69話 茜色の空
学校からの最寄り駅に着いた俺たちはそこで別れた。
これくらいの距離であれば、毎日送迎してもいいかもしれない。何よりも二人きりで入れる、貴重な時間なのだから。
そう思いながら、俺も帰路に就くことにした。
いつもの通学路を歩き、家の前の角を曲がる。玄関を抜けて扉の前に立つと、リビングの窓が空いており、そこから声が漏れていた。朝、学校に行く前に戸締りはしておいたはずだ。
となると、考えられる選択肢は一つしかない。俺はそれまで軽かった足取りが、一気に重くなるのを身をもって実感する。
ゆっくりと足音を殺すようにして廊下を歩く。次第にリビングから聞こえてくるテレビの音が大きくなってきた。それと同時に心臓の鼓動も早くなる。不安と焦り、それに緊張が一瞬にして身体全体を長い糸で縛り付ける。
俺はゆっくりと襖に手をかけ、開く。するとそこには1ヶ月以上ぶりに見た、親父の姿があった。
「親父……」
心の中で何色もの色がついたボールが飛び回っている。
「勇也……か。お前、こんな時間まで何をしていたんだ」
その一言で一瞬空気がひりつく。
「ちょっと委員会の仕事があって……遅くなった」
俺は嘘をつかずに、ありのままのことを話す。だが、逆にそれが悪手となってしまった。
「仕事……? お前がやっているのは単なる遊びだろ! ふざけるなよ……!」
親父は手に持っていたコップを放り投げ、勢いよく立ち上がってこちらに向かってくる。
あまりの勢いに、俺は部屋から逃げ出すように後ずさりをするが、ふと躓いてしまう。
すぐに親父に胸ぐらをつかまれて、また立ち上がるようにして引っ張られる。
「誰がお前の学費を払ってやってると思ってる! 食費だってそうだ……。それなのにお前は……!」
怒気を帯びた声が辺り一帯に響き渡る。俺は親父を見上げるような形で、視線を向ける。親父の瞳は血走っていた。明らかに冷静でない。ここ数年、酒やギャンブルに入り浸って冷静さを欠くことが多くなっていた。ここ1年は特にそうだ。
母さんがいなくなって、兄貴が家を出て行ってしまったあの日から、親父は壊れてしまった。
仕事も正社員をやめて1日数時間のアルバイトに変えた。そしてよくわからない”友達”と呼んでいる人たちと、今回のように遊びに行ってしまう。
何もかもくるってしまった親父は、こうして俺に怒りを浴びせる。ストレスのはけ口にするかのように、支離滅裂なことを言い始める。きっと今さら話し合っても何も意味はない。
以前の俺ならそう思っていた。けど、ここ数カ月、俺の中でも色んなものが変わっていった。それは家族という形についてもだ。友貴君の死を間近で経験した。あんなにお互いを思いあっている家族というのは、何て切ないんだろう。何て美しいんだろう、そう思うようになってきた。俺もいつかあんな家族に囲まれたい。
その原動力を俺は全て親父にぶつける。殴られたっていい、親父が変わってくれるなら俺は満足だ。そう思って、次の一言を口に出す。
「なぁ、親父。いい加減目を覚ましてくれ。気づいてるんだろ、自分がしていることの愚かさに。もう一度、最初からあの日の続きからやり直さないか?」
そう意気込んで話し始めたものの、声は上擦っていた。足が震える。こちらをじっと見つめていた親父の目が一瞬、見開く。
「勇也……。俺のことを今までそんな風に見ていたんだな」
その言葉は静かで、だけどその中にしっかりとした熱がこもっていて。
「いい加減にしろ‼ もういい、この家から出ていけ! 二度と俺の前に現れるな!」
そのまま乱雑に投げ飛ばされて、俺は廊下に叩きつけられる。バンッ! という破裂音とともに襖が閉められた。
「なんで……」
気が付けば涙が零れ落ちてきた。何で俺は涙を流しているのだろうか。そんな簡単なことさえ分からなくなっていた。特にどこかが痛いわけではない。確かに床に打ち付けられた右手は少しジンジンと痛みを帯びているが、そんなことくらいで泣くわけがない。
もっと、深いところが傷つけられている気がした。
自分でも探しきれない傷跡、俺の身体にはどれだけ刻み込まれているのだろうか。
俺はこれ以上親父の反感を買いたくなかった。部屋には戻らずに、そのまま来た道を戻る。
親父の言葉に従うのは癪だが、こうしなければいけない。俺の中でこれ以外の選択肢はなかった。部屋に戻ることも、親父と話し合うことも無理だと悟った。
ローファーから普段履いているスニーカーに履き替え、カバンも抱えたまま玄関を開けて外の広い世界に飛び出していった。
すっかり日は落ちてさっきまでの幻想的な茜色の空はもう、どこにも見当たらなかった。




