第54話、戦闘(6)
私は今まで、正義ってなんだろうとか思ったことはなかった。 もちろん、私自身がいつも正しいとも考えたこともない。
ただ、すべての人は誰もが異なる考えを持っており、尊重されるべきであると思っていた。 しかし、それは誰もが共通の常識と概念を共有している世界でのみ可能なことだった。あるいはオルソンのような真っ直ぐで誠実な人が率いる共同体でのみ通用する考えだった。
「死ね!!くたばれ!」
激怒に満ちた叫び声とともに、凄まじく攻めてくるイマエールのダガーを避けたり、打ち返す。一つ一つが私を殺そうとする殺気を惜しみなく盛り込んだ攻撃だった。一つでも当たれば確実に死ぬか、それとも致命傷だろう。
文字通り『命をかけた』戦い。
そんなことを、私がやったことあっただろうか。この世界に来て、これでたった4回目の戦いだ。しかし、毎回、少しずつ、しかし確実に、曖昧で遠くにしか感じられなかった死という概念が、ますます実体化していく。
私はそれが嫌だった。
そして、それにだんだん慣れていく自分が…怖かった。
「クウッ!」
避けたつもりだったのに。
熱された鉄に焼かれたような痛みが左前腕を走った。深く切られたのかどうかよくわからない。考えてみれば、この世界に来てから、刃物にやられたのは初めてなのだ。コボルドと戦ったときに噛まれたことはあるが、それは鋭い刃物が与えるゾッとする恐怖とは全く違った。
最初はかすったかな、と思うくらいだったが、あっという間に染み出した血で袖が濡れてきた。
「こいつ、まさかナイフで切られたのは初めてか?」
「……」
「これは傑作だ。たかがその程度の切り傷で目が震えやがって!目玉に地震でも起きたのかよ。こいつマジでしれものじゃん! キャハハッ!」
【偉い奴らが勝手に起こす戦争に13歳の子供が連れさられて剣を握る国だ】
イマエールの狂気に満ちた笑いの後ろに、苦々しくタバコの煙を吐き出していたチョ・チョルヒョン総官のつらそうな表情が重なって見えた。あの時まではただ『そうかな』程度に済ませたことだが、いろんな人々と触れ合いながら少しずつその意味に気づいていくような気がした。
【どちら様にはレディーに従うナイトように面倒をみてくれるバカがついてて、私のようなあまっこは妹たちに何でも食わせるためにここで酔っぱらいたちの面倒をみているのに、同じ女の子だと? 】
そうだったな、メイ。
このような世界だから、あなたは私たちのことをイマエールに渡すのに悩みや苦しみがなかったかもしれない。 でも妹たちと暮らしていくために頑張る君ならいつかきっとこれが正しくないってことを分かってくれるはずだ。
【強い者が弱い者を食って何が悪いんだ!】
そうだ、イマエール。
確かにこれは私たちが暮らしていた世界、元の地球でも、どこかで起こっていることなのかもしれない。テレビやニュース、インターネットで何気なく聞き捨てていたこと。 ただ、それが今や私の日常となり、私の目の前に広がって影響を与え始めただけなんだ。
これは、ただそれだけの話だ。
「たとえそうだとしても!」
【必ず帰ろう、沙也】
「私は絶対に私を捨てない」
「何わけのわからないこと喋ってるんだよ!」
「私が私として、堂々と日本に帰れるその日まで! 私は私を捨てない!」
イマエールの盲目的だとも言える王国への憎しみと、人間の価値に対する無感覚を越えてシニカルでさえあるあの性格は確かに歪んでいる。彼がそうなるまで歩んできた人生の軌跡は明らかに私には想像できない領域であろう。
私とイマエールはきっと一生お互いを理解できない。
「ニ…ッポン……お前ら、やっぱり王国人じゃなかったな!王国人でも連邦民でもない野郎どもがなぜ俺の邪魔をする!」
「人だからだよ、イマエール! てめえは死んでも理解できないだろうけど!」
わざと大きくバットを振った。
ブーン
破空音を立てて空中を切るフルスイング。 イマエールは当然、簡単に回避した。
「(来い!私が気に入らないんだろう? 私を殺してみろっと言ってるんだよ。イマエール!)」
わざと血に濡れた左腕を見せつけるように突きつけた。予想通りインマエールは、怪我をした方をより激しく襲いかかってきた。弱者の首を噛みちぎることにためらいのないあいつなら、きっと私の弱点をしつこく狙ってくると思ったから。
そして予想は正確に的中した。
左前腕に向かって突き刺してくるダガーを、私は左足を大きく後ろに引きながら避けた。自然に、右バッターのクローズドスタンスの体勢が作られた。
何千、何万回も繰り返してきた通り、右肩を顎の下に持ってきて固定させた。もともと私のスウィングはトップでバットのヘッドを相手に向けるスタイルだったが、今はのんびりテイクバックをする余裕がない。しかも、切られた右腕に力が入らず、思うように動かなかった。
弓弦を引くように上半身をひねってバットを引き寄せる。
グリップは軽く、 膝は重く。
姿勢が整った瞬間、カタパルトから射出されるように。
バットが見えない滑走路の上を走った。




