第二章 理想と現実のあいだ
週末、駒場キャンパス近くの知るカフェという名のカフェ。大学生ならドリンク無料というのだからありがたい。昼下がりの時間帯もあってか、店内は比較的空いていた。瑠璃が「ここなら長居しやすいでしょ」と言うので指定してきたのだが、案の定、同じように勉強道具やノートPCを広げた学生がチラホラといる。
その店内の奥で、僕と瑠璃は先に席に座っていた。そこへスタスタと入ってきたのが水島葵。黒髪のショートボブが清潔感を漂わせ、整った顔立ちに特徴的なグレーのカーディガンを羽織っている。すっきりとした雰囲気が、いかにもクールな理系女子を体現しているようだ。
「あ、来た来た。こっちこっち、葵ちゃん」
瑠璃が大きく手を振ると、水島は控えめに会釈して、僕らのテーブルに歩み寄ってきた。
「……こんにちは、葵田くん、小椋さん」
「やっほー、今日はありがとね。突然だったのに」
「いえ、ちょうど空いてる時間だったから。……あ、でも“葵ちゃん”呼びはちょっと恥ずかしいかも」
水島は少し眉をひそめながら苦笑いした。確かに“葵”の名を呼び捨てにするのは、本人の印象からすると照れくさそうだ。
「ごめんごめん。じゃあ水島って呼ぶよ。こっち、葵田くんね?」
瑠璃がわざとらしく紹介を始める。水島と僕は軽く会釈を交わす。大学の授業などですれ違ったり、グループワークで隣同士になったりしたことはあるが、こうしてじっくり話すのは初めてと言っていい。
「噂には聞いてました。葵田くん、小説家なんだよね」
「ええと、一応……。高校のときに新人賞を取って、今も細々と書いてます」
照れくささを紛らわすように、僕はアイスコーヒーを一口飲む。水島が少し身を乗り出す。
「私、高校時代は書道部だったんですけど、文章の構造とか言葉の表現にも興味があって。去年、葵田くんのデビュー作も読みました。世界観が独特で面白かった。理系的思考を感じるようなストーリーで」
「そ、そう言ってもらえると嬉しいな」
まさか読んでくれていたとは思わなかった。瑠璃の話では「書道部出身で文章にも強い」というのは知っていたが、実際に僕の小説を読んでくれていたとなると、急に気恥ずかしくなる。
「でも、今度は『恋愛要素をもっと入れたい』っていう話があるんだよね?」
水島はすぐに本題に入ってくる。手際よくノートを取り出してペンを構える様子が、まさに理系の実験ノートでもつけようとしているようだ。
「それで小椋さん経由で、私に相談があるとか?」
「まあ、そうなるのかな……。というか、僕は恋愛経験が皆無だから、実感をともなった物語が書けないんだ。理系的に考えがちな自分でも、もう少し感情に寄り添った書き方をしたいんだけど……」
「なるほど。感情を理屈では割り切れないものとして描きたい、でもあえて理系的手法を絡めるのも面白いかもしれないよ?」
水島がごく自然に発言してくれるので、こっちも身構えずに話せる。恋愛は理屈では割り切れない――それは僕も十分承知している。だけど、理屈があるからこそ面白いと思えるところもあるのではないか。もしそれを小説に落とし込めるなら、僕ならではの作品が書けるかもしれない。
「それにさ、駒場の生活って“文理融合”そのものじゃない? 1・2年のうちは文系・理系関係なく教養科目を一緒に受けたり、サークルに入ったり。だから逆に言えば、理系の視点で文系的なテーマ――すなわち恋愛とか人間ドラマとかを扱うのに適した時期じゃないかな」
瑠璃が口を挟んで、場をさらに盛り上げる。ファミレスの天井のBGMがやや騒がしいが、僕たちは大事な情報交換をしているような気持ちになっている。
「じゃあ、文理融合のコラボ企画に一緒に出てみる? 私も興味がある。書道部の先輩が、あのイベントの宣伝してたの。理系の発想を活かした創作物を募集してるって」
水島がそう提案してくれる。乗るしかない、という気がした。僕は心の中で「やってみよう」と決める。
「じゃあ決まりだね。和貴は恋愛要素を盛りつつ、理系の視点からアプローチする。水島は表現面や文章構造を見てくれる。私は――ま、適当に二人を引っかき回す感じで?」
最後に瑠璃が茶化すように言って、僕らは苦笑する。こうして新しい企画が動き始めた。僕はわずかに胸が高鳴っている気がする。恋愛を研究対象として捉えるのは、ある意味で不謹慎かもしれない。だけど、“書くために学ぶ”というのは僕にとって自然な手順でもあるのだ。