25話 喜ぶこと
石田さんはそのまま部屋を後にしてお風呂に行った。俺は再び数学の宿題に視線を戻す。プリントは2段に分かれて構成されており、ようやく左半分が終わったところだ。
右上の問題を解こうと脳を回転させるも、なんだか鈍い眠気が襲ってきた。それもそうか、今日は相当な距離を歩いているのだ。昨日に引き続き、この2日で普段1週間分くらいの距離を歩いている気がする。それに気づいていなかったが、両足がジンジンと痛みを帯びている。
欠伸をする。
目をこすって何とか眠気を追い払おうとするが、やはり欲求に勝つことはできず、俺の意識は徐々に徐々に薄れていった。机と顔の距離が近くなり、そのままうつ伏せで眠りに落ちていった。
体が痛い。その痛みで目が覚めた。どうやらあのまま腕の中に顔を埋めるようにして眠っていたようだ。そのせいで首辺りは筋肉が硬直しており、痛みが走る。ゆっくりと顔を上げると蛍光灯の光が眩しい。そして、目の前には石田さんが俺と同じように机の上で眠っていた。
艶のある唇、長くて美しい睫毛、どんな色よりも真っ黒な長い髪の毛。ずっとずっと見つめていたくなるような、蠱惑的な美しさであった。改めて近くで見ると、その美しさに驚く。こんなに綺麗な人間、いるんだなと。
あまり寝ている姿をじろじろ見るのは、俺もされたくないからやめておこう。そう頭では思っているのだが、どうしても気になってしまう。
閉鎖的なこの空間がそうさせてしまっているのだろうか。外からは窓ガラスに打ち付ける雨の音が絶え間なく響いている。
それと同時に石田さんのすぅ、すぅといった呼吸の音がかすかに聞こえる。
改めて、何で石田さんは出会って2日の俺にこんなにも優しくしてくれるのだろうか。単純に人柄の良さなのか、それとも何か考えがあってのことなのだろうか。だが、さっきに比べてあまり気にならなくなっていた。それはなぜだろうか。
だが、石田さんがこんなにおもてなしをしてくれたことには変わりない。俺もいつか、別の形でお返しをするのが普通だろう。石田さん、何をしてくれたら喜ぶのだろうか。
男子ならともかく、女子の嗜好は全く分からない。よくプレゼントは自分がもらってうれしいものなら他人もうれしいなどといったことを聞くが、正直俺は何をもらってもうれしい。特に趣味も好みも何もないし、そもそももらう機会が全くない。バレンタインでもらった記憶があるのは小学生の時、家が近かった女子から余った義理チョコを貰ったくらいだ。それくらい貰いものに縁がない。いや、別にプレゼントをしなければいけないというわけでもないから、今日のように何かイベントでもいいわけだ。
だが、俺の家に石田さんを呼ぶことは絶対にできないし、それだったらどこか水族館などへ行くのがいいのだろうか。でも、それだとデートみたいなことになったりしないだろうか。こんなに綺麗なのだから、彼氏くらいいるだろうし、それだと申し訳ないことになる。
そんなこんなで頭を悩ませていると、スマホの時計が5時を示していた。もう朝なんだ。ということは、かなり長い間眠っていたことになる。
俺は途中で止まっていた数学の宿題をすべく、シャーペンを握りプリントに向き合う。すると、問題の下に何か文字が書かれていることに気付く。
“もしわからない問題があったら私の見て参考にしてね(合ってるかは自信ない!)”
それを見て思わず笑みが零れ落ちた。絶対石田さんの答えのほうが合っているに決まっている、それにもかかわらずそんな謙虚な姿勢に俺は惹き込まれそうになる。
「ありがとう」
小さい声で、石田さんの顔を見ながらつぶやいた。
俺はそのメモを消すのがなんだかもったいなくなって、その下から計算を書き始めた。どうせ、先生も1問1問チェックしているわけではないし、気づかれることもないだろう。気づかれたとしても適当なことを言えば問題ない。
気が付くと雨がやんで、朝日が昇ってきていた。こんな時間に起きているのは久々だ。なんだか、誰もいない世界で一人だけ朝日を浴びている気分がする。そんな優越感があった。
「ん……」
ほどなくして石田さんがゆっくりと体を起こす。
「石田さん、おはよう」
「ん……三代君」
とそこまで言葉にしたのだが、そのまま瞼が閉じてしまった。コクコクと頭が揺れる。どうやら、朝は少し苦手のようだ。完璧な石田さんの苦手な部分を知って、俺は少し安心した気持ちになる。
俺はゆっくりと立ち上がり、伸びをする。窓のほうに近づき、外の景色を眺めた。それは雨上がりの町並みで、水たまりに反射する世界が幻想的だった。
今日も一日が始まる。そう思うと何故だが元気が出てきた。
流石に朝食までお世話になるわけにはいかないので、俺は近くのファストフード店でとることにした。昨日洗濯してくれた制服を受け取り、石田さんのお母さんに感謝のメッセージだけを添えて後にした。
玄関では、もうあと数時間すれば再び会うことになる石田さんが見送ってくれていた。
「昨日からご飯御馳走してもらったりありがとうな」
「うんうん。疲れをとってもらえたなら満足だよ。また後でね」
「あぁ、また」
俺は昨日と違った足取りで町中を歩いていく。水たまりをよけながら、一歩ずつ進んでいく。
こうして今日も世界は回り始めた。




