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婚約者です、結婚式三日前に寝取られ宣言されました

作者: 夜明け前
掲載日:2026/03/30

カエラ・バルトロは伯爵家の一人娘として、それなりにまともに育ってきた。


勉学、礼法、東部の薬草知識。父の商路を支える帳簿の読み方。貴族の令嬢に求められるものと、バルトロ家の娘に求められるものを、両方きちんとこなしてきた。それが自分の仕事だと思っていたし、不満もなかった。


婚約者に、見知らぬ女を連れてこられた、今日の昼までは。


「カエラ、紹介する…俺の……」


目の前でわざわざ立ち止まって、囁いてくる奴がいる。


レイナルド・フォスター侯爵令息、二十二歳。

眉目秀麗、槍の腕は王国騎士団でも随一、将来有望な侯爵家の嫡男。


そのレイナルドが今、フォスター侯爵邸の中庭で開かれた茶会の場に、カエラの知らない女を連れて現れた。結婚式の、三日前に。


レイナルドとカエラの婚約は政略だ。フォスター家は王都の流通に強く、バルトロ家は東部の薬草ルートを持つ。


互いに欲しいものを持っていた。


カエラがレイナルドを好むかどうかは、その計算に含まれていない。それでもカエラは十ヶ月、誠実にやってきた。

侯爵家の嫡男の妻として恥ずかしくないよう、社交を学び、フォスター家の人間関係を把握し、来たるべき結婚に備えてきたというのに。


「おい、カエラ…聞いているのか…俺の…」


その十ヶ月が、今日の三時間目の茶会で終わった。実のところ、兆候はあった。


半年ほど前からレイナルドの視線がときどき遠くへ行くようになり、約束が何度か流れた。急用、という言葉が増える。ドタキャン、謝罪もなし。

カエラは気づいていたが、確証がなかった。確証がないまま問い詰めるのは、貴族の妻として品がない。


そして何より義母に嘲笑われ、理不尽な暴力を振るわれるかもしれない。


だから黙っていた。それが今日、確証どころか本人を連れてきた。


「ゴホン…カエラ。紹介する。俺の愛するリネットだ」


リネット、とやらは確かに美しい。


淡い金髪、水色の瞳、薄桃色の唇。身分は平民だが、その佇まいは今にも壊れそうな硝子細工のようだった。


令嬢たちが一斉に息を呑む気配がする。

この中庭に今日集まっている令嬢は十数人ほどだ。


全員が今この瞬間、カエラの顔を見ている。

泣くか、怒鳴るか。それを待っている顔だった。


カエラはカップを口に運んだ。アールグレイ。今日の茶葉は悪くなかった。


「カエラ様……ごめんなさい。私、身を引こうとしたんです。でも、どうしても諦められないと言って……」


リネットが大粒の涙をこぼした。

告白してきた側が身を引けと言ったのか、とカエラは思ったが口には出さなかった。


「泣くな、リネット。全部、俺が悪い」

「あら、レイナルド様……♡」

「俺の愛しいリネット……♡」


式の、三日前に。婚約者の目の前で。

大勢の令嬢が見ている場で。

カエラはカップをソーサーに戻した。


「カエラ! 聞いているのか!」

「聞いていますわよ」


レイナルドが声を荒げた。

令嬢たちがまたざわめいた。

ひそひそと、聞こえないと思っているだろう声が届いた。


『カエラさん、泣かないの……?』

『冷たい方だから……』

『だからレイナルド様も……』


嘲笑う声、扇子の端から覗かせる不気味な苦笑い、もうとっくに慣れたものだ。


「怒れよ」

「何故です?」

「泣かないのか」

「何故怒り、何故泣くのですか」


カップをソーサーに置きながら、カエラはレイナルドを見た。彼は今、何かが違うという顔をしている。予想と違う、という顔だ。


きっと怒鳴られると思っていた。泣かれると思っていた。「最低ですわ」とか「どうしてこんな」とか、そういう台詞が来ると思っていたのだろう。


(わかった。この人、私に悪役を演じてほしかったんだ)


激情に駆られた婚約者が喚き散らし、リネットを傷つけ、醜態をさらす。

そのシナリオを用意してここへ来た。お断りだ。


「あんまりだわ♡ カエラ様って婚約破棄に慣れてらっしゃるから、冷静でいられるのかしら♡」


リネットがくすっと笑った。

令嬢たちからも、くすくすと笑い声が漏れた。

カエラは立ち上がる。


「一つだけ確認させてください」

「な、なんだ」

「私との婚約を——破棄したいのですね」

「……ああ」

「正式に申し込んでください。私に異存はありませんわ」


場が、水を打ったように静まり返った。


リネットが金魚のように口をぱくぱくさせた。

レイナルドが初めて、本当の意味で面食らった顔をする。


「い、異存がないとはどういう——」

「字義通りですよ」


カエラはスカートの裾を静かに持ち上げ、レイナルドを真正面から見た。


「感情的になって騒いでも、貴方の気持ちは変わらない。リネットさんとの関係はもう深い。私がどれだけ泣いても、貴方は私を選ばないわ」

「…………」

「違いますか」


レイナルドは答えなかった。それが答えだった。


「誠実に動いてください。正式な手続きを、きちんと踏んでください。私の家への謝罪、慰謝料の交渉、破棄の理由の説明。全て正しく。それだけですよ」

「……っ、いいわけないだろ! 俺はお前に——」

「傷つかないわけがないじゃない」


カエラは窓の外の白薔薇を見た。今の季節、満開だった。結婚したら毎朝この景色を見るのかと、少し楽しみにしていた。


少し、だけど。


「ただ——貴方に怒鳴り散らしても、私の傷は癒えない。ならば次に進む準備をした方がいいわ」

「カエラ……それは、どういう——」

「どちらが泣くことになるかは、もう決まっているけれど」


扉を閉めた。


廊下に出た瞬間、誰にも見えない場所で少しだけ壁に手をついた。三日前なのだ。本当に、三日前なのだ。


手帳の中に白薔薇の押し花を一枚挟んでいることを、思い出した。いつか、レイナルドがくれたものだ。捨てよう。帰ったら、捨てよう。カエラは背筋を伸ばして、廊下を歩いた。





フォスター侯爵邸を出たのは、それから二時間後だった。


荷造りをしていると侯爵夫人——レイナルドの母が挨拶もなしに現れ「本日中に出ていきなさい」と言った。朝から食事が届いていなかった。昨日まで「カエラ様」と呼んでいた使用人たちが今日は目を逸らす。一夜でここまで変わる。なるほど、仕事が速いらしい。


「慰謝料と正式な書類は、いつ届くかご存知ですか」

「この期に及んで要求するつもり? 貴女、家格のわかってないのね」

「家格の話は、法的な手続きには関係ありません」


夫人はそれ以上何も言わずに出ていった。


カエラはバルトロ家に戻り、父が執務室へ帳簿を抱えて入っていくのを確認すると、夕食を食べた。喉には通らなかった。


これはいつものことだ。バルトロ家の食卓が賑やかだったのは、母が生きていた頃までの話で、母が亡くなって二年、父が連れてきた後妻とその娘が屋敷に入ってからは、カエラの席だけが端に追いやられた。昔からいた使用人は一人また一人と辞めていき、今はもう誰も残っていない。父からカエラの名前を呼ばれたのがいつだったか、思い出せない。


義母やその娘に折檻されることも、もう珍しくなかった。


フォスター家との婚約が決まった日、カエラは少しだけ安堵した。嫁いでしまえば、この屋敷を出られる、と。それだけを、密かに楽しみにしていた。


その楽しみが、今日の茶会で終わったのだ。

夕食の皿を片付けながら、カエラはそんなことを考えていた。





婚約破棄から三日後、カエラは父の用事に帯同してシュタイン公爵邸を訪ねた。


父がシュタイン公爵家と古くから取引があることは知っていた。帯同を申し出たのはカエラの方からだった。シュタイン公爵夫人——エレアノーラ・シュタイン。帝都で最も発言力のある夫人と聞く。社交の場で遠目に見たことはあるが、言葉を交わしたことはない。


父が別室で交渉している間、カエラは夫人に呼ばれた。


「ごきげんよう、バルトロ令嬢。先日の茶会でのこと、耳に入りましたわ」

「ご心配をおかけしました」

「あら、心配はしていませんよ」


夫人が扇を使いながら微笑んだ。その目は笑っていなかった。値踏みをしている目だった。


「一つ聞いていいかしら。あの場で貴女が冷静でいられた理由は何?」

「怒鳴り散らしても意味がなかっただけです」

「意味がない、ね」


夫人がふ、と笑った。


「貴女の薬草ルートに、うちが関心を持っていることはご存知かしら」


カエラは少し間を置いた。ここからが本題だと理解した。


シュタイン公爵家は東部との取引を長年望んでいる。バルトロ家の薬草ルートはその鍵になる。しかしバルトロ家はフォスター家との婚約を通じてそのルートを守ってきた。フォスター家の流通網がバルトロ家の商路に安定をもたらしていたからだ。


その婚約が今、壊れた。


フォスター家がどれだけ焦ったところで、バルトロ令嬢なしに薬草ルートは手に入らない。そしてバルトロ家はフォスター家の後ろ盾を失いつつある。


今、バルトロ家は宙に浮いている。


「関心をお持ちいただいているとは、光栄です」


「ただし」と夫人は続けた。


「傷ついた令嬢に、使える手札はない。婚約破棄された哀れな娘を引き立てても、シュタイン公爵家に利はありませんから」


これで良い。これだけのお方に、喋りすぎてはいけない。


「来月、王宮晩餐会があります。一人で出席することは、可能でしょうか」


夫人の目が細くなった。


「私の名で招待状をお出しします。隣にいれば誰も文句は言いません。それから——慰謝料の件は、うちの顧問弁護士が手を貸せますよ。相場の三倍は取れると思います」


「お言葉に甘えます」


「遠慮は要りません。私はただ、面白い取引がしたいだけですから」


夫人が微笑んだ。今度は目も笑っている。


シュタイン公爵家がバルトロ家の後ろ盾になることで何を得るかは、考えるまでもない。東部の薬草ルートへの優先的なアクセス、フォスター家との競合での優位、そしてフォスター家を社交界で静かに追い詰める大義名分。

この夫人は親切で動いているのではない。だが、利害が一致している間は、これ以上ない味方だ。


帰りの馬車の中で、父が「夫人と何を話した」と聞いた。


「晩餐会に同席いただけることになりました。慰謝料の件も、顧問弁護士をご紹介いただけるそうです」


父は少しの間黙っていた。


「……うまくやったな」


そう言って、また書類に目を落とした。

うまくやった、か。


カエラは窓の外を見ながら、ふと、これからのことを考えていた。








晩餐会の当日、公爵夫人の隣で会場に入ると視線が集まった。


婚約破棄された令嬢が帝都で最も格の高い夫人と並んでいる。令嬢たちが囁き合った。昨日まで「お気の毒に」という目をしていた顔が、今日は違う色をしていた。


廊下でレイナルドとリネットと鉢合わせた。

リネットが石になった。レイナルドの顔に、茶会では見なかった色が浮かんだ。


「ごきげんよう、フォスター様。婚約破棄の正式な書類と慰謝料、まだ届いておりません。誠実にお願いしますね」


それだけ言って通り過ぎる。

背後で公爵夫人の小さな笑い声がした。





一週間後、慰謝料が届いた。相場の三倍だった。


父は書類を一通り眺めてから、よかったとも、災難だったなとも言わずに「夕食の時間だ」と言って歩いていった。カエラはその背中を少しの間見ていた。






それからじわじわと、帝都でフォスター家が困っているという噂が流れ始めた。東部の薬草ルートがフォスター家の商路から外れた。シュタイン公爵家と提携したバルトロ家が王都の流通に食い込み始めた。競合していた商家が活気づき、フォスター家の立場が静かに、しかし確実に、苦しくなっていった。


大きな問題が一度に起きたわけではない。ただ気づいた時には、もう遅かった。

リネットがフォスター家との婚約を自ら破棄したのは、それから三ヶ月後のことだった。





その日の夕方、バルトロ家の門前にレイナルドが来た。

一人で来た。侍従も連れず、馬もなく、ひどく憔悴した顔をして。


「カエラ。話を聞いてほしい」

「何の御用ですか」

「……俺は、間違えた」


レイナルドは声を絞り出すように言った。


「リネットは——フォスター家の後ろ盾がなくなった途端に去った。父上にも見限られた。友人も離れていった。社交界での立場も失った。俺には何も残っていない」


カエラは黙って聞いた。


「お前のことを、ちゃんと見ていなかった。お前がどれだけ誠実にいてくれたか、わかっていなかった。頼む、カエラ。やり直せないか。俺はお前のことを——」

「お断りします」

「カエラ——」


「貴方は十ヶ月間、私を放置した。式の三日前に女を連れてきた。令嬢たちの前で晒し者にした」


レイナルドの顔が歪んだ。


「それは——その、俺が悪かった。本当に悪かった。だから頼む。一度だけ話を——カエラ! 頼む! お前だけだ! 今の俺には本当に何も——っ!」


「誠実に動いてください、とお伝えしましたよね」


「カエラ! やめてくれ! 行かないでくれ! お前まで俺から離れたら——やめてくれよ!! お願いだ! カエラ!! 頼む、頼む、頼むから!! やめてくれぇぇぇ!!!」


声が、門の向こうまで響いた。

カエラは振り返らなかった。

屋敷の中へ戻り、扉を閉めた。

廊下の先に父がいた。声が聞こえていたのだろう。何か言いたそうな顔をしていた。


長い沈黙が走る。今なら、義母もその娘もいない。


「……お父様」


カエラは言った。


「一つだけ聞いてもいいですか」

「何だ」

「私のこと、ちゃんと見えていましたか」


父が、少し驚いた顔をした。そして——何も言わずに、カエラの頭にそっと手を置いた。


「辛かったな…今まで」


それだけだった。震える手が頭上で髪をすく。

カエラは途端に顔を歪めた。母が亡くなる前の暮らしを思い描いたとたん、胸の底から、苦い液のようなものが、込み上げてきたのだ。腹から胸、喉へと、鋭い痛みを伴った熱い魂が溢れ出て、涙が止まらなくなった。


レイナルドへの怒りでも、傷でもなく。

ただ、ずっと誰かに聞きたかった言葉の答えが、返ってきたことへの涙だった。





それから半年後、カエラは嫁いだ。

父の古い伝手で紹介された相手は、男爵家の次男だった。フォスター侯爵令息とは比べるべくもない家格で、屋敷も小さく、使用人も少ない。慰謝料の三倍が、当面の暮らしの足しになった。決して裕福とは言えなかった。


それでも食卓に毎朝温かいものが並んだ。夫は話しかければ顔を上げた。笑うと目が細くなる。薬草の話をすると「へえ」と言って本当に聞いていた。


悪くなかった。むしろ、思っていたよりずっと良かった。


義母とその娘が父に手をかけるようになったのは、カエラが嫁いで一年ほど経った頃だった。いじめる相手がいなくなった後、矛先が変わったらしい。知らせを持ってきたのは古参の使用人で、父の腕に青痣があった、食事が満足に出ない日もある、と慌てて言葉を紡いだ。夫に話せば、戸惑う様子もなく連れてくればいい、と言ってくれた。


父はバルトロ家の屋敷を義母に明け渡し、小さな荷物だけ持って嫁ぎ先にやってきた。初日の夕食で、父と夫は二人並んで黙ったまま汁物を飲んだ。翌朝も父はそこにいて、二人の大男は世間話にすっかりと花を咲かせていた。


義母はその後どうなったか、カエラは使用人に尋ねようとも自ら調べようともしなかった。



春の日の午後のことだった。


縁側で父が居眠りをしていて、カエラと夫は連れ立って窓際に立っていた。小さな庭に、名前も知らない黄色い花が咲いている。そのうち調べようと思いながら、もう一年近く忘れていた。


「昔っから人が話しているときも無視したり、考え事したり、冷たい人だって聞いたけど」


夫が庭を眺めながら言った。


「あ〜懐かしいな、それ。誰から聞いたの?」

「レイナルド」

「……なんで夫がレイナルドと話しているんですか」

「街で偶然会った。みすぼらしかったけど」

「そう」


しばらく黙って、二人で庭を見た。


「本当のことだったの?」

「本当のことだったと思います、あの頃は」


夫が少し首を傾けた。


「今は?」


カエラは少し考えた。考えながら、窓枠に肘をついた。

頬杖をついて花を見ていたら、夫が「行儀が悪い」と言った。


「いいじゃないですか、家の中なんだから」

「まあそうだけど」

「それに、今は全然冷たくないでしょう」


「そうだな」と夫は言った。


「むしろ落ち着きがない」

「失礼ですね」


「昨日も縁側から落ちかけてたし」

「蜂が来たんです」

「一昨日は診療所で話し込んで夕飯作るの忘れてたし」

「薬草の話が面白かったんです」

「先週は俺の外套を自分のだと思って着て出かけたし」

「似てたんです」


縁側の方で、父がくすりと笑う気配がした。

居眠りしていたはずなのに。

カエラが振り返ると、父はもう目を閉じていた。耳だけ赤かった。


「お父様、聞こえてますよ」


夫が小さく笑ったので、カエラも小さく笑った。窓の外で、黄色い花が風に揺れた。


カエラ・バルトロは——今は別の姓だが——かつて貴族の令嬢として誠実であろうとしていた頃の自分が、想像もしていなかった場所にいた。


礼法も、帳簿も、薬草の知識も、全部ここで生きている。ただそれが誰かのためではなく、自分の好きなことと地続きになっている。気づいたら、世話を焼く側ではなく、焼かれる側になっていた。


あの頃のカエラが、今のカエラを見たらなんと言うだろう、とたまに思う。

落ち着きがない、行儀が悪い、年甲斐もない、と言うかもしれない。


でも——それで良かった、と思っている。

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