44話 石田さんという存在⑪
背中にも柔らかい感触が伝わる。そして相変わらずやさしい匂いがする。俺は金縛りにあったかのように身体に力が入らなくなった。
「そうそう、いい感じ」
気合で右手を動かしながらも、意識は完全に左手に集中していた。こんなにもドキドキするのはなぜだろうか。自分でも恐ろしい。人のぬくもりを感じて、こんなにも心を揺さぶられたのは初めてだ。
そして、心臓に悪い時間はあっという間に過ぎた。少し慣れてきたのを見計らって、石田さんは自分の担当に戻っていった。俺は言われた通りに玉ねぎをみじん切りではなく比較的大きめに切った。にんじんは短冊切りにした。太いのがあったり、極端に細いのがあったりと形が歪だが、まぁ初めて料理をしたようなものなのだから及第点だろう。そう、勝手に自分で自分のことをほめていた。
「うん、ありがとうね」
俺は切り終わった玉ねぎとにんじんをボウルに入れて渡す。既に隣ではフライパンに火がついており、豚肉が炒められていた。これだけで既においしそうな匂いが辺り一帯に広がり、空腹の胃に追い打ちをかける。本当によだれが出てきそうなくらい、お腹が減ってきた。
後は一人でできるということで、俺は手を洗ってその場から離れようと思ったが、そこで会話を始めた。
「石田さんってやっぱり料理上手いよな」
「そう言ってもらえると嬉しいな」
その目はじっと、食材とにらめっこをしていた。
「そういえばさ、」
俺はこんな時になって、今まで頭の片隅で思っていたことをつぶやく。
「あれから扉に関しては、何も調査はしていないよな?」
確認するように、というよりも同意を求めるようにして質問をした。
「うん。最後に三代君とあの事件の1カ月前に行ったのが最後だね。三代君こそ、あれ以降は行っていないの?」
「あぁ、俺はもういいかな。何もあの未来が本当に俺たちの10年後を映し出しているって事実はないんだ。親父こそ、あんな姿になっていたけど、今はそんな兆候全然ないし。そもそも俺が殺人をするなんてありえないからさ」
自分に言い聞かせるようにその言葉を発した。心の奥では怖いのかもしれない、ただ、事実を認めたくなくて必死に否定するための理由を作っているだけかもしれない。だけど、それでいいんだ。俺はそんな本当か分からない未来よりも、今、この瞬間を大事にしたいと最近思えるようになってきたから。これはまぎれもない事実だ。
「……そう、だね」
石田さんは一呼吸あけてからそう答えた。先ほどまでの優しい目つきとは打って変わって、今は何かをじっと見つめているような目をしている。
「石田さんは、これからまた扉を使って未来に行ったりするのか?」
「……うんうん。私もいいかな。この前言ったように友貴に関しては薬でもどうしようもなかったし、それに三代君の言うようにあの未来だって本当か分からないしね」
「そうだな。あんまり無責任なことは言えないけど、友貴君の病気はきっと良くなる。俺たちはそう信じて待とう」
「そうだね。ありがとう」
先ほどよりも、表情は明るくなっていたが少しだけ憂いを帯びているように感じたのは、俺の気のせいだろうか。
しばらく時間は流れ、俺の目の前に料理が運び込まれてきた。石田さんの分もあるので2人前だ。メインは肉野菜炒め。この中に俺が切った玉ねぎとにんじんが入っている。そして卵スープにポテトサラダといった、もの凄くヘルシーな献立となっている。
「すごい、めっちゃおいしそう」
見ているだけで比喩ではなくよだれが零れ落ちてきそうだ。昼間に少しだけ食べただけなので、俺の胃は今現在何も入っていない。全てここにあるものをかき込んでしまいたい衝動に駆られるが、流石にそれはマナー的にもアウトだし、何よりも作ってくれた人に対して失礼だ。
「それじゃあいただきます」
「うん。いただきます」
まずは卵スープから手に取り、ゆっくりと口に含んでいく。まだ出来立てで、少し熱いくらいの温度。だけど、卵のまろやかさがしっかりと口の中で広がって熱いのなんてすぐに忘れてしまう。
「うん。すごくおいしい」
自分で頷きながら言う。
「ほんと? 久々にこんなにがっつり作ったから、ちゃんとできてるか心配だったよ」
石田さんも卵スープを口に含んで、ゆっくりと飲み込んだ。
「俺が普段冷凍食品ばっかり食べてるからっていうのもあるんだけど、人が作った料理ってちゃんとその人の気持ちが伝わるよな。昔、お母さんの手料理を食べていた時のことを思い出した」
小学生のころだろうか。運動会のときにお母さんが作ってくれたお弁当が本当においしかった。ああいう特別な場所だからというのもあるだろうが、今でも味が思い出され程鮮明に当時の記憶が呼び起される。
「三代君のお母さんは優しいお母さんだったんだね」
優しく微笑しながらそう言う。
「もう、覚えていることは少ないけどな。けど、その中でもはっきり覚えていることはたくさんあるんだ。小学生のころに一緒にミニトマトの成長を観察したり、海に連れて行ってもらったり、楽しかったな」
そんな回想をしていると、俺の頬を伝うあたたかなものが流れ落ちていった。
「え、あれ……」
自分ではコントロールできなかった。なぜ今、自分は涙を流しているのだろう。そんな簡単なことさえ、分からなくなっていた。
「ごめん、なんか思い出しちゃったみたいで」
俺は涙を手の甲で拭いながら謝る。
「うんうん、いいんだよ」
そう言って、石田さんはゆっくりと立ち上がり、俺の隣まで来て腰を下ろした。肩が触れる。ただ、石田さんは俺に何もすることなく、そのまましばらくの間ずっと隣にいてくれた。
それだけで欠けたパズルのピースが、埋まらずとも見つかりそうな気がした。




