第一章 駒場キャンパス、二年生の春
春の陽射しがやわらかな光を落とす東京大学駒場キャンパス。桜の木々は既にその花びらを散らし、新入生歓迎の喧噪も一段落した頃、僕――葵田和貴は教養学部理科一類の2年生として変わらぬ校舎へと足を向けていた。
駒場キャンパスは都会の真ん中、渋谷駅から徒歩圏内にあるとは思えないほど緑が多い。校舎の合間を縫うように並んだ草木が、そろそろと新芽を吹き、通学路に淡い彩りを添えている。1年生の頃から馴染みの風景ではあるけれど、この春は何だか少し、胸がざわつくような感覚があるのだ。
理由はわかっている。僕は高校3年生のとき、書いた小説が偶然新人賞を獲得しデビューした。大学1年のあいだにそれが書籍化され、そこそこ注目を浴びる存在となった。周囲からは「作家の卵」などともてはやされることがあるが、その実、僕はごく平凡な学生で、日々の講義とサークル、それに原稿の締め切りに追われてバタバタしているだけだ。
ただし、僕には一つだけ大きな悩み――というか弱点がある。それは、恋愛経験がまったくないということ。19歳を迎えたというのに、まともに告白したこともされることもなく、気がつけば2年生になっていた。小説を書くうえでも恋愛要素が不可欠なことが多いが、頭の中で理屈をこね回すばかりで、実体験をまったく持ち合わせていないのだ。
現に最近、担当編集の津田さんから「そろそろ恋愛にも踏み込んでほしい」と言われている。もっとも、僕の書く物語が好きだと言ってくれる読者がいるのは嬉しい。けれど、なまじプロとして評価されつつあるがゆえに、これ以上は“理屈だけ”では書けないのではないか。そんな不安ばかりが募っていく。
「おーい、和貴ー!」
そんな思考にとりつかれながら歩いていると、背後から聞き慣れた声が飛んできた。振り向くと、理科二類の同級生・小椋瑠璃が、長い髪をまとめた状態で軽やかに手を振っている。
瑠璃とは1年生の春学期、同じ基礎実験のグループになって以来の仲だ。サバサバした性格と、程よく華やかな雰囲気があいまって、彼女は男女を問わず友人が多い。僕はというと、当初は「こういうタイプの人は僕と合わないだろうな」と勝手に思い込んでいたが、いつの間にか行動を共にすることが増えていた。
「よう、今日の1限は終わった?」
「終わった終わった。まーた数学の演習で脳みそぐるぐるよ」
瑠璃が舌をぺろりと出しながら言う。理科二類だが物理や化学も好きで、どの学科へ進むかまだ悩んでいるらしい。駒場の2年間は、こうして進振りのための科目を取りつつ、自分がどの進路に向いているか考える期間だ。僕は理学部物理学科か化学科あたりに進もうと思っているが、迷いがないわけでもない。
「ところで、昨日また本屋で見ちゃったよ。『東雲のエトランゼ』、売れ行き好調って感じじゃない?」
『東雲のエトランゼ』――それが、僕のデビュー作だ。一応、発売からそこそこ経ってはいるけれど、最近まで平積みにしてくれていた書店もあったらしい。
「買ってくれたの?」
「もう既に持ってるわ。サインしてもらったでしょ。……ああいう幻想的な作品書けるのに、なんで恋愛は全然ダメなんだろうねぇ」
瑠璃は悪びれもせずそう言ってくる。僕は思わずむっとして、
「仕方ないだろ。未経験なんだから……」
「やっぱりゼロなんだ。それ、ちょっと意外」
「そうか? 僕が女子と接点ないの、瑠璃も見て知ってるだろ……」
「別にゼミやサークルで女子いないわけじゃないけど、和貴はなんか空気薄そうにしてるしね。しゃべってみれば面白いのにねぇ。まあでも、理屈屋さんだし、知らない人と話すの苦手なんでしょ?」
ズバリと言い当てられてしまう。僕は言い返す隙をなくし、肩をすくめた。
「ま、苦手というか、どう話せばいいのかピンとこないというか……」
「そこなんだよ。ほら、研究だって最初から完璧な実験なんてできないじゃない。やってみて失敗して、データ取って分析して、次に繋げる。それを恋愛でもやればいいのに」
恋愛を実験にたとえるあたり、いかにも理系女子らしいが、その発想は僕にとって衝撃だった。実際、その通りなのかもしれない。頭であれこれ組み立てるばかりでは何も始まらない――。
そんな雑談をしつつ、瑠璃と連れ立って学食へ向かった。駒場の学食は何種類かあるが、僕らはいつもの定食屋スタイルの店に入る。お昼時はすぐに満席になるので、さっさと席を確保しなければならない。
「あれ、和貴。あっちに座ろう」
瑠璃が指さした先には、小さなテーブル席が空いていた。僕はトレーにのせた唐揚げ定食を、ぽんとテーブルに置いて腰を下ろす。隣に腰かけた瑠璃が味噌汁をすすりながら続ける。
「で、どうするのさ。恋愛ネタ書きたいって言ってたっけ?」
「編集の津田さんから、次の作品ではもう少し“現実の恋愛感情”に寄り添ってほしいって言われてて……。自分でも、必要性は分かってる。だけど何を書けばいいのか分からないんだよな」
「なるほどねぇ。ま、私に協力できることがあったら言ってよ。あー、でも私だけじゃ足りないかな。あの子にも相談してみたら?」
「あの子?」
「ほら、水島葵。去年同じクラスにならなかった?」
水島葵――そう聞いて僕はすぐに顔を思い出した。理科一類のなかでも成績トップクラスの才女で、クールな雰囲気が際立つ女性だ。1年生の秋学期に少しだけ同じ授業を取っていたが、あまり話したことはない。
「どうして水島なんだ?」
「あの子、書道部出身で文章表現にも詳しいんだよ。それでいて理詰めだから、和貴とは相性いいんじゃないかと思うんだけど」
「なるほど……でも何を相談するわけ?」
「さあね。創作のことでも恋愛のことでも、向こうは結構なんでも分析してくれそうじゃない? コラボ企画とかあったら一緒にやってみれば刺激になるかもよ」
コラボ企画――そういえば、大学の掲示板で「文理融合」をテーマにした小規模イベントを見かけた気がする。文芸サークルと理系ゼミが協力して作品を作る試みだ、とか何とか。
「ああ、でもそっか。ちょうどあの企画、参加しようか迷ってたんだ。理系のアイデアを入れた短編小説を公募するらしい。研究室の先輩にも『珍しい経歴なんだから出したら』って言われてる」
「それだよそれ。大いに利用するべきじゃない? どうせならそこで恋愛要素も混ぜちゃってさ」
瑠璃は笑って僕の肩をぽんと叩く。気軽に言うな、と思いつつ、確かに機会はそう多くない。僕はなんとなく頷いた。
「……うん、前向きに考えてみるよ。ありがとう」
「いえいえ。じゃあ早速、今度の週末あたりご飯食べに行こうよ。そこに水島も呼ぶからさ」
そう言って瑠璃はあっさりと企画を決めてしまう。僕は少々不安を抱えながらも、次の授業に向かうために急いで唐揚げ定食を口にかきこむのだった。