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 思い掛けない愛人宣告から数刻後……フレデリカが連れてこられたのは、王都から遠く離れたチェザービク領。つまりウェイドの別邸だった。

 色鮮やかなレンガ造りの店が立ち並ぶ市場や劇場、大聖堂が犇めき、夜半を過ぎても町中に明々とした灯りが満ちていた王都とはまさに別世界。この地を照らすのは満天の星空だけで、余計な光源がない分、月がいつも以上に煌めいて見える。

 馬車が進む舗装されていない道の両端には、見渡す限り畑が続いているようだ。生温かい夏の夜風を受けて揺れる己の背丈以上もありそうな穂は、穀物らしい。影絵のような穂の奥に臨む小高い丘に薄っすら見える等間隔に並んだ建物は、その独特な輪郭から粉引き風車だろうか……馬車は御者台のランプと月明かりだけを頼りに進み、まるで巨大な緑の迷路に迷い込んだ小さな虫になってしまったように錯覚する。

 田舎だ。

 風光明媚と言えば聞こえはいいが、紛うことなきド田舎だった。

 そして、それはフレデリカが理想とする光景である。

「……現実を見て、今更後悔してきたのか?」

 窓の外の風景を食い入るように見つめていた彼女の耳に、ウェイドの声が届く。正面に座るウェイドへと向き直ると、彼は胡乱な表情でフレデリカを見つめていた。

「王都に比べて随分暗いだろう……君が思い描いていた田舎暮らしとは、違ったんじゃないのか?」

 まるで無知な小娘に厳しい現実を教えてやったと言わんばかりの口調に、フレデリカの鼻の頭に微細な皺が寄る。

「いいえ、まったく。理想通りの環境だったので、つい見入ってしまったのです……そんなことおっしゃるなんて、後悔しているのは殿下の方じゃありませんの?」

 相変わらず尊大なウェイドに対し、彼女はずけずけと言い返した。どうせ面の皮は剥がれているのだ。今更取り繕おうとは思わない……強引に唇を奪い、自分から愛人宣言しておきながら、その態度は実に気に食わない。

「わたくしはもう腹を括りましたわ。殿下を殴る蹴るしたとしても、初めての接吻は二度と戻らないのですから」

「……君はっ……もっと初心で大人しい子だと思っていた」

 さらにあけすけに続けた台詞に、彼もさすがに鼻白んだようだ。濃い青みを帯びていた右の瞳は魂が抜けたように灰色に濁っていた。

 厳つい容姿とは裏腹に育ちが良いウェイドには、少々刺激が強過ぎたのかもしれない。彼の周りに侍っていた淑女達の中には、フレデリカほど率直な物言いをする者はいなかったのだろうし……ただし、最初に喧嘩を売って来たのは自分だと言うことを忘れてもらっては困る。

「初心なのは貴方の方ですわ、殿下。いつの世も猫を被るのは乙女の嗜みじゃありませんの……今更なかったことにしようとしても、わたくしは絶対に頷きませんから。責任を取るとおっしゃったのは殿下でしてよ」

 先程までとは打って変わって若干腰が引き気味のウェイドに対して、フレデリカは前のめりに詰め寄った。

 スリングフィードに暮らす貴族令嬢達は、十六歳から十八歳までの夏季に社交界デビューを果たす。王宮舞踏会で国王陛下にお目通りし、初めて上流階級の仲間入りが叶うのだ。

 最も重要なことは、その場に同席する名門貴族達に自分を売り込み、未来の夫候補である貴公子達が集まるお茶会や晩餐会、狩りへの招待を勝ち取ること……失敗すれば、また一からやり直しどころか、一年を棒に振ることにもなりかねない。

 今回の舞踏会でフレデリカとウェイドが起こした騒動は、三日と経たずに王都中に広まるだろう。ただでさえ持参金の望めない貧乏男爵令嬢だのに、初物どころか王弟殿下のお手付きなんて、どう考えたって敬遠される……そして、噂が下火になる頃には、今季の社交界も終わっているだろう。

 何度も言うが、フレデリカは貧乏男爵令嬢だ。花婿探しに二年も三年も掛ける時間的余裕も資金もなかった。過度な高望みはせずに最初の一年で決着をつけるように、と両親からは物心ついた頃から半ば洗脳のように言われ続けてきた。そんな父母でも親は親、愛情はあるし、恩義だって感じている。愛人志願であることは隠しつつ、期待に沿うよう精一杯努力してきたつもりだ。

 その努力を、ウェイドが余計なお節介で台無しにした。斯くなる上は、彼に償ってもらうより他ない。金持ち過ぎるのが玉に瑕ではあるが、手が届かないと思っていた彼の方から伸ばしてきた手なら、逃すつもりはない。何も彼女は、ウェイドの正妻の座を欲している訳ではないのだから。

「安心したまえ、なかったことになんてしない。僕は一度口にしたことは守る男だ……はぁっ、どっちが脅されているんだか」

 鬼気迫る想いが伝わったのか、ウェイドは素早く首を横に振る。溜め息を吐く彼と鼻息も荒く詰め寄るフレデリカは、すっかり立場が逆転してしまったようだ。

「君を野放しにはできないからな、君自身も周囲の貴公子諸君も危う過ぎる」

「乙女をまるで蝗害のようにおっしゃるなんて……いくらわたくしでも、サバクトビバッタ扱いされれば傷付きますわ」

 小さく呟いたウェイドの独り言めいた言葉を耳聡く聞きつけたフレデリカは、ムッとしたように言い返した。

「そんなにも滑らかに農業の天敵の名が口を衝いて出る乙女なぞ、僕はついぞ聞いたことがないが……」

「幼い頃から両親を手伝っておりましたから、その道の知識も体力もあるつもりです。チェザービクでは、是非とも収穫のお手伝いをしたいものですわ……あっ」

 自らを売り込むことも忘れず、何の気なしに横目で窓の外を見遣ったフレデリカだったが、はたと気付いて声を上げる。

「どうした?」

「もしや……こちら、全部トウモロコシですの?」

「この暗さでよく分かったな。まだスリングフィードでは広く普及していないのに……確かに君の知識は本物のようだ」

 揺れる穂を窓から指差して言ったフレデリカに、ウェイドはやや驚いた様子で認めた。

「三年前、父が東大陸から来たと言う商人から種を買い付けて来ましたの。痩せた土地でも良く育つ上、生で食べられる程に甘いと……ですが、例の天敵に大半をやられ、何とか収穫出来た物も粒は歯抜けで色もまだら、とても売り物になりませんでしたわ。それに、煮ても焼いても全く甘くなかったのです。種もまだたくさん余っていますのに、騙されましたわ」

 一瞬誇らしい気持ちになったフレデリカだったが、当時の大損害を思い出して徐々に気が塞いでくる。

「ああ、三年前ならチェザービクにも少なくない被害があった。しかし、粒の奇形はどうだろうな……スピッツ領ではトウモロコシを育てるのは初めてだったのだろう? 蝗害によってキセニア現象が引き起こされただけで、種自体には問題がないかもしれない。粗悪品だと決めつけて、残った種を捨てるのはまだ早いのではないかな」

 しかし、何を思ったか、ウェイドはそんな彼女に対して思いも寄らないことを言い出した。

「……キセニアって、交雑のことですわよね?」

 虚を衝かれて暫し固まったフレデリカだったが、気を取り直して口を開く。

「その通りだ。君に詳しい説明の必要はないだろうが、十分な距離を取らずに異なる品種の種を植えていると起こる。厄介なことにトウモロコシは飼料用の種の方が遺伝的に優勢で、食用部分も胚乳だ……味が影響を受けてしまう」

 自らの問い掛けに首肯したウェイドは、さらにそう付け加えた。ウェイドの口ぶりは、農業についての見せ掛けではない知識を窺わせた。本業が医師である彼は、きっと領地経営など現地の管理人に任せっきりだろうと思っていたのに。

 キセニア現象とは、品種の違う花粉による重複受粉……交雑によって胚乳が別の品種の影響を受け、変異してしまうことだ。実の部分を食する果菜類なら味に影響しないが、種子自体を食用とする稲やトウモロコシと言った穀類には深刻な被害が出る。

 父は決して安くはない生食用の種を大量購入したので、喜んだ商人は飼料用の種を無償で付けてくれたそうだ。スピッツ家では農業収入が生計のほとんどを占め、自ら農具を持つことを辞さない両親にキセニアについての知識がないはずはなく、二種類の種を植える際には十分な距離を取っていた。発芽不良を起こさせないために、種から苗まではポットで育て、畑に植え替える作業をフレデリカも手伝ったため、それは間違いない。

 しかし、不運にも三年前は蝗害が猛威を振るっていた。大挙襲来したサバクトビバッタ達の身体に付いた飼料用のトウモロコシの花粉が、生食用のトウモロコシに受粉した可能性は大いにあり得る。

「……あの、明日にも父に連絡を取ってもよろしいでしょうか?」

「当然だ。大事なご令嬢を預かるのだから、迅速に挨拶する必要がある。ご実家への融資の件も含めて、僕から説明するよ……そうだ、君の愛犬も連れてこないといけないな」

 おずおずと問い掛けたフレデリカに、ウェイドは至極真面目な顔で頷く。

「有難うございます……あの、覚えていてくださったなんて」

「あんな衝撃的な告白を忘れられる訳がないだろう。僕は君よりも一回りは上だが、まだ呆ける年じゃない」

 彼の言葉に、フレデリカは無意識に顔を伏せてしまう。溜め息交じりに寄越されたその内容が皮肉に塗れていたせいではなくて、今更我が身が恥ずかしくなったからだ。

 外見と健康以外ではただ一つの得手だと思っていた農業の知識さえ、ウェイドには及ばなかった。自信満々に知識があると公言したのに、相手の方が詳しかったのだから身の置き所がない。彼直々に両親に挨拶までしてくれるなんて、愛人としては破格な待遇だ。裕福な貴公子との結婚を望む二親だったが、たとえ愛人でもウェイド相手なら文句は言わないだろう。

 責めるどころか、逆に諸手を挙げて誉められそうだが……。

「……いろいろ自信がなくなってきましたわ」

「それはこっちの台詞だ」

 会話はそれきりで、ようよう明け始めた窓の向こうの景色を二人して黙って見つめる。緋色の稜線に照らされたトウモロコシの穂は黄金色に輝き、これまで一睡も出来なかった目にじんわりと染みた。

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