故郷遠く
昔住んでいたところを思い出して書いたと思います。
忘れていってしまう景色はひどく淋しいです。
帰りたいと思っていたのでしょう。
時間も場所も。
ここはいつだって夕暮れでした。
私は橋の欄干に両肘をついて、ぼんやりと景色を眺めています。
目下を流れる雄大な川は夕日に照らされて、水面をキラキラと煌めかせています。
まるで、オレンジジュースが流れているみたいです。
川辺では子供たちが水しぶきをあげて遊んでいます。
はしゃいでいる楽しげな声がこちらまで聞こえてきて、年甲斐もなく混ざりたくなってしまいます。
川の両端を繋ぐ飛び石にセーラー服姿の女学生がふたり、器用に跳んで渡っていました。
遠くに連なる山々は影で塗られた平面のシルエットだけで、切り絵を貼りつけているみたいです。
高層の建物は周囲になく、瓦屋根の低い家屋ばかりです。
空は橙色で、とても広大でドーム状に私を包んでいます。
地球って本当に丸いのね!と私は小さな発見に小さな胸を躍らせました。
私には知らないことがいっぱいあります。
中学校を卒業したばかりで、ぴよぴよ囀るひよっこの私には、いたるところにクエスチョンマークが点滅していて飽きがきません。
この川はどこからはじまって、どこに流れ着くのかしら?
あの子たちには今日どんな宿題が出たのかしら?
ここはどうしていつも夕暮れなのかしら?
世界には謎が満ち溢れています。
どこからともなく、カレーの香りが漂ってきました。
ああ、なんて食欲を唆るおいしそうな香りでしょう。
私はお腹がひどく減っていました。
でも、まだお家に帰りたいとは思いません。
私はあの人を待っているからです。
世界中で一番の不思議である、あの人です。
彼は私がいる橋よりも下流につくられた橋にずっと立っています。
ここからだと逆光になってしまって、彼の顔はわかりません。
いつも私に手を振ってくれるのですが、私は彼との関係も、名前すら知らないのです。
でも、私は彼をひと目見るだけで胸がどきどきして、呼吸を忘れてしまいます。
これが恋なのかしら。
謎を解くためには彼に直接会うしか方法がありません。
私はここから動けないので、彼から会いにきてくれるのを待っているのです。
お願い、早くきて。
気がつくと私は涙を流しています。
どうしてこんなにも悲しいのでしょう。
どうしてこんなにも淋しいのでしょう。
どうしてこんなにも懐かしいのでしょう。
見慣れた風景は滲んでしまって、夕陽の中に溶けこんでしまったみたいです。
突然、目の前が真っ暗になりました。
誰かが私の瞼に蓋をしたようでした。
「これ以上、見てはダメだ」
「やっと、やっときてくれたのですね」
私は大粒の涙を零して、歓喜の声をあげました。
「ああ、時間だからな」
淡々とした口調で男性が言うと、視界が開けました。
そこには夕暮れの街はなく、コンクリートが剥き出しの狭い部屋に変わっています。
様々な計器や配線が埋め尽くしていて、私は中央のソファに座っていました。
埃っぽく、カビくさくて不衛生なところです。
正面に無精ひげを生やし、薄汚れた白衣を着た男性が私を見下ろしていました。
「ここまでだ」
「延長はできるでしょうか」
私が哀願しても、男性は頑なに首を横に振ります。
「いいかい、ばあさん。
これ以上、記憶を再現し続ければ、あんたは戻ってこれなくなっちまう。
そのまま、餓死でもされてみろ。商売あがったりだ」
私は食い下がろうとしましたが、男性の鋭い視線に射すくめられて、早々に諦めました。
料金を支払い、部屋を出ていこうとする私に男性はレインコートを渡してくれました。
「今日は汚染雨が特にひどい。濡れないように気をつけな」
「ありがとうございます」
よたよたとおぼつかない足取りで、私は廃墟となっているビルを後にしました。
瓦礫に注意しながら、いく宛もなく歩き出します。
「あの人の名前はなんといったかしら」
降りしきる雨は川の和流に少し似ていました。
あっ、キーワードがちょいネタバレだ。
読んで頂きありがとうございました。