growth 15〔転生竜、新たな世界の始まり悲鳴は小さく響く〕
※
幼き頃の記憶――イヤ、記録だ。
いく度も描き重ね合わせた薄い紙の上で僕の夢は変化することなく走り出す。
そして今や空想は現実のものとなった。
※
息も絶え絶えと走り続ける少年に鞭を打つかの様な獣の咆哮が後を追って響く。
「ハァッ、ハァ――ッ」
恐ろしい。それでも走るのを止めない。――止める訳にはいかない。
身体中の血液が沸騰し心臓が口から飛び出してしまいそう――それでも。
少年の足は全力でタイルを蹴り閉塞的な地下鉄構内を駆ける。
「ゥァ――」
しかし限界だった。
これ以上は走れない。そして死はすぐ近くまで来ている。
立ち止まれば、少年の脳裏に残刻な映像が浮かぶ。
――嫌だ。
頭を左右に振り否定する。だが身体は既に苦痛を伴って鼓動を上げている。
故に頼りの無くなった脚は目に入る楽観的な室内へと飛び込み。
逃げ場を失う。足が止まる。
「ハァハァ……、ハゥ……ッ!」
安易に入った窓一つ無い化粧室。
文字通り少年の血気が引いていく。
限界を超えて辿り着いた小さな部屋で、少年は終わりを悟る。
立つ事も諦めて尻もちをつき当初の願いはもう叶わぬと個室の扉に背を寄せ掛けて、項垂れる。その様相も儚く獣の足音は間近に聞こえ。
想像として露になる牙が、少年の心身を先んじて震え上がらせる。
自分にしては善く此処まで走った。などと自賛が出る訳もない。
ただ只管に追われる獲物の恐怖を味わい。膝を抱えて嗚咽する。
そして目も口もダラダラと液を垂らして無防備な若い身体に、背後からの手が掛かる。
「ゥァッ、――えっ」
「静かに」
次の瞬間少年の口を手で覆う人物から“沈黙”を望む心の内が言葉ではなく瞳を通し発せられる。
次いで引き込まれた個室の扉が静かに閉まり。
「……ガルァァァ、ガルッ」
刹那のズレで獣が化粧室に入ってくる。
扉の下部、僅かな隙間から見える獣の影。
少年の瞳孔はその動きに支配され、心音が世界に発する唯一全ての響きとなる。
再び脳裏に過ぎる残刻。薄い壁を隔ててうごめく死の恐怖。
今にも焼き切れそうな灼熱の振動が焦げ付く、瞳孔が乾き動きを止めた。
瞬刻――死は低い唸りを発し、去っていく。
遠ざかる足音、身近に感じた途方もない苦しみが離れる。
「……もう、大丈夫そうね」
そう言って口から手をのける誰かが少年の体を抱えたままに手の平を見つめ。
「たくさん出たのね……。ほら、私の手ベトベトよ」
紛れもなく、直ぐに思い当たる少年は自らの手で自身の口に触れる。
「ゴ、ゴメンなさいっ」
「いいのよー、ここで洗えば直ぐに済むことだから」
既に自立し自身を保つ事が出来ていた少年の体から身を放し、優艶とした動きで立ち上がるままに洗面台へと向かう。
そして徐に栓をひねる蛇口から出た水で、――手を洗い。
周囲の様子を窺いつつ立ち上がる少年の方へと向き直る。
「ちゃんと来てくれたのね。もう来ないと思ってたの」
状況が落ち着き、ようやく少年は目の前の人物と真に向き合える。
その上で確かな事は、何一つ視界で微笑む相手の情報を知らない。というコト。
「……お姉さんは、何で……?」
「言ったでしょー。先に入って待ってるから、て」
言葉としてなら記憶にある。が疑問の中心は其処ではない。
「どうして。それに、……ここは? さっきの獣も」
「質問が多いのねー。とりあえずそうね、さっきのは魔獣って言うのよ。食べられなくてよかったわねー」
「お姉さんは知ってたの……?」
「そーね。でもさっきのは初めて見たかな」
その割に落ち着いた素振り。未だ足の震えが残っている少年とは正反対の穏やかさと存在感が、置かれた状況とは全くの不釣り合い。
「……ここから、どうやって出るの……?」
「簡単なコトよー、怖いの全部倒しちゃえば大体次に行けるわー」
かんたんなこと……?
「でもその前に探索しなきゃねー、結構便利な物があったりするのよ」
探す、便利、何を――第一。
「さっきのは……」
「いっぱい居るわよー、でも思ってたよりは少ないかもね。先着さんかしら」
「……そんな、ムリ」
今だって助かった事よりも生きているのが怖い。そう思える傷を心に受けてしまった。
だから――。
「コワい? でもそれでいいのよー。私もコワいもの」
「――ェ。でも……」
「こういう所では臆さずに進む方が危ないのよー。だからコワいくらいで丁度イイの」
その次第、意味は分かる。けれども少年にとっては踏み出す一歩に届かない。
「ところで君の名前を教えてくれる?」
「ぁ、僕は浪川――明仁です」
「明仁、良い名前ねー。私は瑠唯よ、よろしくねー」
るい――、それより。
「……よろしく?」
「ええ、これから一緒に行動するでしょー。それともアキヒト君はこのまま女子化粧室に居たい?」
「それは嫌です……」
「なら行きましょう。さっきのはしばらく出て来ないと思うしー」
「何で、……どうして」
「勘よ勘、女の勘はよく当たるのよー」
「でもそれだと、ァ待って」
「――ね、アキ君て呼んでも良い?」
「ぇ。ぁハイ……」
「じゃ頑張って攻略しましょ、アキ君」
化粧室の外、差し伸べられる手に少年の心が揺らぐ。
その開け放たれた扉、自らの意志ではなく進むべき道を示す。
“コワいくらいで丁度イイ”
と彼女は言った。
震える足を奮い立たせ、怯える心を引き連れる。
少年の冒険はそんな力無い足取りのまま、開幕する。
掴んで揺するその手の先に希望があると信じて。
「あら冷たいわね、アキ君て末端冷え性?」
「……ゴメンなさい」
――いずれにしても、二人の冒険はここから始まった。
▽
一ヶ月程前突如として日本に現れた巨大な水晶の柱。
程なくして張られた規制線の向こうに隠す術のない透明度が高い謎の鉱物。
忽ち情報はその画像と共に拡散され世界中のSNS、インターネットを通して知れ渡る。
その物体としての大きさはさることながら忽然と出現した状況に政府の混乱以上の動揺が近隣では起こり。
“気付けば”
“朝起きたら”
“ネットのニュースで知った”
などの街頭インタビューが相次いだ。
そういった騒ぎは連日、報道されネット上でも様々な考察が飛び交い日本国民だけでなく世界中の人々が政府声明等の新たな情報を待ち望んだ。
結果一ヶ月程が経ち、未だ全貌が明らかになる兆しすら見えず。
超高層建築を丸ごとのみ込む程の規模でありながら存在理由や経緯は謎のまま。
ただ最近では水晶その物は見た目だけの実物であり、それ自体が何かの転送装置なのではないかという出どころの分からない噂が流れ。
規制線を越えようとする若者を中心とした層、動画配信者などの対応に出動する警察や現場の状況が度々取り上げられる近況。
その近辺に住む人々は買い物一つ行くだけでも迷惑、トラブルは日に日に増えて住環境は急激に最悪と化し。
近所の高校に通う一年目の少年もまた被害を被ることとなる。
事の起こりは肩がブツかった。そんな些細な言い掛かり。
「なあボク、今のわざとでしょ? そうだよね」
「ぇ、ィヤ……違う」
「わざとだよねッッ?」
路地裏で、少年の小さな悲鳴がこだまする。
転生竜、新たな世界の始まり悲鳴は小さく響く/了