第四章 進振りを見据えて
合コンの翌週、僕はふとしたきっかけで本郷キャンパスへ足を運ぶ機会があった。駒場の2年生が本郷へ行く理由はいくつかある。研究室見学やオープンラボ、あるいは先輩たちと顔を合わせに行くなど。今回は僕が希望している理学部化学科のとある研究室が「2年生向けに見学会を開く」という話を聞きつけて申し込んだのだ。
本郷キャンパスといえば、あの赤門や歴史ある建築群が有名だ。駒場と違って、ここでは3・4年生や大学院生が日々専門の研究に取り組んでいる。重々しい雰囲気に最初こそ圧倒されるが、同時に「早くここで本格的に研究したい」という憧れもある。
研究室見学では、先輩たちが最新の実験装置や論文を見せてくれた。「2年次の今からでもアルバイト的に手伝えることはあるよ」と言われ、ますます興味をかき立てられる。だけど、その分、進振りで必要な成績を取らなければここには来られないのだ。理学部化学科はそこそこ競争率も高いと聞くし、僕の成績では油断ならない。
そんなプレッシャーを抱えながら駒場に戻ると、今度は水島が「物理系の研究室見学に行ってきた」と言う。彼女は物理学科を志望しているようだが、成績トップクラスだけあってどこでも行きたい放題なのだろう。
「でもやっぱり、先輩の話を直接聞くとワクワクするよね。量子力学の最先端がここにあるんだ、って感動する」
キャンパスの中庭で、彼女は淡々と語る。その眼差しには熱がこもっていた。クールに見えて、内心はかなり燃えているタイプなのだ。
「葵田くんは化学科狙いなんだって?」
「うん、まあ。その研究室にさっき見学に行ってきたんだ。かなり大変そうだけど、魅力的なテーマばかりだった。そもそも進振りの成績が足りるかどうか不安だけど……」
「真面目にやってれば大丈夫だよ。小説の執筆もあるから大変そうだけど、二足のわらじで頑張ってるのはすごいと思う」
「ありがとう。……そういえば、文理融合のコラボ企画、あれ進捗どう?」
僕が話を振ると、水島は小さな手帳を取り出して見せてくれた。どうやらすでにいくつかアイデアを書き込んでいるらしい。
「理系ならではの視点で恋愛を書きたい、っていうコンセプトに合わせて、“恋愛は未知の現象”とか“感情は数式化できるのか”みたいなモチーフを入れたら面白いと思う。あとは葵田くんの実体験も混ぜるといいんじゃない?」
「実体験か……まあ、合コンで空回りしたくらいしかないけど」
自嘲ぎみに笑う僕に、水島は穏やかな表情で首を振る。
「それも十分な体験だと思うよ。うまくいかなかったときの感情や空気感って、逆に大事なんじゃないかな。研究だって、うまくいかない実験データが次の発見に繋がるんだし」
まるで瑠璃と同じようなことを言う。合コンの失敗は実験で言う“失敗データ”なのか――。僕はその考え方に少し救われる気がした。空回りや恥ずかしさを、単に自己嫌悪で終わらせるのではなく、“小説の材料”として書けばいいのだ。
こんなふうに前向きになれたのは、水島の冷静な態度と優しい言葉があるからだろう。僕は感謝の気持ちとともに、彼女の紡ぐ言葉にどこか惹かれている自分に気づいた。