらが貴族令嬢だか分からない。

 使用人といえども王弟殿下に仕えるからには、吹けば飛ぶような貧乏男爵家とは雲泥の差の由緒正しい血筋には間違いないだろうが……。

「お食事の用意ができておりますので、どうぞお召し替えを。フレデリカ様自らお育てになった乳牛ほどではないかもしれませんが、新鮮な牛乳も用意しておりますので」

「……そ、それはありがとうございます」

「では、お召し替えのお手伝いを……」

「大丈夫ですわ! 実家では、自分の面倒は自分でみていましたからっ……!」

 フレデリカは首をブンブンと横に振って、アマンダの申し出を固辞する。そんな手取り足取りに甘やかされるなんて、慣れていないし、もちろん慣れる気もさらさらなかった。

 フレデリカの夢はあくまで自給自足の田舎暮らしであり、決して贅沢漬けの自堕落な生活ではないのだ。

「しかし、フレデリカ様。用意してございますドレスは、どれも使用人の介助を前提で誂えた物……お一人でのお召し替えは無理だと思います」

「えっ……作業着っ……いえ、平服は?」

「申し訳ございませんが、ご用意しておりません。ウェイド様からは、夜会用ドレスを用意するようにと承っておりましたので」

 真顔で首を横に振るアマンダに、フレデリカはこの屋敷で自らの意思を通すには、ウェイドとの対決が避けては通れないと悟る。

「殿下もお食事の席にはいらっしゃるんですの?」

「……いいえ、申し訳ございません。ウェイド様は既に王都へ発たれました。昨夜は最初からフレデリカ様をお招きすると決めていたわけではなく、一度は宮廷に顔を出さねばならないのだそうで。けれど、できるだけ早くお戻りになるとおっしゃられていましたわ」

 しかし、俄かに麗しい顔を曇らせた侍女長が、心から申し訳なさそうに事情を説明する。

「それは、……仕方ないことですわ」

「ご理解いただき、ありがとうございます。では、フレデリカ様。お召し替えをお手伝い致しますわ」

 渋々頷いたフレデリカに、アマンダはどことなく有無を言わさぬ迫力を孕んだ笑顔でそう要求してきた。


     * * *


 王都のブリンガー宮殿に出仕したウェイドがその足で向かったのは、宮廷救護室ではなく、兄王であるフェレン・カーディフ・ペティグリュン三世の執務室だった。

 今となっては二人きりの兄弟で、愛情と尊敬ももちろん抱いているのだが、正直言えばあまり会いたくない相手だ。二人きりで対峙するならばなおのこと……ただし、今回は事情が事情であるために仕方がない。

「ウェイド……どうした、朝から。まだ毒は盛られてないぞ」

 執務机で小難しい書類に署名をしているところだった彼は、書面に落とした視線を自らに移すと、彼は柔和な笑みを浮かべた。執務机の脇に立つ若者……先頃、宰相閣下の推挙で取り立てたらしい補佐官は、国王の揶揄に眉を顰めつつ、その手元から書類を素早く取り上げる。

 あからさまにウェイドの目から隠すような仕草だった。それがどんな重要書類かは知らないが、生憎そんなものに興味はない。

「事前に申し入れのないおとない、心よりお詫び致します。少しお時間を頂けますか、陛下」

「構わんさ、大した仕事はしていなかった。……あぁ……補佐官、お前は下がれ」

 やや無礼な補佐官を片目で一瞥した後、そう申し出たウェイドに、異母兄は彼に向かって退室を命じた。

 相手を見遣ってから微妙な間があったのは、恐らく名前が出てこなかったのだろう。人好きする笑顔で当の本人は騙し遂せたかもしれないが、自分相手にそれは通用しない。腐っても兄弟だ、折角の両目も有効活用できない赤の他人と一緒にしてもらっては困る。

 斯く言う自分も、目の前の若造の名を問われて答えられる自信はなかったが……。

「陛下、それはあまりに不用心では……」

 あからさまに無知で不躾な台詞も慣れたもので、ウェイドは眉一つ動かさない。

「次からは言葉に気を付けろ、補佐官。私が下がれと言ったら、黙って従え」

 だがしかし、真正面からその言葉を耳にした兄王は違った。声音も口元の笑みもそのままだったが、笑み細められた紺碧の双眸からは光が消えている。その変化に気付いたウェイドは、俄かに室温が下がったように感じた。

 針のような鋭い怒気を真っ向からぶつけられている若輩者だけは、そのことに気付いていない。

「ですが、私は陛下の御身をっ……」

 既に地雷を踏み抜いている上で、なおもおためごかしを口にできる度胸……否、愚鈍さに、ウェイドの背筋がうすら寒くなる。同情する気はさらさらないが、最早フェレン王の御代で今以上の出世は望めないだろう。

「……次はないと、つい先程言ったばかりだがな、補佐官。何人たりとも、我が弟を疑うことは許さん。今日限りでお前は解任だ、即刻出ていけ」

「なっ……!」

 直接的な言葉をぶつけられ、補佐官(元)はようやくことの重大さに気付いたようだ。

 事態はウェイドの予想よりも深刻だった。礼儀を弁えなかったばかりに……この異母兄の逆鱗の在処を知らぬばかりに、この名前すら覚えられることのなかった若造は失職してしまったらしい。

「……衛兵! 直ちに、こやつを摘まみ出せ!」

「陛下っ、お待ちを……! 違うのですっ、私はっ……!」

 即決即断でも知られるフェレンの号令に、扉の外に控えていた衛兵達は素早く入室し、言い訳しようとする元補佐官を拘束、慣れた様子で連れ去った。扉が閉まる直前、最後に悪意に満ちた視線がウェイドに投げられたが、自業自得の責任転嫁にいちいち反応するほど自分も初心ではない。

「ウェイドが私に本気で反意を抱いたなら、若いだけが取り柄の文官一人居残ったところで何の役にも立たんだろうが……まったく、若造の自惚れは見るに耐えんな」

 一頻りの喧騒が収まると、フェレンの素に戻った声がした。施錠された扉から執務机に頬杖をつく彼に視線を移すと、端正な顔を盛大に顰めている。

 自分とは正反対の蜂蜜のような豊かな金髪と深い海のような紺碧の瞳、中性的な面差しは実に優しげで、ウェイドより十は年上だと言うのに見た目は逆だ。彼が人一倍好き嫌いが激しく、誰より扱い難い人種であると知るのは、自分を含めてごく一握りである。

「無駄に恨みを買うような行動は慎んで頂きたいですね、陛下」

「二人きりの時は兄様と呼ぶ約束だろう、ウェイド。そんな仏頂面もするものではないぞ、花のように可愛い顔が台無しだ……さあ、兄のために笑っておくれ」

「貴方はまたそんな気色の悪いことを……兄様」

「はははっ、幾つになっても照れ屋さんだなぁ」

 第三者が見れば鬼の形相とも言われかねない険しい顔に向かって、頭に虫が湧いたような言葉を繰り出すフェレンに、ウェイドは耐えられず溜め息を吐いた。

 これだから、異母兄との接見を極力避けてきたのだ。

 公での立ち居振る舞いは完璧なスリングフィード王国国王は、手の施しようもないほど重度の兄馬鹿であった。

 自分よりも体格も良ければ厳つい顔面を持つウェイドを可愛い、花のようだと言って憚らない。悲しいかな、その審美眼は腐り果てている。

「それで、今日は何の用かな。モジモジしてないで、兄様に何でも言ってごらん。お前が欲しいと言うなら、王位を差し出すことさえやぶさかではないぞ」

「何があろうとそれだけは要りません」

 蕩けそうな笑顔でとんでもないことを言ってくるフェレンに、ウェイドは速攻首を横に振る。

「分かっているさ、冗談だよ。お前は本当に欲がない子だからな……大方、昨夜の舞踏会で引っ掛けた男爵令嬢のことだろう? 既成事実を盾に迫られでもしたか? 安心しなさい、そんな悪い娘は可及的速やかに薬漬けにして娼館に沈める」

「それが国王の物言いですかっ、不穏過ぎます!」

 あまりの言い草に、今度こそウェイドは声を荒げた。

 口さがない人間は何処にでもいるものだ。昨夜の騒動が既に国王の耳に入っていても何ら不思議ではないが、一体どんな伝わり方をしたものか……気の回し方が酷過ぎる。

「昨日は王都の邸宅に戻らなかったそうじゃないか……何と言ったかな、その男爵令嬢。確か犬のような名だった」

「フレデリカ・スピッツです。彼女には如何様な手出しもしないで頂きたい。フレデリカには深刻な精神疾患があることが分かったので、チェザービクの別邸で暫く療養させることにしたのですよ」

 嘘は吐いていないつもりだ。

 フレデリカには、彼女自身も気付いていない重大な心的欠陥を抱えているのだ。恋も知らない若い身空で愛人志願など、彼女のような立場ではそうそうあり得ない。

「お前は宮廷医だぞ、つまりは私の主治医だ。どうしてお前がそこまでする?」

 不満と言うよりも、不信感の強い口調で問うてくるフェレンに、嘘や誤魔化しは通用しない。

「フレデリカは、かつて私の心と命を救ってくれました。我が身が受けた恩を返したい……ただそれだけなのです」

 腹を括ったウェイドは、今まで誰にも漏らしたことのない在りし日の出来事をその舌に乗せた。

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