75話 親父⑤
「結局それだと、俺だけ一人取り残されているみたいになってるじゃねえかよ!」
親父はまだ、鼻息荒く俺の襟元をつかんで揺さぶってくる。どうにも、まだ頭に血が上ったままらしい。
「それは違う。今度、俺の彼女を連れてくる。そして、俺が就職してしばらくしたら3人で過ごそう。それなら、どうかな……」
3人。つまりは俺と美月と親父の3人で過ごそうということだ。このことについて、さっき美月に電話で確認したが、すぐに了承してもらえた。
何といっても、10年後の未来で親父は認知症になっている。なら、周りで介護する人が少なからず必要になってくるだろう。施設に預けるという手段もあるが、家族がこんなに近くにいるんだ。それをする必要はないだろう。
「3人で……暮らすのか」
俺の提案に対して、親父が少しだけやわらかい反応を示した。俺の襟元を握る力が、するすると緩まる。
「そうだ。俺が親父のことを見捨てたりなんかしない。だから……」
「いい」
俺の言葉を遮るようにして親父はそう言った。
「え?」
「いい。そんなことまでしなくてもいいといっている。馬鹿にするんじゃない。お前にそんな心配されるほど衰えていないわ」
親父の表情は、受け入れたというよりもあきらめたといったほうが近かった。それまでの大声の怒号は消え去り、二人の空間にノイズはなかった。
「俺はてっきり母さんや秀弘のことなど忘れて遊びにいっているとばかり思っていた。お前の色恋沙汰には興味がない、勝手にしろ」
親父は掴んでいた俺の服から手を放し、テーブルの上から降りる。俺は腰が抜けたかのように、そのまま座り込んで親父の顔を見つめていた。
「それと、昨日言ったことも忘れろ。あれは俺も言い過ぎたと思っている」
それだけ告げると、カバンと財布を抱えて部屋から出ていき、玄関へと向かっていった。俺は慌てて後ろを追いかける。
「親父! 今度、彼女の紹介をするからさ……」
「いいといっている。興味がない。昨日はろくに寝れてないんだろう。早く寝ろ」
そう言われて、親父の背中があの時の、母さんがいたときの背中のように見えた。あのころに比べて背中も少し曲がって、白髪も増えたけど、なんだかんだ言って俺のことを気にかけてくれていた。
俺が普段から感じていた、”今度こそ大丈夫”という感情は間違っていなかったようだ。原因は親父にもあったが、俺の方にもあった。塞ぎこんで、自分の良いように解釈して後悔する。俺は今まで何て惨めなことをしてきたのだろうと思う。
ちょっと考えればすぐに正解は出たはずだ。でも、あんなことを身近に体験しなければ人というものは変われないのだ。
俺と親父は確かに母さんが死んでから変わってしまった。けど、家族として、親子として変わらない部分も少しだけ残っていた。そんな少しを集めていけば、前みたいに、とまではいわないが少しだけ前に進めるのではないか。
何よりも、自分の意見を今まで親父に伝えたことがなかった。それが一番の要因だろう。
親父は俺のことを誤解していた。俺が親父を誤解していたのと同じように。
もっと、早く気づければよかったのかもしれないがそんなことを今さら言ったって仕方がない。それよりもこれから、少しずつ歩みを進めていければいい。
俺は階段を上って、部屋に戻る。
ベッドに座り込むと、ため息とともに疲労感が一気に押し寄せてきた。
ようやく自分の気持ちを伝えることができた。俺は疲労感とともに、同じくらいの達成感も感じていた。
スマホを取り出し、美月に電話をかける。
「もしもし、どうだった?」
俺のことをずっと待ってていてくれた美月の声が、鼓膜にやさしく響く。それだけで安心できた。
「うん、しっかり思いは伝えられた。3人で一緒に住むっていうのは断られちゃったけど」
「そっか、でもよかったね。気持ちもすっきりしたんじゃない?」
「あぁ。母さんが死んでからずっと胸の奥に溜まっていたものがようやくきれいに流れていった気がするよ」
「よかったよかった。じゃあ、また明日学校で、だね」
美月はこの話題が解決したので、電話を切ろうとする。彼女自身、美大の受験勉強で忙しい中、こうして俺に電話をかけてきてくれているのだ。そんなことは承知の上で、俺は話しかける。
「なぁ、美月。我がまま言ってもいい?」
「……程度によるかな。難しいものでなければ」
「大丈夫、簡単なことだよ。美月、もう少し俺とこうして話していてくれないか」
「……うん、分かったよ」
どうしても、今は人と話していたかった。なぜかはわからない。だけど、美月と話しているこの時間が、俺にとっては大切で、守らなければいけないものでもあった。
その後、1時間ほど週末の予定についてや美月のイラストについての話を聞いた。
楽しい時間はあっという間に過ぎる、というのを肌身に体感した。




