87話 二人の時間⑨
俺がソファに座って客人のように暇を潰している間、美月はせっせとキッチンを右に行ったり左に行ったりして慌ただしそうに動いていた。
程なくして、卵の焼けるいいにおいが部屋中に広がってきた。既に空になっていた胃が、匂いに反応する。人の家のにおいと、普段は食べることのない料理のにおいで頭の中がいっぱいになる。そして、さっき触れた柔らかい感触。あの感覚が今も忘れられていなかった。
「そうだ勇也、お昼からはどうするの? 家でもう少ししゃべる?」
美月が菜箸で卵をつつきながらこちらに話しかけてくる。
「そうだなぁ。美月はどこか行きたいところある?」
「私? んー、最近駅前に新しいコスメ売ってるお店ができたから行ってみようかなとは思ってたけど、勇也連れていくにはさすがに申し訳ないね。ユメも行きたいって言ってたから明日行ってこようかな」
「流石に俺もああいうキラキラした感じのお店は入りづらいからな。どれがいいとかも分かんないし、そうしてもらえると助かるよ」
と、素直に自分の感想を告げたのだが、何故だが美月の表情はこちらをちょっとだけ睨んでいるようだった。
「……まぁ、確かに勇也におススメされたもの買っていったらとんでもないことになりそうだから、それは正解かも。じゃあ、このまま家にいる?」
それはそれでなんだか否定された気がしたが、事実なので何とも言えない。朝起きて、寝癖がついていてもあまり気にしない。最低限、身だしなみとしては整えるがそれ以外のことはさっぱりだ。見えない部分まで磨こうとは思ったことがない。
「そうだな。しっかり美月のお母さんにも挨拶したいし。今から練習しとこうかな」
「それはやめて」
「なんで?」
「何ででも。それするなら勇也連れてコスメショップ巡りにするよ」
「……分かったよ」
一瞬、意外とそれも悪くないのかも、と思ったが、さっきも言った通り俺にはそこらへんは完全に門外漢なのだ。それならおとなしく、部屋で美月とお喋りをしておいたほうがいいかもしれない。
「そうだ、美月。ひとつ気になってたこと聞いてもいい?」
俺はあることを思い出して質問をする。付き合う前からずっと思っていたことだが、聞くタイミングを逃してしまっていた。
「なんかいやな予感がするけどいいよ」
美月はすでにオムライスを皿に盛りつけようとしており、完成間近だった。
「美月ってたぶん、世間一般的に見てもすごくモテるほうだと思うんだけどさ、今まで彼氏とかいなかったの?」
その質問で、盛り付けの手が一瞬止まる。だが、それはすぐに答えとともに動き出した。
「告白されたことは何回もあったよ。けど、毎回答えを出せなかった。みんないい人だったんだけどね、本当に私の中身を見てくれているのか不安になっちゃってね」
淡々と、淀みのないペースで話を続けていく。既にオムライスの盛り付けは完成していた。
「けどね、勇也だけは違った。委員長として威厳を保っている私や、弱くて折れてしまいそうなほど泣き叫んでいる私を見ても、好きって言ってくれた。その時思ったんだ、『この人は、私の輪郭じゃなくて中身を見てくれてるんだな』って」
「まぁ、俺も最初は少しびっくりしたよ。教室はあんなに近寄りがたい堅いイメージのある人物が、裏では意外とフラットなんだもんな」
「今でも思うけど、二重人格もいいところだよね」
「けど、みんな何かしら嘘をついて生きているんだ。それは自分を守るための嘘であって、誰かを貶めるための嘘じゃないから、俺は全然いいと思うよ」
「……ありがとう。やっぱりそう言われると、改めて勇也を好きになってよかったなって思う」
美月はキッチンからこちらをじっと眺める。揺るぎのない瞳で、少しほほ笑んだ口元がやわらかくて。とても、可愛かった。
「俺も美月には感謝してるよ」
「何で?」
「俺さ、今まで自分は変わり者なんだ、他の人とは違うんだって思い込んできたんだ。日々に飽き飽きしてて、何か変わったことでも起こらないかなって、毎日思ってた。それがさ、美月に出会ってからは日常が非日常でさ、何て言うか言葉にするのは難しいんだけど、感謝してるんだ」
俺はうまく言葉をまとめられず、歯切れの悪い言い方になったことが恥ずかしくなり、髪をグシャっとかき回す。
「うん、最初隣の席になったときはちょっと危ない人かと思ってたよ。授業中もずっと窓の外みてるし」
「バレてたのかよ」
「しかも、たまに私のことも見てたでしょ」
「……」
まさかそこまで気づかれていたとは驚きだ。確かに初日から気になって、窓の外の景色を見たついでに何度もチラ見したことはある。
「女子ってそういう男子からの視線に敏感だからね」
「ま……マジか」
「ちなみに今も授業中私のこと見つめてるのは、なんとなく視線を感じてる」
「うっ……」
夏休み前まで、俺の1つ隣の列の3つ前に美月の席はあった。確かに何度も授業中に綺麗な髪に見とれていることはあったし、美月が黒板のほうを向いたときに見える横顔を見てニヤニヤしていた。それが全部気づかれていたというのは少し恥ずかしい。いや、かなり恥ずかしい。
「はい、できたよ」
そんなこんなしているうちに、美月が皿を抱えてオムライスを運んでくる。
テーブルの上に置かれたものを見ると、ケチャップで綺麗なハートが書かれていた。
「美月……意外と可愛いんだな」
「何、”意外と”って。私はこういうの普通に堂々とできる女子だからね。愛の力ってすごいんだよ」
周りには新鮮なレタスと、ミニトマトが彩られていた。俺はそのミニトマトを見ると、何故だが感慨深くなった。何故だろう。こんないつも見るようなトマトなのに。
「じゃあ、いただきます」
早速、スプーンで卵を割って実食していく。
一口分、口の中に運んでゆっくりと味わっていく。口の中に広がるケチャップの酸味。そしてチキンの歯ごたえ、舌で触れただけでとろけてしまうような卵の触感。
「うまい!」
その一言につきた。いくらでも食べたくなるような、家庭的な味。高級料理店とはまた違った、やさしさのある味付け。俺にぴったりだった。
「なんか、前に食べたときよりおいしい気がする」
俺がそう感想を告げると、次第に美月の表情が明るく晴れていく。
「ホント⁉ えっとね、実はあれから何回も練習したんだ。勇也に美味しいの、食べてほしいなって」
その言葉を聞いて、俺のハートは打ちぬかれた。彼氏のために、密かに努力をする女の子、何て素敵で可愛いのだろうか。逆に俺は美月の嫌いなところが見当たらないかもしれない。そんなレベルで、美月の細かいところまで、全てが好きだった。
「美月」
「ん、何?」
「俺も今度コスメについていろいろ勉強してくるからさ、一緒にコスメショップ行こうな」
彼女が頑張っているのに、俺だけ頑張らないのはカッコ悪い。
「うん、分かった。やっぱり勇也のこと大好き」
そういうと、椅子に座っている俺のことを、後ろから優しく、撫でるようにして抱きしめてくれた。
俺はなんて、幸せな人間なのだろうか。




