婚約破棄された没落令嬢は雨の夜に氷の公爵に拾われ、呪われた血筋ごと溺愛されました
「君のような落ちぶれた家の娘と結婚するつもりはない」
シャンデリアの光が降り注ぐ夜会の中央で、セドリック・ハーウィンドは晴れやかに笑っていた。
その腕に絡みついているのは、蜂蜜色の髪を華やかに巻き上げた令嬢——アメリア・ゴールドウィン。新興貴族の富豪の娘。その首元で、私の年収より高価であろうダイヤモンドが嘲笑うように輝いている。
『ああ、そう。そうですか』
私の心は驚くほど静かだった。
三年。三年間、私はこの男に尽くしてきた。没落した実家の借金を少しでも減らすため、使用人のいない屋敷で夜明けまで針仕事をして、それでも「婚約者として恥ずかしくない」装いを必死で整えて——何度も、何度も繕い直したこのラベンダー色のドレスで、彼の隣に立ち続けた。
「セドリック様、ひどいですわ。きちんとお別れを告げてあげないと」
アメリアが猫撫で声で囁く。慈悲深い聖女の微笑み。けれどその琥珀色の瞳は、完全に私を見下していた。
『——殴りたい』
唐突に、そんな衝動が込み上げる。この三年で培った「目立たない処世術」が悲鳴を上げている。駄目よリディア、ここで感情を見せたら負け。どうせ周囲は皆、没落令嬢の断末魔を見物しに来ているのだから。
「……そうですか」
私は静かに微笑んだ。完璧な、何度も練習した作り笑い。
「三年間、お世話になりました。セドリック様のお幸せを、心よりお祈りしております」
深く、優雅に一礼する。背筋は決して曲げない。これだけは——この誇りだけは、誰にも奪わせない。
「お気の毒ですこと、没落令嬢は」
アメリアの声が背中に突き刺さる。
『ええ、そうでしょうとも。でも覚えておきなさい。あの男は金で動く。あなたより良い条件の女が現れたら——』
思考を振り払い、夜会場を後にする。
扉を抜けた瞬間、雷鳴が響いた。
——そして、雨が降り始めた。
*
外は土砂降りだった。
傘なんて持っていない。貴族令嬢が夜会に傘を持参するなど、みっともないと教えられてきたから。迎えの馬車?そんなものは三年前に売り払った。
『馬鹿みたい』
冷たい雨が肌を打つ。銀灰色の髪が頬に張り付き、視界を塞いだ。
——どこに帰ればいいのだろう。
ヴァレンシア伯爵家の屋敷は、もう屋敷と呼べる代物ではない。雨漏りする天井、朽ちかけた壁。残されたのは借金の山と——。
「ユリウス」
弟の名前を呟いた瞬間、胸が締め付けられた。
病弱な弟。十六歳の、私より大切な存在。セドリックとの婚約は、弟のためだった。結婚すれば援助が得られる。薬が買える。それだけを希望に三年間耐えてきて——。
『全部、無駄になった』
——その時。
轟音と共に、闘の中から黒い影が突進してきた。
馬車だ。漆黒の馬車が、猛スピードで。
「——っ!」
避けようとした足が縺れた。濡れた石畳で滑り、体が投げ出される。
『ああ、このまま——』
刹那。強靭な腕が私の体を攫い上げた。
世界が反転する。冷たい雨の代わりに、革と白檀の香りが鼻をくすぐった。
「——怪我は」
氷のように冷たい、けれどどこか深い声が耳元で響く。
目を開けると、蒼灰色の瞳があった。
冬の湖。凍りついた水面。その奥に、微かな焔が揺れている——そんな矛盾した色をした瞳が、私を見下ろしていた。
「……ありません」
「そうか」
漆黒の髪、彫刻のように整った顔。黒い軍服を纏った長身の男が、雨に濡れるのも厭わず、私を抱きかかえている。
社交界で「氷の公爵」と恐れられる男。近寄れば凍え、逆らえば滅ぶと囁かれる——。
「アレクシス・ノースクリフ……公爵閣下」
名前を呟いた瞬間、男の蒼灰色の瞳がすっと細められた。
「知っているのか。ならば話が早い」
公爵は私を抱えたまま、雨の中で立ち尽くしている。その視線は、私の瞳をじっと見つめていた。
「その瞳。菫色。没落の中にあってなお、誇りを失わない瞳。……ヴァレンシア伯爵家の令嬢か」
心臓が跳ねた。
「今夜、婚約を破棄されたそうだな」
「……なぜそれを」
「夜会場での噂は、雨より早く広がる」
公爵は淡々と告げた。
「行く宛はあるか」
「……朽ちかけた屋敷と、病弱な弟がおります」
「ならば提案がある」
雨音が激しさを増す。公爵の黒髪から雫が滴り落ちるのを、私はぼんやりと見つめていた。
「私の妻になれ」
「——は?」
「君の家名と、その誇り高き瞳を買おう。条件は一年間の契約結婚。対価として、ヴァレンシア家の負債の全額肩代わりと、弟の治療費を約束する」
思考が停止した。
『妻に——私が?この、氷の公爵と呼ばれる男の?』
「な、何を急に……」
「急ではない。君のことは以前から知っていた」
公爵は私を抱えたまま、馬車の扉を開けた。
「詳しい話は中で。このまま雨に濡れていては、君の弟に合わせる顔がなくなる」
有無を言わせぬ力で、私は馬車の中に押し込められた。
「——なぜ私なのですか」
「言っただろう。その瞳を買うと」
「瞳?」
「没落してなお、媚びず、屈さず、誇りを手放さない。そんな人間を、俺は久しく見ていなかった」
『一年の契約結婚。対価は借金の返済と弟の治療費——』
あまりにも都合が良すぎる。罠かもしれない。でも——。
『ユリウス』
弟の顔が浮かんだ。日に日に白くなっていく肌。このままでは、あの子は。
「……条件が、あります」
気がつけば、私は口を開いていた。
「弟の治療を最優先にしてください。それが守られるなら——私は、あなたの妻になります」
公爵の蒼灰色の瞳が、微かに見開かれた。
「契約成立だ、リディア・ヴァレンシア」
——それが、私と「氷の公爵」の、運命の始まりだった。
*
三日後、公爵邸に迎えられた私を待っていたのは、想像を遥かに超える世界だった。
「リディア様、ようこそいらっしゃいました」
白髪に銀縁眼鏡をかけた初老の執事、ヴィクトルが恭しく頭を下げる。
「旦那様は、言葉が少々足りないだけでございまして」
「はい?」
「先ほども『リディア様は痩せすぎだ、ちゃんと食べているのか』『弟の部屋は日当たりの良い場所に』『医者は王国一の名医を呼べ』と、朝から大騒ぎでいらっしゃいました」
『……この人、本当に「氷の公爵」?』
「それから——こちらを」
執事が差し出したのは、美しい装丁の革箱だった。
「旦那様の手作りでございます。奥様がお菓子を召し上がっている姿を、以前どこかで見かけたとか」
蓋を開けると、可愛らしい焼き菓子が並んでいた。どれも不格好で、形が歪んでいる。けれど、丁寧に作られたことは一目で分かった。
「……いただきます」
一つ口に運ぶ。甘い。少し焦げているけれど——素朴で、優しい味がした。
涙が溢れそうになる。
『駄目よ。こんなことで心を動かされては』
これは契約結婚だ。一年経てば終わる。情を持ってはいけない。
そう自分に言い聞かせながら——なぜか、胸の奥がじんわりと温かくなるのを、止められなかった。
*
月蝕の夜。
激しい痛みで目が覚めた。体中が熱い。瞼の裏で淡い光が明滅する。
『月蝕……!』
月蝕の呪い。ヴァレンシア家に代々伝わる、忌まわしき血の運命。月が欠ける夜、呪われた血筋の者は激しい苦痛に襲われる——そして、三十歳を迎えることなく命を落とす。
「——リディア」
扉が開き、公爵が駆け込んできた。
「動くな」
「公爵閣下……っ」
「瞳が光っている」
「見ないで……!」
顔を背けようとした。これは呪いの証。忌むべき血の証明。こんなものを見られたら——。
「見るなと言われて見ない男がいると思うか」
公爵の手が、私の頬を包んだ。
「俺も同じだ」
「——え?」
公爵が左手の黒革の手袋を外す。その手の甲には——禍々しい紋様が刻まれていた。
「断絶の呪い。ノースクリフ家に伝わる、俺たちの運命だ。三代続けて当主が若くして死ぬ。俺で、三代目だ」
「そんな……」
「俺の母は、ヴァレンシア家の分家出身だった。二つの呪いの根は同じ。だから俺は——お前を選んだ」
公爵の蒼灰色の瞳が、真っ直ぐに私を見つめる。
「——滅びゆくものは美しい。だからこそ、俺が守る」
「守る……?でも、あなたも——」
「俺の命に価値はない。どうせ長くはもたん」
「そんなこと——!」
叫びかけて、口を噤んだ。何を言おうとしているの、私は。会ってまだ数週間の、契約相手に。
「やめてください」
私は公爵の言葉を遮った。
「あなたの命に価値がないなんて、二度と言わないで」
「俺は——」
「私が決める」
体はまだ熱かった。痛みも治まっていない。けれど、頭は驚くほど冴えていた。
「あなたの命に価値があるかどうかは、あなたじゃなくて——私が決めます」
公爵の瞳が、大きく見開かれた。
「……ふっ」
公爵が、笑った。小さく、本当に小さく、口元を緩めて。
「傲慢な女だ」
「お互い様でしょう」
「——そうかもしれん」
その夜から、何かが変わった。
契約だけだったはずの関係に——確かな温もりが、生まれ始めていた。
*
社交界デビューの夜会で、私は再びセドリックと対峙した。
「リディア、話がある。僕と、復縁してくれないか」
「復縁……?あなた、アメリア様との婚約は——」
「あの女に捨てられた。『あなたより良い相手が見つかりましたの。馬鹿ですこと、本気で愛されていたとでも?』——あいつはそう言って、僕を捨てたんだ」
『……因果応報、というやつかしら』
「お気の毒ですが、私には関係のない話です」
「リディア……!」
セドリックが腕を掴んできた。
「離して——」
「頼む、僕にはもうお前しか——」
「——手を離せ」
氷のように冷たい声が響いた。
振り返ると、公爵が扉口に立っていた。その蒼灰色の瞳は、本当に人を殺せそうなほどの冷たさを宿している。
「三秒やる。俺の妻から手を離せ。さもなくば——」
セドリックは蒼白な顔で私の腕を離し、這うようにして逃げていった。
「……ありがとうございます」
「礼には及ばん。……お前は、揺らがなかったのか。昔の婚約者に、そう言われて」
「揺らぎませんでした。だって——」
言いかけて、口を噤む。
『だって、今はあなたのことしか考えられないから』
そんなこと、言えるわけがない。
「——リディア」
「はい」
「今夜、庭で待っている。言いたいことがある」
*
月が煌々と輝く庭園で、公爵は薔薇の傍に立っていた。
「俺は、嘘をついていた」
「嘘……?」
「契約結婚だと言った。お前の家名を買うと。——全部、嘘だ」
心臓が跳ねた。
「俺は三年前から、お前を見ていた。没落した家を支え、屈辱に耐え、それでも誇りを失わない令嬢。社交界の片隅で、誰にも気づかれずに咲く花——俺は、ずっと見ていた」
「三年も……?」
「声をかける理由がなかった。俺のような呪われた男が、お前に近づいていい理由が。でも、あの夜——お前が雨の中に立っていた時、俺は我慢できなかった」
公爵の——アレクシスの手が、私の頬に触れた。
「リディア。俺は——」
「——愛しています」
私が先に言った。もう、隠せなかった。
「私は、あなたを愛しています。アレクシス」
アレクシスの瞳が、大きく見開かれた。
「契約だと思って始まった。でも、今は違う。あなたの不器用な優しさも、照れると耳が赤くなるところも、甘いものが好きなのに隠しているところも——全部、好きになってしまった」
涙が溢れてきた。
「私、あなたに死んでほしくない。呪いなんかに負けてほしくない。——一緒に生きたい、あなたと」
アレクシスの腕が、私を包んだ。強く、強く、抱きしめられる。
「……俺もだ。俺も、お前を愛している。契約など最初からどうでもよかった。——お前が、欲しかった」
「アレクシス……」
「共に生きよう、リディア。呪いがあっても、滅びの運命を背負っていても——お前となら」
*
呪いを解く方法は、母の遺した日記の中にあった。
『真実の愛による献身』——命を懸ける覚悟。けれどそれは、必ずしも死を意味しない。
弟のユリウスが、夢の中で母から聞いたという。
「死ぬんじゃなくて——死ぬ覚悟で、生きる誓いを」
呪いの根源である古い礼拝堂で、私たちは向き合った。
「俺は誓う。この命が尽きるまで、お前のために生きると」
「私も誓います。この命ある限り、あなたと共に生きると」
「滅びゆく運命であっても——」
「——共に、最後まで」
光が、溢れた。祭壇から眩い光が放たれ、私たちを包み込む。
『——許そう。真実の愛を見た。呪いは解かれた』
光が収まった時、私の瞳はもう光っていなかった。アレクシスの手の紋様も——消えていた。
「解けた……?」
「ああ。——解けた」
二人で顔を見合わせ——そして、笑った。
*
それから、一年。
正式な婚礼の日、バルコニーで二人きり、アレクシスは静かに語った。
「一年前、雨の中で出会った時——俺は、お前を拾ったと言った」
「ええ」
「違った。俺が、拾われたんだ。お前に」
「アレクシス……」
「呪いを解いてくれたことだけじゃない。生きる意味をくれた。愛することを——愛されることを、教えてくれた。ありがとう、リディア」
「……私こそ」
月が、二人を照らしていた。
「滅びゆく家に生まれたことを、今は感謝しています」
「なぜ」
「——あなたに、出会えたから」
滅びゆく二つの家は、新しい一つの家になった。呪いは解け、未来は開かれた。
これは——没落令嬢と氷の公爵が紡いだ、最後の名門の物語。
そして、新しい夜明けの物語の始まり。
——Fin.




