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92話 二人の時間⑭

「なんだか今日は疲れたな」


 時計を見ると6時を回りそうになっていた。それもそうだ。今日という日はすごく濃密な一日だった。まるで夏休みを1日に凝縮したような、そんな充実感溢れる時間だった。


「暑さもあるかもね。明日はもっと暑いみたいだけど」


 美月が窓の外に視線を向けたので、俺も自然と同じように視線を向ける。相変わらずうるさい蝉時雨が鳴り響いていた。


「こうしてるうちに、夏休みもあっという間に終わっちゃうんだろうね」


 美月は視線を動かさず、じっと外を見つめたままだった。


「なんだか、美月も俺とおんなじでロマンチスト的な発言が多くなってないか?」


 自分では言っていて気づかないが、相手がこうして発言すると意外にも気になって気づくことがある。


「そうかな。やっぱり二人で長い時間過ごしてきたから、感性が近づいてきているのかも」

「そんなもんなのかなぁ」


 美月にとっては長い時間かもしれないが、俺にとってはこの期間はあっという間のように感じた。


 だからといって美月はこの期間が楽しくなかったわけではないのだろう。時間の流れに対する感覚は人それぞれだ。時間という絶対的なものの尺度を自分の感覚にうまく合わせて、「時間の流れが速い」「時間の流れが遅い」と言うのだ。俺は、今まで生きてきた時間が永遠に感じられて、美月と出会ってからの期間は台風のように大きな渦を纏いながら走り去っていった。


「勇也、明日のこと、少し話してもいいかな」


 美月が今までの穏やかな流れを切り裂くかのようにして、話題を変えてきた。俺もそうだったが、美月も頭の片隅では明日のことがずっと停滞していたのだろう。


「分かった」


 俺は少し低めのトーンでそう答えた。


「私の中で明日の予定は立てているの。扉に入ってからどうするか。やるべきことは一つだと思うんだ」


 そこで美月の視線がこちらを向いた。俺もそれに気づいて、ゆっくりと視線を合わせる。


「明日は、事件現場に立ち会おう。そこで何が起きたのか、私たちの目でしっかり見る」

「……」


 そう言われてすぐに頷くことはできなかった。立ち会うということは、あの悲惨な事件を目にしなければいけないということなのだ。


「勇也にとってはつらいかもしれないけど、まずはあの事件が何をきっかけに起こったのか、それを追求しないと何も始まらないと思うんだよね」

「……確かにそうだな」

「だから、まずはあの事件が起きた時間に行って、実際に立ち会う。もちろん、ここですべてが解決できるわけじゃない。それから、もう一回こっちに戻ってきて作戦を立てよう」


 思っていた以上に、美月は考えてくれていた。なんなら、俺のほうが考えていないまであった。


「分かった。それしか方法はないもんな。未来の俺が何でそんなことをしようとしたのか、必ず突き止めよう」


 力強く、そう声にしたつもりだったが、どうにも声が震えていたらしい。


「勇也、大丈夫だよ。私がついてる。絶対に一人なんかにさせない。二人でさ、未来を切り開こうよ」


 美月はそれまで座っていたベッドの上から立ち上がり、ゆっくりとこちらに向かって歩みを進めてくる。そして次の瞬間、温もりが俺の体全体を包み込むようにして触れた。


「美月……」


 俺は抱きしめられた手を握り返すことはできなかった。美月のやさしさにただ、甘えるようにして、そのまま立ち尽くす。


「勇也は強いよ。その強さに私は何度も救われてきた。今日だって勇也の強さがあったからお母さんにしっかり話せたんだよ」


 美月はそのままぎゅっと俺のことを抱きしめて放さなかった。それどころか、力は少しずつ強くなってきて、まるで俺と美月が一つの体温を共有しているかのように感じられた。


「そう言ってもらえると嬉しいな」


 その言葉は本心だった。だけど、明日のことしか頭の中にはなくて、喜んでいられる余裕はなかった。


「うん。だから明日もきっと大丈夫。取り敢えず、今日はもうゆっくり休もう」


 美月がそれまで抱きしめていた腕の力をゆっくりと緩め、お互い目線が合うくらいの位置になる。身長差としては5cmくらい俺のほうが高いだろうか。美月のちょっとだけこちらを見上げるように覗き込む、整ったまつ毛がくっきりと映った。ぱち、ぱち、と何度か瞬きしてもその美しさは崩れることはなかった。


「そうだな。じゃあ家まで送るよ」

「うんうん。大丈夫。さっきも言ったけど、勇也の強さを今日は分けてもらったから大丈夫」

「でも……」


 そう思って外を見たが、まだ十分に明るかった。これなら不審者に襲われたりすることはないだろうか。


「また、私が頼ってほしいときは頼むから。今日は大丈夫だよ」


 そういうと、美月は両手を俺の右手に持ってきて、ゆっくりと掬い上げるようにして掴んだ。


「そっか。分かった。じゃあせめて玄関まで送るよ」

「うん。ありがと」


 俺は美月の強さに折れるようにして、そうつぶやいた。扉を開けて、さっき二人で上がってきた階段を今度は降りていく。階段を下りて、リビングの少しだけ開いたままの扉の中に目をやったが、親父の姿はなかった。


「今日は色々とありがとうな、美月」

「それはこちらこそ。また明日だね」


 今日は人生を振り返っても、記憶に残るような鮮烈な一日だっただろう。生涯忘れることのない出来事だった。美月との距離も、物理的にも、心理的にも近くなった気がする。


 美月は大きくこちらに向かって右手を振ると、そのまま玄関を抜けて、夕焼けの中へと溶け込んでいってしまった。


 そして日付はゆっくりと、ゆっくりと進んでいき、7月28日になった。


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