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春の嵐と旅立ち

作者: たま

その手紙は、まるで春の風のようだった。

いや、違う、その手紙は、私の心に春の嵐を連れてきた。


可愛らしい淡い桃色の便箋に金の縁取り。

女学校時代に流行った西洋趣味の、それは華やかで、どこか懐かしい匂いがした。


もう、既にあの世界とは違う場にいるのに。

今でも鮮明に思い出せるのだ。

人の記憶というのは、本当に面白いと思う。


「凄い豪華な招待状ですね」


隣に座っている国語教師の小山田先生が横目で見ながら言う。


「とてもお金がかかっている」


ちょっと皮肉そうなセリフも追加で。


「…そうですね、女学院時代の…」


「あぁ、松島先生は桜光女学院をご卒業でしたか、それならば納得ですね」


勝手に一人で納得している小山田先生に、曖昧に誤魔化しながら微笑む。


友達、とは、もう言えなかった。

ううん、言いたくなかった。  


「三好 正太郎、長男、一太郎・杉山 剛三、長女、鈴の結婚の宴に、ぜひお越しください」  


差出人の名前を指でなぞる。


懐かしさと、痛みと、まだ消化しきれていない何かが、胸の奥を軽く叩く。


あの子が、あの人の、花嫁になる。    


あの人。

私の元婚約者。

まだ幼稚だった私の初恋の、人。


名家の長男で、真面目で穏やかな人だった。


彼は、春になると薄い色の羽織を好んで着ていた。

陽射しの中に立つその姿は、ひどく柔らかくて、遠くから見ているだけで心が和らいだのを覚えている。


最初は義務のような文面だった手紙も、少しずつ筆致が変わっていった。

たとえば、私の好きな花を尋ねる言葉が添えられたとき。

たとえば、ある日ふと届いた、朝顔の押し花がしおりに挟まれていたとき。

「あなたが朝顔が好きだと書いてあったので」


そんな一言が、どれほど嬉しかったことか。

私たちは恋をしたのだ。 

お見合いから始まった、約束された仲という枠を越えて、ちゃんと、心を通わせていた。

私は、確かにこの人と共に歩んでゆこうと思っていたのだ。


父の商いが傾いたのは、ほんの一瞬だった。

それまで堅実に営んでいたはずの商いが、なぜか一斉に見放された。

借金が雪崩のように押し寄せ、信頼は一夜にして崩れ去った。


一太郎様との婚約も、当然のように解消された。

彼は最後まで丁寧だった。

責めることも、逃げることもせず、謝罪だけの為に訪れたのだ。

そして、ただ静かに頭を下げた。


「本当に……申し訳ありません

僕の力が足りず…お助け出来ず…」


私は、なにも言えなかった。

それに、未だ学生の彼に何が出来たであろうか。

それでもなお、彼の背を見送ったあの瞬間──

私は、心のどこかで彼を、そして世界を、少しだけ憎んだのかもしれない。

 

そして、数ヶ月後に知ったのだ。

父を陥れた商人が、杉山 鈴の、父だ、ということを。



私は封筒を閉じ、そっと膝の上に置いた。  

行くべきではない、とわかっている。  

けれど、会いたいとも思ってしまった。

たとえ、それが間違いだとしても。


それにしても。

一体どこから聞いたのか。

わざわざ、私の母校とは異なる女学院で教鞭をとっている私に、職場へ手紙を寄こすとは。


まあ確かに今の家なんて、きっと分からないだろう。

何せ私の今の住まいは表通りから外れた住宅の一角、 かつては三人の子を育てたという老夫婦が住む一軒家の、離れの6畳間である。

名ばかりの玄関と、木製の雨戸。 壁にはうすら寒い隙間風。

それでも、母の実家に身を寄せた時に寝泊まりした場所に比べたら、どこだって素晴らしい場所だろう。

人の気配がしない、私だけの空間。

私はそういう場所を求めていたのかもしれない、今ならそう思う。


鈴とは、桜光女学院の高等科で出会った。


今も思い出せる。


初めて同じ机を並べた春の日、桜の花びらが教室の窓から吹き込んできて、彼女の髪にひらりと留まった。

誰かが笑いながら「春を、教室まで運んできてくれたのね」と言ったら、彼女は照れくさそうに笑って、そのまま花びらを髪につけたままにした。


あの笑顔を、私は好きだった。


鈴は、どこか場違いなほど華やかだった。

表情も、声も、仕草も、どれも外連味があるのに下品ではなかった。

よく言えば明るく、悪く言えば図々しい。

けれど私は、あの頃の彼女の隣にいるが好きだった。

多分幼稚部からずっといた級友たちとは全く違う鈴に、どこか目を引くものがあったのだと思う。


私の家は地主で、良家の子女らしいふるまいを叩き込まれて育った。

品のある言葉、控えめな笑い、目立たぬこと。

そうすれば、よい縁談が来ると。

一方、鈴の家は成金の香りがした。

石炭業で財を成し、女学院にも「お金の力」で滑り込んだという噂が絶えなかった。

それでも鈴は動じなかった。むしろ、それを追い風にでもするかのように、伸びやかに振る舞っていた。


「私、別に良家の男の人と結婚したくて、ここに来たわけじゃないのよ」


ある日そう言って、彼女は自分の爪を見つめた。


「母が言ったの、女が学問を身につけても、いいことはないって。

それが悔しくてたまらなかった。

だけど、実際に私が行きたい学校は行かせてもらえないし、なら考え方を変えたの。

ここの名門女学院卒業で、才女だったら、上にいけるかもって。

だから、絶対に首席を取るって決めたの。

私、先生になりたいの」


その頃にはもう、私たちは親友と呼べるほどの仲になっていた。

試験のたびに競い合い、放課後は一緒に寄宿舎の裏庭で本を読んだ。鈴は美しい声で、素晴らしい詩、難解な外国の詩ですら朗読してくれた。

私はその横顔を、何度も見ていた。

誰よりも上を目指して努力している目だった。


そして、鈴はとても素直だった。

口から思ったことを出す、ような素直さだった。

それはもろ刃の剣だったけど。


私達の女学院は、全員が全員卒業をするわけではなく、卒業前に結婚し退学していく生徒も多い。

その日も、そんな一人を見送った後だった。


「澄江さんも、婚約者がいるんでしょ?」


鈴が、真剣な顔で聞いてくるから、私も途中で退学するのかと思って聞いたのだと思った。


「えぇ、いるわよ。

多分、クラスの半数以上は婚約者がいるのではないかしら?」


私が小首を傾げながら、ええと、長内さんとか、長浜さんとか、と級友の名前を口に出していたら、鈴が遮った。


「どんな方?」


「どんな方って、え?なぜ?」


「私には婚約者もいないし、将来先生になるし、縁遠くなりそうだから、参考までに」


そう茶化しながらも必死な顔をしていた鈴を、私は不思議そうに見た。

今、思えば、あれは、きっと、好きな人の動向を知りたかっただけ、なのだと思うけど、幼稚な私には分からなかったのだ。

私はかいつまんで話した。

あの人の事を。

きっと嬉しそうな顔して、恋した女の顔で。

一通り聞いた鈴は微笑んでいた。


「すごいわね、澄江さん。

きっと素敵なご夫婦になるわ」


「ありがとう。でも、まだ何も……」


「それでも。

あんな穏やかで優しい方、なかなかいないもの」


私は、少し首をかしげて微笑んだ。


「あら?

鈴さん、一太郎様の事、ご存知だったの?」


そのときふと、胸の奥に小さな波が立った。

言葉にできない、ほんのわずかなざらつき。

なぜ、鈴さんが彼を「穏やかで優しい方」だと知っているのか。

私が伝えたことは名前と婚約のことだけで、今までこんなに詳しく話した覚えはなかった。

鈴は少しだけ目を伏せて、すぐに顔を上げた。


「ううん、澄江さんが話すとき、とても嬉しそうだったから。

なんとなく、わかるのよ。

それに……一度だけ、父が開いたパーティーでお会いした事があったの」


そう答えた彼女の笑顔に、嘘はなかった。

けれど、どこかその瞳の奥が遠く感じられた。

私の喜びに、鈴は微笑んでくれた。

心から祝福してくれたように見えた。

けれど──あのとき、あの瞳の奥にあった何かに気づいていれば。

それは、羨望だったのか。

それとも、恋だったのか。

当時の私は、そこまで深く踏み込んで考えようとはしなかった。

親友だから、まさかそんな──

そう思い込んでいたのだ。



教師に憧れていたあの鈴は、教壇に立つことなく――家事見習いという名の下、あの人のもとに嫁いでいく。

反対に私は、今もこうして。

たとえ代用教員という肩書でも、教壇に立ち続けている。


どこで運命が交差したのか。

私の家が没落したからだろうか。

あるいは、あの人との婚約がすべての始まりだったのか。

鈴の両親が、父を欺き、土地を奪ったせいなのか――。

そこまで思考が進んでいくと、私の心まで黒く染まりそうになる。

あぁ、もう済んだことだ。

今さら戻ることもできない、昔のことだ。

小さく頭を振る。


「先生、午後の会議は二時半からに変更になりましたって」


廊下から、教務課の方が顔を覗かせて言う。私は微笑み、軽く頷いた。

現実が静かに私を引き戻す。


「ありがとう、秋山さん。

伝えてくれて助かりました」


「いえ、それじゃ、失礼します!」


ぱたぱたと足音が遠ざかっていく。

私は、再び便箋に目を落とした。


「眉間に皺がすごいですけどね。

家内がいつも気にしているから、ついお節介ながら忠告です」


「小山田先生、一言多いですよ」


思わず笑ってしまう。


「僕は朴念仁ですからね、あぁ、でも人生の先輩として言うならば。

行きたくないのであれば、行かなければいいのですよ、そんなの」


「結婚という大きな節目を、そんなの、の一言で終わらせる国語教師なんて小山田先生くらいですよ」


小山田先生は、首を傾げながら熱くもないのに扇を揺らしながら肩を竦めた。


子供達が帰り、ざわめきも落ち着いた頃。

静かになった教員室で鞄の中にあの手紙を入れようとして止めた。


諦めの色濃い小さなため息が、漏れ出る。


朝、用務員さんから渡されたときに、会いたいと思った気持ちは、もうとうに失せていた。


なぜならば、行けば、自分がどれほど惨めかを思い知ることになるだろうから。

大体、私に何を着ていけ、というのだ。

あの煌びやかな場所に戻るには、それ相応の出費がかかる。

着飾った令嬢たちの中で、私のような影は、あまりに場違いだ。


もう、私はあの世界の人間ではない。

 

あの煌びやかな場所から、追い出された人間である私に。


あの頃のことを思い出すたび、胸の奥がひやりと凍る。

淡く、けれど確かに芽生えていた未来への希望は、音もなく踏み潰されたのだから。

 

その後、私はあの手紙を出来るだけ気にしないようにして過ごした。

礼儀として返事を出すべきだ、とは理解している。

だが。

正直言えば、返事を出すためだけですら出費がかかる現実が私の両肩にのしかかるのだ。

まず、それ相応の便せんや封筒を買わないといけない、勿論切手代も。

あの当時の私なら、何も考えずにお手伝いさんにお願いしてお終いだったこと、だ。

全てが全てにお金がかかるという現実を知らなかったから。


お豆腐を一丁我慢すれば、と計算してみて、思わず苦笑した。


私、着ていく服もないのに出席する気だったのね、と。


会いたい。


それは、誰に会いたいのかすら、もう自分でも分からなかった。


優しかった一太郎さんの面影を追うように。

鈴の父親が私達を陥れたなんて嘘だよね?と確認したいがために。


一人、冷たい隙間風が入る部屋で震えながら夕飯を取る。

冷えた白米は、お櫃の中にある。

梅干しは大家さんの手作りだ。

それに大根葉を炒めたものも。

七輪をチラリと見る。

火事防止のため、週末くらいにしか出番がない。

これを売れば、いくらか服の足しになるかもしれない、そんなことをぼんやり思いながら、あまりにも現実的でない考えに軽く頭を振る。


売ったところで服が買える値段になるわけでもなし。

小さくため息をつくと、少しだけ胸のもやもやが薄れた気がした。



「それで、行くことにしたのですか?」


手紙が来てから1週間が経った頃、隣の小山田先生から声がかけられた。

彼の視線の先は、私の昼ご飯である小さな握り飯。


「いえ、返事を出すにもお金がかかりますし。

向こうも来るとは思っていないはずです」


「そうですか」


小山田先生は何度も頷く。


「これは、独り言なのですが」


随分大きな独り言だと、思わず笑いそうになる。


「私の娘はですね、親が決めた縁談を嫌い、反対をしていた絵描きの若造と心中しました」


その発言に、笑顔が凍り付いた。


「とても大人しい娘でした。

だが、誰に似たのか、とても頑固なところもある娘でした。

私達には、一人しか子供ができませんでしたから、おそらく、必然的に過保護になりすぎたのでしょうね」


何と言葉をかけていいか分からずに、ただ小山田先生を見つめる事しかできない。


「その娘に、振袖を誂えていたんです。

――誰の袖も通らぬまま、しまってあります。

……さて、これで私の独り言はおしまいです。


ここからは、助言です。

師範学校に興味があるなら、一度いらっしゃい。

話くらいは、聞いてあげましょう」


そう言って、小山田先生はすっと席を立ち、教務室をあとにした。


「…」


私は、やはり言葉が出ずにただ、彼の後ろ姿を見つめていた。


何日か悩んだ末、結局、私は彼のもとを訪ねることにした。

言い訳はいくつもあった。

借りたい本があったとか、教員になるための相談だとか。

そう、今の私は代用教員でしかない。

教員になるには女子師範学校に行かないといけないのだ。

私が調べていた師範学校の案内書を、彼は気がついていたのだろう。


けれど、小山田先生はすべてお見通しだった。


「着ていくものがないのだろう」


ふいに、そう言われて、私は目を見開いた。


言い当てられた羞恥と、情けなさと、何か温かいものがないまぜになって、喉の奥がつかえる。


口元だけで笑った先生は、ふっと煙草をくゆらせると、書斎の奥に吊るされた着物を指さした。


「娘に買ってやったのが、あれだ。

松島先生の雰囲気なら、娘のとも合うだろう」


私は言葉を失った。

あの、世間に対してどこまでも皮肉を飛ばす小山田先生が、こんなにも優しい眼差しをするとは。


つるされた着物は、濃い梅色に金糸の刺繍が施された、大人びた振袖だった。

派手さよりも、品の良さが際立っている。

まるで、選んだ人の想いがそのまま布に織り込まれたようだった。


恐らく、小山田先生の娘は――成人式を迎えることもなかったのだろう。

それでも、娘のために用意されたその一着には、どれほどの愛情と希望が込められていたのだろうか。


そして何よりも、仕立てから全てが驚くほど丁寧で、美しかった。

借りるのを、躊躇うほどに。


「……本当に、よろしいのですか?」


私がそう問うと、先生は、まるでそれが他人事であるかのように、さらりと言った。


「着る者もなく、飾られることもなく、ただ親の感傷のままに朽ちていく絹に、果たして意味があると思うかね?」


 そして、少しだけ視線を落として、こう続けた。


「箪笥の肥やしになるくらいなら、誰かのために役立てばいい。

物、とはそんなものだと思わんかね?」


隣に座っていた小山田先生の奥様も、何も言わずに頷く。

それは、長い時間をかけて、ようやく辿り着いた覚悟のようにも見えた。

その奥様の瞳が一瞬だけ伏せられた後に、力強く私を見つめた。


「……あの、このまま何も言わずにいると、かえって遠慮されてしまうかもしれませんので……さしでがましいようですが、申し上げますね」


奥様はおっとりとした口調のまま、けれど確かな意志を込めて言葉を継いだ。


「実は……松島先生の乳母をしておりました君子は、私の大叔母にあたります」


衝撃で、言葉が出なかった。

私の生い立ちを知っている人が、こんな身近にいるとは思ってもいなかった。


「大叔母は、夫に先立たれた後、松島の旦那様にどうにもならなかったときに仕事をくれて救われたと言っておりました。

単なる店子でしかなかった大叔母の為に骨を折ってくださったのだそうです。

大叔母は最後まで感謝しておりました。

そして貴女の事もずっと気にかけていました。

お人形みたいに可愛いお嬢さんで、旦那様がそれはそれは大事にされていたって、目を細めて嬉しそうに話してました。

そして何よりも大叔母は、貴女の幸せをずっと祈っておりました。

…私からも改めてお礼を申し上げます。

本当にありがとうございました」


お礼を言われ、頭を下げられる。


人が良かった父。

困ってる人には、必ず手を差し伸べていた。

疑うことなど何一つ知らなかった父。

父が全財産を失ったとき、誰も、手を差し伸べてくれなかった。

父は、私を誰かの妾にするとか、お金を得る方法はまだあったというのに、娘を贄にする事をしなかった。

真っ先に母と離縁して、母の生家に送り返された。

優しい、父だった。

なのに、いつの間にか、私は父を恨んでいた。

いつの間にか、憎んでいた。


なんで、と。

なんで私が、こんな目に、と。

父がしっかりしていてくれたら。

父が騙されさえしなければ――と。


離縁され、切り離されたその決断を、私はずっと「逃げ」だと思っていた。

父は母に、そして私に、責任を放り投げたのだと。

私ひとり、残されたような気がして。

頼れる人も、寄り添ってくれる人もいなかった。

あの頃、私はまだ子どもで、

父の優しさを理解出来なかった。したくなかった。


でも――違ったのだ。


父は、たったひとつの財産だった私を、守ろうとしたのだ。

世間に無能と罵られようとも、

妻を帰し、娘を売らず、ひとり泥を被って生きることを選んだ。


そのことに、ようやく気づいた。


何年もかけて、何度も心を閉ざして、ようやくここまで来た。

父の行いが誰かの人生を救い、想いがこうしてまた、私のもとへと還ってきたのだ。



小山田夫妻の前だというのに、堪えていた涙がこぼれ落ちた。

押さえきれなかった感情が一気にあふれ出し、私は声を上げて泣いた。

小山田先生の奥様が、そっと私の背を撫でてくれた。


泣きじゃくったあと、ふと我に返ると、たまらなく恥ずかしくなった。

気づけば、小山田先生は別室へと姿を消していた。


「あの人は、女性の涙に弱いから。

どうしてよいか分からなくて、狼狽えてしまうのよ。

ふふ、可愛いでしょ、男の人って? 」


含み笑いをしながら、奥様はそう教えてくれた。


奥様が静かに立ち上がった。


「さあ、おいでなさい。

一度袖を通して、直さないといけない場所がないか確認をしましょう」


私は、ただ深く頭を下げた。


隣の座敷に移動し、ひとつひとつ手をかけられながら着物を身にまとっていく。

帯が締められ、衿元が整えられるたびに、私は少しずつ、別人になっていくような気がした。

奥様の手は丁寧で、どこか祈るような気配さえあった。

鏡越しにその姿を見つめると、彼女の目元にかすかな潤みが浮かんでいるのに気づいた。


「……ほんとうに、よく似合うわ」


そう言ったあと、奥様はふっと笑った。

けれどその笑みに、どこか懐かしさと、哀しさとが滲んでいた。


「まるで、あの子が帰ってきたみたい……」


その言葉に、私は返す言葉を見つけられなかった。

ただ、胸の奥がきゅうっと締めつけられるようで、何も言えずに奥様の手を握り返すことしかできなかった。

そこには、私だけではない、あの家族の想いが、確かに宿っていた。


「旦那様、終わりましたよ」


奥様が声をかけると、小山田先生がのっそりと部屋に入ってきた。

私を見ると、目を細める。


「似合っているな…」


嬉しそうでいて、どこか寂しげな笑顔だった。


「これなら、周囲に引けを取る事はないだろう」


小山田先生の確信に満ちた声。

私も曖昧に頷く。


この衣装なら、確かに見劣りしないだろう。

きっと周囲も没落した令嬢という、憐みの眼差しで私を見ることはないだろう。

そう思う。


だけど。

だけど――

彼らの眼差しを受けて、胸の奥で、何かが静かに訴える。


それは違う、と。


私は、帯の結び目を見つめた。

このひと結びを解けば、私はまた、元の私に戻る。

お姫様の魔法は続かない。

ただ、現実が続いていくだけ。


ひと時の魔法に惹かれないわけじゃない。

でも、そのために小山田ご夫妻の好意を利用するのは、違うと思った。

今の私には、そんな資格はない。


…もう行かなくていい。

私は私のままで、生きていける。


その感情は自然にストンと私の胸に落ちてきた。


「大丈夫そうね、特にお直しはいらなそう」


奥様の明るい声に、笑顔で頷く。


「ありがとうございます。

でも、もう、大丈夫です」


二人とも、不思議そうな顔で私を見る。


自分の着物に戻った後、私は二人に相談をした。


師範学校に行きたいこと。

そう、代用教員ではなく、きちんとした教職の資格を取りたいこと、を。


「……乗りかかった船だ」


小山田先生は少し照れたように煙草に火をつける。


「保証人くらい、してやろう。

通う間は……我が家にいればいい」


「えぇ、そんなご迷惑は!」


焦って声を上げた私に、奥様がそっと私の背を押した。


「そのほうが、あの子もきっと喜びます」


思いがけない提案に、相談をした私のほうが驚いてしまった。


「大叔母も、絶対賛成しますもの」


そう言って茶目っ気たっぷりに笑う奥様の笑顔を、小山田先生は笑いながら見ている。


胸が暖かくなった。


お父様…

今は亡き父に、声なき声をかける。


目の前のお二人にも、言葉が出てこなかった。

また、涙腺が緩む。


「今日の私は泣いてばかりです…」


涙を拭いながら、お二人に深く頭を下げた。


「本当に、ありがとうございます」


心の底から感謝の気持ちを言葉に乗せる。


「なら、着物は師範学校の卒業式で着ると良い」


ぶっきらぼうな声で小山田先生が言う。


「あら、それは良い提案ですね」


奥様が笑う。


「まだ入学もしていませんよ?気が早いです」


私がそう言うと、皆が声を上げて笑う。

私も泣きながら笑った。


その夜、私は文机に向かって大きく深呼吸をしてから手紙を書き始めた。


杉山 鈴 様


結婚披露の宴のご招待、どうもありがとうございます。

あなたからのお手紙を手にしたとき、懐かしい女学院の日々が胸によみがえりました。

本来ならば、直接お祝いを申し上げるのが礼儀と存じますが

まことに勝手ながら、当日は伺うことが叶いません。どうかお許しください。

おふたりのこれからが、どうか穏やかで、あたたかな幸福に満ちていますように。

遠くから、心よりお祈り申し上げます。


かしこ


松島 澄江


私は手紙を封に閉じ、そっと目を閉じた。


封を閉じるその瞬間、胸の奥でくすぶっていた想いが、静かに沈んでいくのを感じた。

初恋の終わりと、もう戻らない少女時代の淡い思い出と共に。


嵐はいつか止むものだから。



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