第一話 喋る犬
俺は今、知らない場所に立っている。
――どこだ、ここは。
息を吐き、心を落ち着けようとする。だが、焦りが胸を締め付ける。
なぜ、俺はここにいる……?
記憶喪失か?
いや、違う。記憶はある。今日の喧嘩もはっきり覚えている。
俺は俺だ。
加賀見聡明。
身長180センチ、体重65キロ、16歳、高校二年生。
すべてわかっている。なのに――。
ドラマや漫画のような劇的な話じゃない。
事故も、衝撃的な事件もない。
喋り方が変わるわけでも、性格が別人になっているわけでもなさそうだ。
ただ。
ここにいる理由が、まったく分からない。
いや、待て。心当たりはある。
学校の帰り道――後頭部に鋭い衝撃。金属バットで殴られたんだ。
伊達工のヤツらが、いきなり襲いかかってきやがった。
俺じゃなければ、死んでいたかもしれない。
死?……まさか、俺は死んだのか?
そうでなければ、この閑静な住宅街に佇む一軒家と俺に、何の関係がある?
たしかジョジョの吉良吉影もそんな感じだった――完全に無意識のうちに、この場所へ足を運んでいる。
そして、この場所は……来たことがあるようで、ないような。
胸の奥がほっこりと温かくなるような、不思議な感覚だ。
この門扉を越え、早くこの家に入りたい――そんな衝動が湧き上がる。
――まさか。
子供の頃、この辺りに住んでいて、記憶の断片を頼りに来てしまった……とか?
この家の住人に聞けば、何か分かるかもしれない。
中に入れば、手がかりが見つかるかもしれない。
だが、見ず知らずのヤンキーが突然現れて「家に上がらせてくれ」なんて言ったら、怖がられるのは確実だ。
学ランはともかく、中のTシャツには返り血がついている。
後頭部を金属バットで殴られ、パンチもいくつかもらったせいで、顔も少し腫れているかもしれない。
ちぃ!家に上がれば何か掴めるはずだ――俺の野生の勘がそう告げている。
沸々と湧き上がる感情で、居ても立っても居られない。
門扉に手をかけ、いざ中へ入ろうとする――その瞬間。
「ウォン!ウォンッ!」
『おい、お前!見かけない顔だが、何の用だ?』
――声?……いや、鳴き声?
いや、違う。確かに“声”として呼びかけられた。
辺りを見渡すが、閑静な住宅街に人の気配はない。
気を取り直して、もう一度門扉へ手をかけた、その瞬間――
「ウォン!ウォンッ!」
『学ラン?……この辺じゃ珍しいな。フム、目つきも悪いし、身なりもいいとは言えん。怪しいヤツだ!門扉から手を離せ!』
――俺に言っているのか?
声のする方を見やると、この家のリビングと思われる場所の窓ガラスが少し開いている。
そこから顔を覗かせているのは……犬、だ。
犬?
確かに鳴き声は聞こえた。だが、話しかけてきたのは誰だ?
どこか別の場所から見られているのか?と周囲を見渡すが、どう見ても犬以外に誰もいない。
「ウォン!ウォンッ!」
『頭悪そうな男だ。おい、勝手に人の家に入ってくるんじゃない!……と言っても、人間にワタシの言葉が通じるはずもないか』
「はぁ?頭が悪いだと!?俺に言ってんのか!? どこの誰だか知らんが、喧嘩売ってんのか!門扉にインターホンがねぇから玄関まで行こうとしただけだ。無断で家に入るつもりはねぇよ!」
「ウォン!ウォンッ!……ウォッ?」
『門扉にインターホンがないからって、お前みたいなヤツが敷地に入ろうとすれば怪しいだろ!?しかも……オレの知る限り、見たことのない人間だ……って……は?どうしてワタシの言葉に人間が答えているんだ!?』
「何を訳のわからんこと言ってんだ?文句があるなら姿を見せろ!」
姿は見えない。俺はとにかく大声で叫んだ。
「ウォンッ!」
『うるさいぞ、お前!……しかし、本当にワタシの言葉が分かるのか?』
「はぁ?何言って……って、え?……は?……はぁ〜!?」
犬だ!明らかに犬が喋っている!いや、厳密には―― 俺は犬の言葉を理解している?……というべきか。
表情を見れば、驚いているのは向こうも同じらしい。
クク、いよいよ俺はファンタジーの世界に足を踏み入れたってわけか。
どうせならタイムトラベルが良かったな……ヤンキー全盛期の1980年代に迷い込みたかった。
そうすれば、きっと俺は伝説のヤンキーとして語り継がれていただろう。
『こんなことがあり得るのか!?しかもこんなアホみたいなヤツが……』
口や目を見れば、犬にも表情があることが分かる――なんてことを言う飼い主はいる。
だが、そんなレベルじゃない。
今、あの犬は明らかに驚いている。
目を見開き、口は半開き。「な、なんだと!?こんなヤツが!」と心の声まで聞こえてきそうだ。
こりゃ相当ヤバいな……
記憶にないはずのこの家に無意識に来ていたこと。
なぜかこの場所を懐かしく感じること。
そして――犬が喋っていること。
いろいろありすぎて、すでに俺のキャパを超えている。
「ウォンッ!」
『お、お前は……な、何者だ!!』
ふっ……ワン公のほうも混乱しているらしい。
そりゃそうだ。ヤツからしてみれば、不審者扱いしていた人間が、唯一自分の言葉を理解できるんだからな。
俺も何が起きているのか分からない。いや、それどころか、もしかしたらもう死んでいるのかもしれん。
何せ、思いっきり金属バットで後頭部を殴られているんだ。だが――不思議とまだこうして意識はある。
死んで、あの世とこの世の狭間にいる……そんな可能性もあるかもしれない。
分からないことだらけだが、この家に入ることさえできれば、何か掴める気がする。俺の本能がそう告げている。だったら――
「おい、ワン公!どうやら俺はお前の言葉が理解できるようだ。お前も気になるんじゃないか?……どうして俺が犬の言葉を理解できているのか。どうだ、俺と手を組まないか?人間と喋れるなんて貴重な体験だろ?」
「ウォンッ」
『――な、なんだと!?人間と喋る……い、いや!ワ、ワタシはお前と喋ることは……何もない!』
「ん?テンパってるのか?動揺を隠せてないぞ。だが安心しろ!俺はただ、この家のことが知りたいだけだ。別にこの家の人間に危害を加えようなんて考えているわけじゃない」
俺は犬の言葉を理解できる。
それが普通のことじゃないのは分かっているが、今はそんな驚きに浸っている場合じゃない。何か手掛かりを掴むためにも、まずはこの犬を引き込まなければ――
「ウォンッ」
『ワタシが動揺してる!……だと?貴様ごときに――』
おっ俺の言葉に反応したな。賢そうな顔をしているが、所詮は犬だ。好奇心を抑えられるはずがない。
よし、こいつから情報をできるだけ引き出して――。
「ワン公、お前のご主人様のことを知りたいわけじゃない。ただ、この家について何か掴みたいだけだ。俺に協力してくれないか?」
「ウォン!ウォン!」
『フンッ……坊主、あまりワタシを舐めるなよ。さっきは少しばかり驚いただけだ。貴様がいくら我々の言葉を理解しようとも、ご主人様を売るような真似はできん!ワタシから見れば、貴様は不審者そのものだ。立ち去れ!』
「――なっ!?」
まさか……好奇心より忠誠心を優先するとは。
普通、動物ってもっと本能的な生き物だろう。ちぃ……もう少し話を引き延ばして、突破口を探さないと――。
「なぁ、ワン公……坊主って随分な言い方だな。俺は16歳だ。お前は何年生きてる?俺のほうが歳上じゃないか?」
「ウォン!ウォン!」
『フッ……坊主、人間の尺度で物事を測るな。時の流れを、お前たち人間と我々が同じように感じていると思うなよ』
「――どういう意味だ?」
「ウォン!ウォン!」
『チッ……分かりやすく言うぞ。この世界に「一日」という時間の概念があるとして、お前の「体内時計」とワタシの「体内時計」は当然違うだろ?
分子レベルの話だがな。そうした異なるシステム同士がクロストークを通じて時間を感知し、認識する……』
「――ちょ、ちょっと待て!お前、本当に犬なのか?いや、言ってることが高度すぎて全然頭に入ってこないんだが……まさか『実は中身は人間でした!』なんてことはないよな?」
「ウォン!ウォン!」
『はぁ……分かりやすく説明してやったつもりだったんだがな。どうやら、お前の理解力は犬未満のようだな』
「――ぐっ!」
「ウォン!ウォン!」
『ワタシは、まぁ犬の中では賢いほうだと言われてはいるな。だが、正真正銘の犬だ。人間ではない。人間からは「ジャーマンシェパード」と呼ばれている犬種だ』
ジャーマンシェパード……俺は犬に詳しくはないが、たしか救助犬とか警察犬として活躍している犬種だったはずだ。
知的で忠誠心も服従心も強い――そう聞いたことがある。いや、それにしても頭が良すぎるだろ。悔しいが、間違いなく俺より賢い。
「ちょっ、ちょっと聞いてくれ!お前みたいに頭のいいヤツだからこそ言うんだが、俺は今、不思議な感覚なんだ。
昨日まではまったく知らない場所をさまよっている……そして、なぜかこの家が懐かしく感じる。ここに入れば何か分かる気がするんだ……それに、間取りもぼんやりとわかるんだぞ?
どう考えてもおかしいだろ!?しかも、お前の言葉まで理解できるんだ!何でもいいから【俺】に心当たりはないか?」
「ウォン!ウォン!」
『それを信じろというのか?それが嘘ではないと、誰が証明できる……まぁ、かと言ってワタシも所詮は犬だ。
人間社会では貴様のほうが立場は上だろう……ふむ、この家については何も言えないが……百歩譲って、お前の話が本当だとして考えられる可能性は――【輪廻転生】による【追憶】だな。前世の記憶が断片的に蘇り、ここへ導かれた……そんなところだろう。我々の言葉が理解できる理由は、正直よく分からんがな』
「――前世の記憶!?つまり、ここに以前住んでいたヤツが【俺】だったってことか!?でも、この家ってそんな昔からあるのか?すごく綺麗だから、全然そんな感じはしないんだが……」
「ウォン!ウォン!」
『この家については言えないと言ったはずだ。ワタシはまだお前を信用していない。不審者に余計な情報を渡すわけにはいかないからな』
「――ふ、不審者って!俺は――」
「ウォンッ!」
『まぁ、そんな時代遅れのヤンキーみたいな格好をしてるしな。もし前世の記憶が影響してるなら、そのセンスも昔のままなのかもしれんが……』
「いや、これは俺の素だぞ。前世の記憶とか関係ない」
「ウォンッ!」
『いや、それ素かよ!今どき珍しいな、おい!』
「もぉ〜、アル?さっきから何を吠えてるの。外に猫でもいるの?」
ワン公との会話に夢中になっていた俺は、門扉の前で前のめりになっていた。
どう見ても不審者状態だ。リビングのカーテンが開くと、ピンクのかわいらしい部屋着を着た少女と目が合う。
シャワーでも浴びていたのだろうか、頬はほのかに朱色に染まり、頭にはタオルを巻いている。彼女は俺を見るなり、わなわなと顔を歪めた――。
クズでも見るような目……そりゃそうだろう。家の門扉を今にも乗り越えようとする不審な男に、シャワー上がりの無防備な姿を見られたんだ。
もうほとんど痴漢だ。ワン公なんて「あちゃー」みたいな顔で俺を見てるし、俺も目のやり場に困るしで……って、アイツは!?
あ、青葉美桜!?
「――ア、アナタは!加賀見……くん!ど、どうして私の家に!?……つ、付けてきたの?ま、まさか……ス、ス、ストー……」
「――お、おい、青葉!」
「――な、何よ!」
危ねぇ。この世界一のヤンキーになろうかって俺が、ストーカー呼ばわりされるところだった。
普通に考えればそうだよな、そうなるよな。せめて青葉と面識がなければ良かった……中途半端に知ってるヤツなだけに、不信感が増してしまう。
どうする俺……どうすればここを乗り切れる――
「あ、あれだな……ここで話すのもなんだから、とりあえず家に入れてくれるか?」
「――入れないわよ、バカ!変態!」
『コイツはあれだ……アホだ!』