98話 扉の先は⑥
脳の理解が追い付かなかった。だけど、確かに認識している。
中野さんの持っているナイフの切っ先はある人物に対して向いていた。
10年後の俺でも、美月でもない。
隣にいる子供にだ。
首元に近づけて、いまにも触れそうな距離。
「中野さん!」
10年後の美月が、訴えるようにして叫ぶ。だが、その声は、中野さんには届いていなかった。
「私が今まで、どれだけ苦労してきたか……先輩にはわからないでしょ!」
閑静な住宅街のため、その声は辺り一帯に響き渡った。住民が皆、窓から顔を出してこちらを見つめている。
「中野さん……。そんなことをして、何の意味があるって言うんだ。教えてくれ」
10年後の俺は意外にも冷静を装っていた。一歩、中野さんの方へと歩みを進める。
「それ以上近づくな! すべてはあなたのせい……。三代勇也!」
俺の名前が響いた。同じ名前だが、正確には俺のことを指しているのではない。だけど、同じくらい言葉の圧を感じた。
その直後、金属音が響き渡る。見てみると、中野さんがカバンからもう1本ナイフを取り出し、それを10年後の俺たちの前へと放り投げたのだ。
「先輩、私は三代勇也が許せません。この子を返してほしかったら、先輩の手で三代勇也を殺してください!」
そう放たれた言葉を聞いて、衝撃を受ける。一体何があって、そこまで俺のことを恨んでいるのだろうか。”殺す”というのは生半可な衝動で沸いてくるような感情ではない。
「そんなこと、できない」
美月はきっぱりと断る。当たり前だ。俺も美月も、そんな簡単に人の命を奪えるような人間ではない。
「早くそれを拾って! じゃないと……」
「やめて!」
甲高い美月の悲鳴が聞こえた。
中野さんは隣にいた子供の腕のあたりをナイフでスッと撫でおろした。それだけで、タラタラと真っ赤な血が流れ始めていた。
「うゎわわわわわわぁぁぁ」
子供が泣き始める。さっきまでは大人しかったのだが、流石に痛みに耐えかねて泣き始めた。
そんな状況を見かねてか、美月がゆっくりと目の前に落ちているナイフを拾い上げた。その手は震えていた。今まで見たことないほど臆病で、顔色は真っ青だった。
そこで俺は我に返った。ただ見ているだけなんて許されるはずがない。警察に通報すれば、駆けつけてくれるのではないかと。
俺は美月の手を引いて、一旦その場から離れる。
「警察に連絡だ!」
「……うん」
スマホで番号を入力し、着信音が鳴り始める。
『はい、事件ですか、事故ですか、何がありました?』
電話口の向こうで、警察官が淡々と話している。
「そのっ……! 人が殺されそうなんです!」
『……場所はどこですか?』
「えっと……」
俺はそこで詰まった。そんな俺を見かねて美月が「貸して」と言って、俺のスマホを取り上げる。
「場所は……。はい、そうです。お願いします」
初めから美月に頼んでいればよかった、そう後悔した。
「すぐに向かうだって」
「ありがとう、助かった……」
俺たちは最低限の会話をして、再び先ほどの現場に戻ることにした。
現場に戻ると、言葉を失った。目にした光景は今後一生脳裏に焼き付いて離れることはないだろう。心臓の音がうるさいほど鳴っていた。あたり一体に響いているのではないかと錯覚してしまうほどうるさい。
「……」
美月も俺もその場で立ち尽くすだけで、何も言葉は無かった。というより、言葉が何も出てこなかった。
さっきまでの会話が嘘のように静まり返っている。辺りはカラスの鳴き声しか聞こえない。
遠くからサイレンの音が聞こえてきただろうか。それともそれは、俺の幻聴なのだろうか。
俺は胃の中のものが全て逆流してくるような激しい吐き気に襲われる。
「おえっ……」
地面にしゃがみ込んで、咳き込む。
見ているだけで、自律神経が麻痺してしまうような惨事。
「なんで……なんで……」
隣にいた美月も足を震えさせ、涙を流しながら口元を抑え、しゃがみ込む。
俺たちが離れていたのはちょっとの間。1分か2分くらいだ。
その間に、事件は起こってしまった。
目の前には、血を流して倒れている美月がいた。
そして、その隣には、血で真っ赤に染まったナイフを左手に持ったまま、こちらを見つめている、10年後の俺の姿があった。
夢なら早く覚めてほしい。
現実なら今すぐこの場所から逃げ出したい。
だが、あいにく夢でもないし、逃げ出すこともできなかった。
こちらをじっと見つめた10年後の俺は振り返るようにして、棒立ち状態の中野さんを見つめ、ゆっくりと歩いて、走っていく。
突き飛ばすかのような勢いで手に持っていたナイフを中野さんの胸に突き刺した。
中野さんは勢いよく倒れていった。




