91話 二人の時間⑬
「それじゃあ、行ってきます」
お菓子の準備を終えた俺たちは、美月のお母さんに挨拶をしてから家を後にした。
まだ2回しか来たことがないが、既にこの家は俺にとって心が落ち着く場所となっていた。自室と変わらないくらいの弛緩した空気。ずっと入り浸っていたくなるような、優しい空間だった。
外に一歩出ると、焼き付けるような太陽の眩しさが全身を焦がすかのように照り付ける。まだ7月だというのに、これでは8月は一体どうなってしまうのだろうか。
「美月、暑くない?」
「そりゃ暑いよ。けど、それって勇也に言ってもどうにかなる問題じゃなくない?」
「確かに」
これは俺の質問が悪かったのだろう。普通は、「寒くない?」と尋ねて、頷くようであれば上着を一枚羽織ってあげればいいが、逆はどうしようもない。
「でも、勇也の気持ちはしっかり伝わってるよ。ありがと」
トンっと美月が肩を俺の方に寄せてくる。俺はそれに抵抗することなく、衝撃を身体全体で吸収した。
道中で他愛もない話をした。学校の先生がどうだの、最近の流行がどうだの、そんな話をした。そしたらあっという間に俺の家の前まで、足は進んでいた。
周りは住宅街で、たまに自転車が行き交う、比較的交通量の少ない道路だ。それも相まって、セミの鳴き声が異常にうるさく感じる。こんなに鳴いていたのだろうかと思ってしまうほどに、うるさい。
「ちょっと確認してくる」
流石にいきなり親父と美月を会わせるわけにはいかないだろう。だが、そんな俺の提案を美月は首を横に振って否定した。
「うんうん。大丈夫だよ。一緒に行こう」
その時の美月の言葉は頼もしかった。俺の中で、いまだに親父に対して少しばかりの壁があるのはわかっている。けど、美月はそんな壁さえ軽々と越えてしまうほど、気にしていなかった。その言葉を聞いて、逆に気づかされたのだ。
「分かった。行こうか」
そんな美月の勇気を踏みにじるわけにはいかない。俺は先頭を歩いて、門を潜り抜け、鍵を開ける。玄関に入ると、いつものようにリビングからテレビの音声が漏れ出していた。
「上がって」
俺は自然と小声でそうつぶやいた。俺たちは靴を脱いで、リビングに近づいていく。
「ただいま」
まずは先に、俺が襖に手をかけて、ゆっくりとスライドさせる。
「ん」
親父は一言こっちを一瞥して、再びテレビに視線を戻した。
「えっと、親父、ちょっと話しがあるんだけど、今いいかな」
俺は少しばかりの勇気を振り絞って、そう伝えた。
「話しというのはその連れのことか」
一瞬驚いたが、既に隣から美月が顔を出していた。だから気づいたのだろう。
「初めまして、こんにちは。石田美月と言います。勇也と1ヶ月ほど前から付き合っています」
淡々と、まるで教室で委員長として指揮を取っているときのように、威厳をもってそう言い放ったのだ。
「そうか。勝手にしな」
そういうと、親父はリモコンを手にしてテレビの電源を切る。ゆっくりと、テーブルを支えにして立ち上がり、こちらに向かってきた。
「勇也、一つだけ言っておく」
リビングから出て、俺たちの間を通り過ぎようとしたとき、親父はぴたりと足を止めた。
「女を悲しませるような奴に育てた覚えはないからな」
俺に視線を向けながら、声のトーンをいつもより少しだけ下げてそう告げた。それだけ言うと、そのまま玄関に向かっていき、家から出ていってしまった。
「ふぅ、緊張したぁ」
俺は一気に緊張の糸が途切れて、その場に座り込む。美月もそれに合わせて、ゆっくりと俺の顔の前にしゃがみ込んでくる。
「いいお父さんだね」
美月は親父の出ていった玄関をじっと見つめたままそう言った。
「そうなのかなぁ」
俺にはわからなかった。今の言葉は親父なりの返事だったと思うのだが、一体何が言いたかったのだろうか。時間が経てば、自ずと分かってくることなのだろうか。
「お菓子渡しそびれちゃったけど、これからどうする?」
美月はお菓子の入った袋を釣りあげて、見せてくる。
「そうだなぁ。とりあえず、部屋に行くか」
「そうだね。久々の勇也の部屋、楽しみだな~」
「片付けしてないから結構汚いかも」
「全然いいよ。なんなら私が片づけるよ」
「確かに美月の部屋って綺麗に片付いてるもんな。綺麗好き?」
「好き……ってほどじゃないけど、最低限はって感じかな」
そんな会話をしながら、俺を先頭にしてゆっくりと階段を一段ずつ登っていく。
階段を上り、部屋の扉に手をかけてゆっくりと開いた。この前も来てもらったが、なんだかこうして招待すると恥ずかしい気持ちになる。
「どこでも好きなところ座っていいよ」
俺俺は美月が部屋に入ったあと、扉をガチャリと閉めた。
美月はステップするかのように足取り軽やかに、ベッドの上に座り込んだ。
「ふかふかだ〜」
まるで子供みたいにベッドの上でポンポンとはねる美月。それに合わせて綺麗で質量のある髪がふわりと宙に舞い上がる。まるでこの空間がおとぎ話のような、空想の世界に思えてきた。




