84話 二人の時間⑥
「じゃあ、何の話からしよっか」
隣に座った美月の声が、身体を振動して伝わってくる。心地よくて、ずっと聞いていたくなるような落ち着いた声だ。
「美月は夏休みに何かやりたいこととかあるの? やっぱクラスの女子から遊びに誘われてる?」
「んー、半分くらいは誘われてたかな」
バッグの中に入っていたスマホを取り出し、器用にカレンダーアプリを立ち上げてそう言う。横目で見てみると、確かにほとんどの日に何かしらの予定が入っているようだった。真っ白な俺とは大違いだった。
「男子からは?」
俺はわざとらしくそんなからかうような質問をする。少し前までの俺たちの関係ではこんな質問は到底できなかった。それだけ距離が近くなったということだ。
「あー、藤田君から明日家に来ないかって誘われたんだった」
「……は?」
思いもよらない返答に、俺は素で答えてしまう。けど、次の瞬間、美月の横顔がこちらを向き、ニッといたずらっぽく上目遣いでこちらを見てきた。
「あれ、勇也もしかして今本気にしちゃった? 私が他の人に取られたら寂しい?」
「っ……!」
すぐに冗談だと分かったが、何とも心臓に悪い。けど、怒りなんてものは到底湧いてこず、そんなお茶目な美月も可愛いと思えるほど溺愛していた。
「あー、顔赤くなってる。図星だぁ」
するといきなり俺の頬を人差し指でやさしくタッチしてきた。俺はその衝撃で一瞬身体が反射的にびくりと驚いた。
「ちょ……いきなり触られるとびっくりするんだけど」
「じゃあいきなりじゃなかったら、触ってもいいの?」
その言葉で、俺の理性はどこかに吹き飛んでしまいそうだった。今日は美月がひどく蠱惑的に見える。美月の部屋、しかも2人きりの密室ということもあって異常に意識してしまっているのかもしれない。
「……ねぇ、勇也はさ。どんな女の子が好きなの?」
再び正面を向いて、一拍あけてそうつぶやいた。それはまるで俺に問いかけているのではなく、自分自身に言い聞かせているようでもあった。
「そりゃあ、美月みたいに可愛くて、優しくて……ってなんだか口に出すとちょっと恥ずかしいな」
自分で言っていて、少し恥ずかしくなってきてしまった。
チラリと、横目で美月を見ると口元をぎゅっと縛って、何か言いたげな表情をしていた。
「そうじゃなくてね……。積極的な子とかはどうなのかなって」
美月の耳が次第に赤くなっていっていた。それを見ただけで、俺の鼓動は早くなっていくし、どんどん意識してしまう。
「積極的……いいんじゃないか。美月も委員長に立候補したりしてかなり積極的じゃん」
「……」
その俺の答えに、美月は何も答えなかった。恐らくは、俺の答えが間違っていたのだろう。
外からはセミの鳴き声が煩わしいほど聞こえている。音は聞こえるものの、こことは断絶された世界にいる。正真正銘この部屋は俺と美月の二人きり。何ならこの世界には二人だけしかいない、なんて大層な妄想も広がり始める。
それぐらい、この空間は異質だったのだ。
美月の部屋が嫌とかそういうわけじゃない。この空気感が、今までに味わったことがなかったのだ。教室とは地球儀をグルンと180度回転させたくらい異なる世界。
そんな世界で、俺の手に、細くてやわらかく、温かいものがそっと触れる。
俺の手を覆うようにして、上からゆっくりと合わさるようにして握りしめてきたその手は、確かな人間の温もりを感じた。
「こんな積極的な女の子は……嫌い?」
美月の頬と耳がほんのりと、今まで見たことがないほど赤らんでいた。
「美月……?」
俺はごくりと生唾を飲み込む。触れている部分に意識が持っていかれる。美月の動かした手がゆっくりと、指と指の間に入り込む。そこでぎゅっと、お互いの手を握り締める力が強くなった。
「勇也は、私のこと好き?」
またも上目遣いで、俺の顔を覗き込むようにして聞いてくる。こんなシチュエーションで首を横に触れる男など、この世に存在するのだろうか。
「好き……ではないかな」
「えっ」
一瞬美月は驚いたような表情をして固まる。
「だって美月のこと大好きなんだもん」
握った手を俺はさらに強く、ぎゅっと握り返した。
「何それ。いじわる」
「さっきのお返しだよ」
「やっぱりいじわる」
「先にしてきたのは美月じゃん」
「それでもいじわる」
美月は笑っていた。笑顔がきれいだった。そんな姿を見てしまったからだろうか、俺は理性をこの時捨て去った。
握りしめている手とは逆の手で、強引に美月の背中から手を回して抱きしめた。ぎゅっと抱きしめたら壊れてしまうのではないかと思うほど女の子は細いのだ。
抱きしめてしまったせいで、美月の胸元が俺の体に触れる。女の子をこんな風に抱きしめたことは今まであるはずがない。初めての体験に身体中が、敏感になっていた。
自分でも、何でこんな事をしているのかはわからない。
もはや考えなんていらなかった。感情の赴くままに行動する。それが今の俺にできる、唯一の行動だった。
「……ん」
いきなりでびっくりしたのか、美月の口から声が漏れる。俺は抱きしめた手を緩めて、肩に持ってくる。これでちょうど、顔がお互い見える位置になった。
「ちょ、はずい」
美月は抵抗して手で顔を隠そうとするが、俺の握った手がそれを許さなかった。普段は照れるどころかSっ気が強い美月のこんな表情が見られるのは貴重だった。今日は攻守交代かもしれない。
しばらくすると美月もあきらめたようで、お互い目が合う。
ゆっくりとビー玉のように揺れる瞳が美しい。艶のある唇と、綺麗に整った長いまつ毛はまるでモデルみたいだ。綺麗な濡羽色の髪は、手を入れるだけで黒に染められる。美月のすべてを知りたくなった。
俺は息を止める。やり方なんてわからない。それもそうだ。初めてなんだから。
ゆっくりと、ゆっくりと、お互いの顔が近づくくらいの距離になっていく。
美月の息遣いが全身を通して聞こえてくる。いつもより息が荒かった。それは俺も同じだ。
俺はそのまま覚悟を決めた。勢いよく、だけどゆっくりと唇を美月に重ね合わせる。
やわらかい。
そんな感想しか浮かんでこなかった。
その時間は無限のように感じた。10分にも感じたし、1時間にも感じた。
ずっとずっと、こんな時間が続けばいいのに、そんな風に願ってやまなかった。
相変わらず窓の外ではこの部屋のことなんて気にもせずに呑気に蝉たちが鳴きわめいている。変わらない世界と変わってしまった世界。断絶された二つの世界は窓ガラス1枚で繋がっていた。
「美月、大好き」
「私も大好きだよ、勇也」
俺は美月のことが好きなんだ。
美月は俺のことが好きなんだ。
この日、人生で初めて女の子とキスをした。




