35部
「まず先ほどの名宛人の話ですが、国民からは国に対して権利の保障を求める権利を有しています。逆に国からは国民に憲法に規定された権利を遵守させることを要求します。
つまり、国と国民は両方が請求者であり、その名宛人でもあるということです。
でも、注意すべきは憲法の事案において、国民から国民に対して請求することも名宛人にすることもできないということです。
それは国民生活のことに関してなら民法の事案になり、国家権力の介入を必要とする権利侵害があった場合には刑法の事案になるからです。」
足束がコーヒーを飲んだところで山本が
「つまり、憲法の規定している権利や自由に関しては私人間には適応されないということですよね?」
「その通りだと私は考えています。
『知る権利』というのは、国が有している情報に対して、重要情報の開示を国民が請求できることを指します、アクセス権と呼ばれるものですね。
これには、知らないことによって国民が重大な損害を被ることを事前に防ぐことが目的として認められている権利です。
しかし、国民に知らせてはいけない情報というものは国家にも存在します。
例えば、防衛に関する機密情報などは、外部に漏れた場合に国家の存続に関する危険を招くために公開されるべきではないこともあります。
私人間の間で、情報を開示させるためには民法などの別の法律に準拠しなければいけないんです。
『報道の自由』に関しても同様で、これは国家が情報を制限したり、あるいは政府にとって不都合な情報を世間に公表させないための検閲をさせないために規定されている自由です。
同時に『表現の自由』というものにも言及しますが、国家に批判的な表現を規制することも憲法違反になります。
しかし、社会に対して明らかに悪影響しか与えないような表現は規制しなければいけません。他者を誹謗中傷するものや意図的に損害を与えるための表現や報道は国民の幸福を著しく阻害するからです。
しかし、どの表現や報道が国民にとって不利益な物かは判断の基準が難しい。判例では出版物に関して、わいせつな著書を芸術だと主張した判例もありました。
ある人にとって有益でも、違う人にとっては不利益になるということが存在する以上、あやふやな判断基準ではありますが『公序良俗』という言葉で判断されています。」
伊達が
「それでは教授は、『知る権利』に関しても『報道の自由』に関しても、国民から国に対して行うアクションであり、国民間では成立しない権利であるとお考えなんですね。」
「その通りです。
例えばワイドショーで芸能人の離婚だ不倫だという話を報道していますが、あれはプライバシーの権利を著しく損なう危険があります。芸能人という仕事柄、自分達で公開している情報ならまだしも、住居の特定やプライベートの時間の許可のない写真の撮影は盗撮に該当しますので、犯罪行為を世間が放置しているようにも私には見えています。
『知る権利』も何でも知っていい権利ではなく、国家に対して請求するものだと理解する必要があるでしょうね。『報道の自由』も残念ながら個人情報を勝手に報道すれば、それは個人情報保護法違反で処罰されるべきですし、名誉棄損罪などの刑法事案になることもあります。」
「それでは、国会議員などの政治家の情報はどうでしょうか?」
山本が聞くと、足束は少し難しそうな顔をして、
「国民は私人と公人に分類することができます。一部の人の意見では芸能人もメディアへの露出が多いから公人だという人もいますが、『公人』というのは判断が難しいものですよね。
世間一般に知れ渡るような有名人を公人とするなら芸能人も含まれますが、それでは名前も知らないような国会議員は公人とは言えないような気もします。
逆に、公人というのは政治を行う人のことをいうのだと仮定するなら、芸能人は含まれませんが官僚や役所の人間も公人となってしまいます。
ですが公人と公務員は分類されているので、どの基準で分類すべきかわからないですね。
刑事さんの気にされていることを前提にするなら、政治家はどの分類をしたとしても公人になりますから、政治家の行動が国を動かしている現在の政治形態からすると、政治家の動きも国家の情報に含まれるものであると考えるべきでしょうね。」
「教授は最近の週刊誌報道で政治家の悪事の暴露が行われていることをご存知ですか?」
伊達が聞き、足束は
「ええ、学生からも質問されることが増えてきましたからね。
時事問題に答えられるように、日々勉強中ですよ。」
「あのような報道に関してはどうでしょうか?」
「難しいですね。国民にとって一部の有権者が金銭によって政策を捻じ曲げているという情報であれば、国民が知ることによって利益があると言えますし、必要な政策を行う上で多少のみそがついたからと言って白紙に戻してしまえば、政策実現によって救われた人が救われなくなるという不利益を生じさせてしまいますからね。」
「訪ねてきた男にも同様のことを話されたんですよね?」
山本が聞き、
「ええ、ほぼ寸分たがわずに同じようなことを言いました。
そういえば、そちらの若い方が聞かれたことも答えましたよ。あなたの質問はなかったですけど。」
「そうですか・・・・・・・。
そういえば、その男の名前を覚えておられますか?」
「ああ、えーと名刺があったと思います。ちょっと待ってくださいね。」
足束は立ち上がり、机の上を探して、
「ああ、ありました。名前は佐和田貴史です。」
そう言いながら足束は山本に名刺を差し出してきた。山本は名刺を受け取り、
「こちらをお預かりしてもいいですか?」
「ええ、私には必要のないものですから。」
「足束教授、この研究棟のセキュリティーに関してお聞きしたいんですけどよろしいですか?」
伊達が言い、足束が不思議そうに
「かまいませんが、どうかされましたか?」
「この佐和田という男は見た目の正確な情報がないんです。もし防犯カメラなどに姿が写っていれば、捜索がしやすくなるのでご協力をお願いしたいんです。」
「そうですか。防犯カメラは研究棟の入り口と裏口に1つずつ、それから各階のエレベーター前に1つずつあります。他には理学部の研究棟には各部屋に設置しているところもありますが文系学部ではそんなこともないので、写っている可能性があるのは入り口か裏口、エレベーター前だと思います。」
「それはどこで確認できますか?」
「一階の管理室に行けばたぶん見れると思います。よければ連絡しときますが?」
山本が
「お願いします。あと、指紋を取らせてもらえますか、佐和田の指紋から前歴が出ればさらに人物の特定が進みますので。」
「ええ、いいですよ。どうすればいいですか?」
山本は自分の手帳を取り出して一枚ページを破り、
「これに両手の指紋を付けてもらえますか。右手を表、左手を裏にお願いします。」
足束は言われた通りにして、紙を山本に返し、管理室に電話をしてくれた。
「それでは話は付いてますので、何か他にもご協力できることがあれば何でも言ってくださいね。」
「ありがとうございました。それでは失礼します。」
「失礼します。」
山本と伊達が部屋を出て行き、足束はつぶやいた。
「石田君が言うほど失礼な子達でもなかったな。」




