プロローグ
「踊って頂けますか、フレデリカ嬢?」
自らに向かってまっすぐに差し伸べられた手に、フレデリカの胸は歓喜に高鳴った。
目の前に立つのは、ラウール・カリバーン子爵。艶やかなブルネットの巻き毛と、笑み細められた猫のような吊り目が印象的な中年紳士だ。細められた目元と、整えられた口髭では隠し切れない口元の笑い皺から、彼女より二回り以上年嵩であることが知れた。
しかし、そんなことはフレデリカにとって大した問題ではなかった。社交界デビューをしてから一ヶ月、ずっと秋波を送っていた相手から初めて誘われたのだ。逸る気持ちを抑え込み、彼女は羽扇子越しに慎ましやかな笑みを浮かべる。
「もちろん、喜んで……」
しかし、了承の意を告げようと口を開いたところで、背後から唐突にガラスが砕け散る甲高い破裂音が上がった。
ドレスの背をじわじわ侵食する冷たく湿った感触に、口元を俄かに引き攣らせたフレデリカは、素早く首だけで背後を振り返る。
今日この日のために厳選した一張羅のドレスは、背中全体がじっとり赤黒く濡れていた。鏡のように磨き上げられた床の上に、優雅に広がる水色のペティコート……まるで人魚の尾びれさながらの繊細なレースは、フレデリカのお気に入りだ。それが今や、銛で突かれた瀕死の魚のように凄惨な有り様を呈していた。
「何てことっ……」
薄くルージュを塗った瑞々しい唇から、悲鳴にも似た声が漏れる。
フレデリカの生家であるスピッツ家は、名ばかり貴族と揶揄される貧乏男爵。その実家の年収に匹敵する豪奢なドレスが、数回袖を通しただけでボロ雑巾以下になってしまった。
今夜こそは裕福な貴公子を射止めるだろうと期待し、送り出してくれた両親の血走った目がフレデリカの脳裏を過ぎる。一斉に頭から血の気が引き、ふらついた彼女の腕を横から伸びてきた手が支えた。
「危ない。まだ床の上にガラスの破片が散らばっている」
次いで、掛けられた低音に緩々と視線を上げると、遥か上から自分を見下ろす長身の人物……優美な紫紺の上着が汚れるのも躊躇わず、フレデリカを逞しい胸に抱き留めた彼は、暗く沈んだ灰青色の右の瞳を三日月型にスッと細める。
「申し訳ないね、フレデリカ。完全に僕の不注意だ」
「……ウェイド、殿下」
恭しく謝意を口にする隻眼の偉丈夫の名を、フレデリカは掠れた声で呼んだ。
彼女のドレスを汚した血のようなそれは、赤ワインだったらしい。鏡のように磨き上げられた床には、ウェイドが取り落とし、粉々になったグラスの破片と放射状に広がる赤が、シャンデリアの灯りを反射してヌラヌラと輝いていた。
「本当に済まない、せっかくの夜を台無しにした」
濡れそぼったフレデリカの肩の上に、躊躇いなく自らの上着を掛けながら、ウェイドは殊勝な謝罪を口にする。
けれど、それが口先だけのことで全く悪びれていないのは、獲物を狙う肉食獣のような右目と弧を描く口元から知れた。演出された失態であったことは明らかだ。
フレデリカは、しがない貧乏男爵令嬢。陰では奇跡の美姫と呼ばれているが、揶揄であって褒め言葉ではない。平凡な両親の容姿から奇跡的に良い部分ばかりを受け継ぎ、それぞれの配置も絶妙だっただけの話だ。それさえ美男美女だらけの貴族社会においては、抜きんでたものでないと自覚している。おまけに教養がある訳でも、何か特別な得手がある訳でもない。強いて言うなら、貧乏暮らしの割にやさぐれておらず、身体も健康であるくらいだ。
対してウェイド・チェザービク公爵は、ここスリングフィード王国の王弟であり、宮廷医も務めている。豪奢な銀髪からチェザービクの銀狼と呼ばわれ、医師にしては体格が良過ぎ、左目にした黒革の眼帯も物々しいが、立ち居振る舞いは至って優美だった。隻眼を補って余りあるものを神から二物も三物も与えられた彼は、皆が羨む大人物なのだ。
フレデリカが社交界デビューのため、郊外のスピッツ邸から王都の縁者の屋敷へ身を寄せる一ヶ月前までは面識もなかった。王宮舞踏会で偶然自己紹介をする機会があったが、二人はそもそも住む世界が違う。
このところ遭遇率がやたら高いとは思っていたが、ただそれだけのこと……ウェイドから何某かの誘いを受けたことは一度もなく、彼に狙いを定めるほどフレデリカも身の程知らずではなかった。同伴者はいないようだったが、周りには特に見目麗しい令嬢達がひしめいていたし、フレデリカの理想の男性像からも彼はかけ離れていた。
それなのに、フレデリカが意中の殿方とお近づきになろうとした時、彼らはそそくさと遠退いていく。その怯えるような視線を辿って振り返った先には、必ずウェイドの姿があった。目が合えば偶然だと言わんばかりに愛想良く微笑まれるだけで、別段話し掛けられる訳でもない。彼の傍らには、フレデリカなど足元にも及ばぬ美姫達が雨後の筍の如く賑わっているのだし。
自らの伴侶選びを邪魔することで、彼に一体何の益があろうか……最初のうちは、気のせいだと思っていた。
だがしかし、今宵の如く大胆極まりない妨害に遭えば、これはもはや被害妄想ではない。フレデリカの胸に、積もり積もった怒りがじわじわと湧き上る。今すぐそのふてぶてしい横っ面に、平手を見舞ってやりたかった。
それでも、彼女は両手で羽扇子をきつく握り締めて暴力衝動に堪え、喉元まで出掛かった淑女らしからぬ下品な罵倒の数々をも呑み下す。遠巻きに幾つもの無遠慮な視線と隠し切れない嘲笑のさざめきが、フレデリカの全身を突き刺していた。
これ以上醜態を晒せば、傷が付くのは自分だけだ。諸悪の根源たるウェイドには、掠り傷一つ残せない。
「……そんなに震えて、このままでは風邪を引くな」
俯いて激情を堪えるフレデリカを腕に、ウェイドはわざとらしく思案するような口調で言うと、次の瞬間に思ってもみない行動に出る。
「ひっ……!」
突如視界が反転して眩いシャンデリアの光が目を刺し、彼女の喉から短い悲鳴が上がった。ウェイドは否を唱える暇も与えず、彼の上着で包んだフレデリカの身体を、軽々と抱き上げていた。
咄嗟に、彼女は背後へと視線を投げた。助けを求めるように……けれど、フレデリカの目が目的の人物を捉えるのを遮るように、ウェイドは踵を返す。
「実に済まない、カリバーン。こういう訳だ、彼女は私が責任を持って送っていくよ」
さっさと出口を目指して歩き出しながら、彼は振り返ることなく子爵に向かってそう投げ掛けた。端から用意されていたような淀みない台詞には、そんなはずがないのに、有無を言わせぬ威圧感を孕んでいる。
「……っ、……いや、お気遣いなく……殿下」
必死に伸び上がり、ウェイドの肩越しに彼女が見たものは、何とも言えない苦笑を浮かべ、こちらに向かって手を振る子爵の姿だった。
王弟殿下と張り合うのは、分が悪い。
フレデリカに、そこまでして手に入れる価値はない。
引き時を弁えた中年紳士の聡明さを湛えた双眸には、そんな言外の感情がありありと浮かんでいた。
恐らくカリバーンは、もう二度とフレデリカに声を掛けることはないだろう……自らを見送る姿にそう確信した彼女は、辛い現実に蓋をするように瞼を閉じ、仮初めの闇の中に逃げ込んだ。