1話 扉の先に
春が訪れた
教室から見える桜は満開に咲き誇り、まるで粉雪のように辺り一帯に降り注いでいた。
夏と呼ぶにはまだ早く、冬と呼ぶには暖かすぎるこの季節、俺は嫌いではなかった。
嫌なことを忘れさせてくれるかのように暖かく包み込んでくれるから、というのはただの詭弁で、実際は少しばかりの環境の変化に楽しみをおぼえていた。
通常、人間という生き物は変化を嫌う生き物だ。ただ、どうやら俺は違うらしい。いや、人間がという意味ではなく、変化することを恐れていないのだ。
変化というのは、今までは当たり前だったものがそうではなくなる。つまりは大切な、崩れてはいけないものがあるのだ。俺にも大切な、守らなければいけないものがあったなら恐れているだろう。
俺にはもう、何も残されていない。
毎日朝起きて学校に行き、勉学に励む。そして家に帰って食事をとり、寝て起きる。その繰り返しの日々だった。こんな日々に大切なものなんてあるのだろうか。
普通の高校生ならこう答えるだろう。「大切なのは、家族です」や「友達です」や「彼女です」と。だが、生憎俺にはどれも当てはまらない。いや、正確には”拒絶してしまっている”だ。俺にももちろん家族がいて、少ないながらも友達はいる。彼女はいないが、まぁそこは良いだろう。だが、他の人間と比べて圧倒的に違うのだ。
そんなことを考えていると、教室の前扉がゆっくりと音を立てて開いた。この校舎は比較的最近造られたようで、中学の頃の扉とは大違いだった。あちらは築数十年で開こうものなら必ず途中で詰まり、両手で力を込めて無理やり開けていたものだ。
扉を開け、中に入ってきたのはすらっとした背丈で黒縁の眼鏡をかけ、片手には真っ黒の出席簿を抱えたこのクラスの担任であった。名前は確か、前川……と言ってたはずだ。
「よし、今日も全員揃っているな」
担任はこちらをぐるっと一周するようにして見渡した後そう言った。
今日で高校2年生になって3日が経った。1日目は始業式とクラスで簡単な自己紹介をして終了。2日目は様々な配布物を受け取ったり、宿題の配布がなぜか授業開始前からあった。そして今日にいたる。今日は朝から授業が始まった。そして今から始まるのは7限目のLHR。文化祭前などは合唱コンクールの準備をしたりなんやらと慌ただしかった記憶があるのだが、直近にそんな煌びやかなイベントはない。かといって自己紹介も昨日のうちに済ませたし、一体何をやらされるのだろうか。
「今日は各委員会をみんなに決めてもらう。忘れていたがまだ学級委員長も決めていなかったからな。早速だが、このクラスの委員長、やりたい人はいるか?」
そうか、委員会がまだ決まっていなかった。去年は文化委員会に入り、ほぼ幽霊部員のごとく1年間何もせずに終わった記憶がある。月1のミーティングはあるが、どのみち授業中なのでそこまで面倒ではない。
そもそも委員長を立候補してまでやりたい奴なんてこの世にいるのだろうか。いるとするならばそれはよほどどの物好きか、推薦狙いの者だろう。
しばらくの間沈黙が続いた。教室の静寂が肌にあたってヒリヒリする。お互いに顔を見つめあう者。顎で指図するかのように、他人に重責を擦り付けようとする者。この数十秒で、人間の奥深くに眠っているエゴを観察しているようであった。
だが、そんな観察もたった一つの声でうち破られた。
「他に立候補者がいなければ、私が引き受けます」
張りのある声が、俺のすぐ左隣から聞こえてきた。少しうるさくて、鼓膜を刺激するような声だ。
スッと横目で隣の席の女子を見る。濡羽色の髪は背中を伝って腰のあたりまで差し掛かろうとしており、艶のある唇は大人びていて、鼻先まで綺麗に整った顔立ちであった。
俺はまるで美術館の展示品を見るかのように、見入ってしまい、見とれる。
教室の窓から入ってきた肌をなでるような心地いい風が、彼女の揺れる髪と一緒に宙に舞う。
「ん、あぁ。石田か。もちろん構わないが、他に立候補したい人はいないか?」
先生は不意を突かれたかのような表情をした後、すぐさま冷静を装うかの様にして”コホン”とわざとらしい咳ばらいを一つした。
俺も、他の生徒もお互いの顔を確認し合うかのようにして辺りを見回す。最後まで、その静寂が破られることはなかった。
ここで手を挙げる勇気などない。いや、正確には”挙げたところで何も変わらない”からだ。
仮に俺がこのクラスの委員長になったとしよう。俺はそつなく委員長としての仕事をこなすだろう。だが、その先に何があるのだろうか。どこか狙っている大学の推薦を受けるために委員長をするというならば、それは単純に”委員長”という仕事を踏み台にしているに過ぎない。それなら最初から何もない人間は何もやらないほうがよいのだ。
「いなそうだし、石田。頼めるか?」
先生は双眸でじっと石田さんのことを見つめる。その眼はもはや提案ではなく、同調の眼差しであった。「他に立候補したい人はいないか?」なんて言葉はただの建前で、裏では大きな刃を抱えてそう言い放っているのだ。
「じゃぁ石田、これから1年間頼んだぞ」
そう言って先生はポケットから丸まったメモ帳を取り出し、胸ポケットからボールペンを取り出して文字を書き連ね始めた。このクラスの委員長は、たった今、石田さんに決まったのだ。
俺は何気なく、もう1度彼女の輪郭を隣からちらっと視線を泳がせるようにして見る。先ほどから、その表情に変化はなく、本当に美術の授業でデッサンの見本にした彫刻のように動くことはなかった。
そんな彼女の表情を見たからか、俺の心の中では小さな渦がぐるぐると波を立てて暴れまわっているかのような、違和感を感じた。
”まぁ、一番めんどそうな仕事をやってくれるんだからありがたいか”
そう、心の表層では思っていた。
どうせ関わることのない人間だ。いつもの俺であれば、その気持ちになった時点ですべてが終了していたはずなのだ。そう、いつもなら。
この後、各委員会のメンバーも決めることになったのだが、俺の心はどうも上の空だった。
「では、最初に各委員会の委員長を決めていきたいと思います。まずは学習委員会です。学習委員会は、勉強に関連するクラス全体の取りまとめを行ってもらいます」
気づいたら壇上には既に石田さんの姿があり、早速委員長としての責務を果たしているようだった。だが俺にはその像がどうしても歪んで見える。なぜだろう。俺の本当の気持ちは一体何と言っているのだろうか。本当の気持ちなんて、本人が一番分からないのだ。
その後、つつがなく委員会決めは進んでいった。それは何と言っても石田さんの手腕だろう。候補者が多ければすぐさまじゃんけんをするように説明したり、逆に候補者がいなければその委員会は後回しにして、まるで頭の中でスーパーコンピューターが動いてるかのような効率の良さであった。
かくいう俺は、去年と同じく文化委員会になった。何よりやることが去年と同じだろうし、一番は基本的に文化祭前後でしか活動予定がないからだ。と、思っていたのだがどうやら事情が変わったらしい。どこか闇の勢力から苦情が来たのかは定かではないが、文化祭以外にも教室横の花壇のメンテナンスや掲示物の貼替作業などが分担されていた。去年まで花壇のメンテナンスは掃除の際に教室担当の人が毎日の水やりをしていたはずだ。掲示物の管理だって、去年は学習委員会がしていたのだが、どうやら学習委員会の負担が大きすぎるため文化委員会でやることになったらしい。
“まぁ、仕方ないか”
これが俺の感想だった。役割が増えたとはいえ、他の委員会に比べれば全然ましな方だ。それに今年は顔なじみも1人いる。最悪どうにでもなるだろう。
「では、来週のこの時間に各委員会でミーティングがありますので参加してください。委員会ごとの集合場所は黒板横に掲示しておきます。では、これにて委員会決めを終わります」
そう石田さんが言い終わったときには、クラス中から拍手が沸き起こっていた。なんでいきなり任された仕事をこんなにも簡単にこなすことができるのだろうか。俺はそんなことを考えながらも、つられてパチパチと拍手をした。
真っすぐに垂れた長い髪を耳に掛けながら、ゆっくりとゆっくりとこちらに向かって歩いてくる。そして俺の隣で止まり、椅子を引いて、スカートを手で押さえながら座った。
開いた眼は真っすぐとゆるぎなく前を向いており、隣の俺のことなど本当の意味で眼中にないのだろう。
「よし、ありがとう石田。それじゃあもう少し時間があるから各自自習をすること。くれぐれも静かにな」
先生は教壇横でパイプ椅子に腰掛けたまま出席簿を開いていた。時計を見ると授業終了まで残り15分ほどある。どの教科も早速宿題が配布されているので、仕方なく俺は数学から取り掛かることにした。
チャイムが校舎に鳴り響く。その音はなんだかいつもより半音ほど低いようにも聞こえた。だが、それを確かめる術はないし、確かめたところでどうにもならない。俺はトイレに向かおうと歩みを進めたが、それを妨げるかのようにして目の前に立ちはだかる人物がいた。
「よっ、勇也。同じ文化委員だな」
高身長、イケメン、陽キャ。俺が持ち合わせているパーツと対極のものを持ち合わせた人物に絡まれた。
「そうだな」
俺は軽くあしらってその場から立ち去ろうとする。だが、その程度で許してくれるようなやつではなかった。
「勇也って去年も文化委員じゃなかったっけ?」
またもや俺の進路を妨げるようにして立ちはだかってきた。仕方ないので俺は会話のキャッチボールに参加することにした。
「そうだよ」
「じゃあ要領とかは分かってる感じか。俺今年が初めてだから分からないこと多いけど、一緒に頑張ろうな」
ニッっとはにかんでサムズアップをして、疾風迅雷のごとくその場から過ぎ去っていった。
彼の名前は藤田京平。同じ小学校、同じ中学校といわゆる幼馴染というやつだ。
だが、性格は全く異なる。京平の場合は人の輪の中に入り込むのが大得意だ。いや、正確には京平を中心に円が出来上がっていくのだ。それほど彼の影響力は大きい。あの性格は敵を作らないし、処世術としては超一流だ。おまけにイケメンでバスケ部のエースと来たら、飛びつかない女子はいないだろう。俺は放課後何度も京平が女子から告白されているのを見たことがある。
そんな対極な俺たちだが、喧嘩をしたことは1度もない。なぜだろう。京平と会話するときは先ほどのようにほとんどが向こうからだ。だがそれを嫌だと思ったことは1度もないのではないだろうか。それはなぜなのか、俺にもわからない。やはり自分の感じることなど一向に理解できそうにない。
放課後
SHRが終わり、本日の全てのカリキュラムが終了した。学校に残っても特にやることもないし、そもそも会話できる人間がいない。友達といえる人物は京平のみで、彼は部活に行くので必然的に俺は友達が0人になってしまう。なので学校にいる必要は全くないのだ。かといって、家に帰りたいかといわれれば悩ましいところではあるが。
「三代」
突如、先生が俺の方を見て声をかけてきた。手招きをしてこっちに来いと言ってくる。まず最初に浮かんできたのは「何か悪いことでもしただろうか」だ。もちろんそんなこと心当たりはない。では、一体何が目的なのだろうか。俺は持ちかけていたカバンを一旦机の上に置き、重い足取りのまま教壇に向かって歩を進めた。
「三代、文化委員だったよな。何と晴れて最初の仕事だ。今年から文化委員で花壇の整備も担当することになったのは知っているよな?」
「えぇ、まぁ」
「そこで、プランターを1つ持ってきてほしいんだ。さっき花壇を見てみたんだが、明らかに狭くてな。あれでは隣の植物に巻き付いてしまって上手く成長できない。早いうちに植え替えをする必要がありそうなんだ」
「それでプランターに入れ替えるということですか」
「そうだな。あとは培養土も1袋できれば持ってきてほしいかな」
「どこにあるんですか?」
「旧校舎東館、2階1番奥の技術室だ。あそこにかなり古いとは思うがプランターと培養土、どちらも置いてあったはずだ」
旧校舎。そう、この学校は最近新しく建て替わったばかりなのだ。創立100周年を記念して校舎ごと新しいものに変えてしまおうということで、現在俺たちが生活しているのがその新校舎だ。だが、旧校舎も物置としてまだ取り壊されていないらしい。いまだに立ち入ったことはないが、場所自体は分かる。
「あ、旧校舎は鍵がかかっているから職員室に行って鍵を取ってから入ってくれ。先生は部活に行かないといけないから、持ってきたプランターと培養土は教壇の下に置いておいてくれ。明日にでも一緒に植え替えをやろう。それと、くれぐれも戸締りと職員室に鍵を返すのを忘れないように」
念を押すようにして、そう言った。手取り足取り、注意点まで事細かに話してくれるあたり、意外と面倒見がいい先生なのかもしれない。そんなことを話を聞きながら考えていた。
「分かりました」
「じゃあ、頼んだぞ」
それだけ言うと、先生は教室を後にした。
クラスにはまだ20人ほど残っており、放課後特有の緩んだ喧騒があたりに響き渡っていた。
俺は階段を降り、昇降口に向かった。1年生の時は1階、2年生になると3階に教室が上がった。2階は職員室や資料室・事務室など普段はあまり訪れる機会がない場所がそろっている。なので朝、学校に来るときは2階分も階段を上らなければいけなくなった。たった2階分、されど2階分。運動不足の俺にとってその差はずいぶん大きなものに感じられた。もっとも、学校で心躍るような楽しい出来事が待っているのであれば話は別だろうが、何度も言うようにこの平凡で見慣れた風景は飽き飽きしているのだ。こんな退屈で泥沼のように足場の悪い日々から、俺のことを引きずり出してくれる人物がいるとするならば俺はその人物を”ヒーロー”と呼ぶだろう。
スリッパからローファーに履き替え、つま先をコンコンと2回地面にたたきつける。スリッパをはいていた時とは比べ物にならないほどの重みが俺の足を重力でしばりつけようとしていた。その足の枷は外れないまま、俺は旧校舎へと向かっていった。
ガチャ
職員室で借りてきた鍵を使って、旧校舎の正面玄関の鍵を開ける。が、何故か鍵はかかっておらず、インテグラル錠のドアノブを回しゆっくりと扉を開いた。使うことのなかった鍵をポケットにしまい、顔を上げる。そこには吹き抜けの昇降口がまるで俺のことを吸い込もうとしているかのようにして立ちふさがっていた。壁面の塗装はほとんどが剥がれ落ちており、心なしかさっきから宙を舞う埃が肺に入って来ているような気もする。
「埃すごいな」
つい、独り言が漏れてしまった。ここには人はいないだろうから、いくら喋ったところで軽蔑のまなざしを向けられることはない。だからといって実況する気にはなれなかった。
旧校舎について全くの土地勘がない俺は、とりあえず階段を目指した。先生は2階の1番奥に技術室があると言っていた。ならば階段さえ見つかれば1番奥の教室まで進めば良いのでほとんど勝ったも同然なものである。
俺は昇降口から右手の廊下を歩いていった。ふと、教室の中に目をやるがそこまで寂れた様子はなく、今でも授業が行われているといわれてもおかしくないような雰囲気であった。目の前にあるのは恐らく家庭科室であろうが、食器が入っていない棚を見つける。それは砂糖の入っていないコーヒーのようにちょっぴり苦く、俺の心をどっぷりと浸していた。この感覚はいったい何なのだろうか。人生最後の日までにその答えは見つかるのだろうか。それともだれか教えてくれるのだろうか。押し問答のように自分の心の中で議論が発展していくが、結局その答えは分からないまま技術室の目の前までやってきた。
扉を両手でゆっくりと開ける。新校舎と違い建付けも悪く、中々簡単には開いてくれない。少し体重を乗せて開いた。中には木製の机といすが整然と並んでいた。教室の隅に目をやると、そこに俺の探していたものはあった。大小さまざまな形のプランターが20個ほど置いてあり、その隣の棚には埃まみれになった培養土の袋が2袋置いてあった。
「これか」
小学生のころ、プランターに土を入れて毎朝ミニトマトの成長記録をつけていた記憶がよみがえった。最初はどこにでも生えているような葉っぱから本当にトマトが生えてくるのか、半信半疑だった。毎朝、母さんと一緒に水をあげて、早く実ができないかウキウキしていた。実がなるまでは結構長かった記憶がある。2か月くらいかかっただろうか。その間お母さんは1日たりとも休まずに、俺と一緒に水をあげ、毎日少しずつ成長していくミニトマトの姿を隣で同じ目線で眺めていた記憶がある。
”楽しかったな”
何かに心を吸い寄せられる勢いだった俺は、何とか現実に留まった。どうしてそんな楽しいことを思い出してしまったのだろうか。普段は思い出すことのない、記憶。とっくに鍵を閉めて二度と開かないようにしたはずの宝箱のカギが、なぜ今になって開いてしまったのだろうか。
俺は足早に小さいプランターと培養土1袋を抱え、扉の方へと向かっていった。相変わらず建付けが悪いため、流石に片手では最後まで扉を閉めることができず、仕方なく手に持っていた2つを床に置き、ピシッと閉める。これであとは教室に戻るだけ、そう思って振り返ると、左手の空き教室から灯りが見えた。この時間帯だからあの光量はあり得ないとかではなく、明らかに異常な明るさだったのだ。来るときは全く気付かなかった。
俺は一体何があるのだろうかと、恐る恐る空き教室に入った。
するとそこには大きな扉があった。教室の真ん中に。明らかに異様な光景だ。
扉は真っ黒で、まるで地面からそのまま生えてきたかのようにこの教室と同化しており、俺はそれを見れば見るほど吸い込まれそうになった。
「扉……どうしてこんなところに」
その扉の真ん中にはデジタル時計のようなものがついていた。その日付が示しているのは2033年4月12日 16時52分 だ。その日付は今日からちょうど10年後の日付である。だが、それは時計というわけでもなく、その時間で止まったままである。俺はポケットからスマホを取り出し、画面をタップする。そこには17時18分と大きな文字で書かれていた。
10年後の今日の日付、それが意味していることはいったい何なのであろうか。俺は興味をそそられるまま、扉のドアノブにゆっくりと手をかける。ステンレスの冷たさが少しだけ手に伝わってくる。取っ手をゆっくりと力を込めて回していく。だがそのまま何も躊躇することなく扉を開くことはできなかった。別にこんな扉、漫画のように異世界に繋がっているわけでもあるまい。なのになぜか、その手を引くことが簡単にはできなかった。すぅっと背中を一筋の水が流れるかのような感覚になる。覚悟を決めた俺は、勢いよく扉を開いたのであった。
・
・
・
・
・
・
・
・
「なんだ……!? ここは……」
・
・
・
・
・
・
・
・
しばらく目の前の光景を受け入れるのに時間がかかった。俺は確かにさっきまで学校にいたはずだ。なのになぜ今、こんな場所にいるのだ。
そう、俺が扉を開けた先に広がっていたのは民家のリビングであった。
食器棚には大きいものから小さいものなど多種多様な食器が並べられており、真ん中には木製のテーブルが存在感を目立たせるように置いてあった。そして壁面には埋め込まれた超薄型の液晶テレビが飾られている。そこにはお昼のニュース番組がつつがなく流れていた。その横には大きな掃き出し窓が半分開いており、カーテンがゆらゆらと揺れて春の陽気をこの部屋いっぱいに運んできていた。
俺はぐるっと、あたり一帯を見回す。周りに人はいない。聞こえてくるのはテレビから聞こえるノイズと、風が耳に運んでくる春の空気のみだ。
ふと、俺はニュース番組の左上に出ている時計を見た。「16:53」と表示されている。その4桁の数字を見た瞬間、戦慄した。足からムカデが全身に這い上がってきたかのようにブルっと体を震わせる。
「そんなこと……ありえるのか……?」
この時はまだ半信半疑だった。俺は恐る恐るスマホを取り出して、画面をタップする。するとそこにはテレビに出てきた数字と同じ数字が並んでいた。その上には2033年4月12日の文字も添えて。
反射的に俺はスマホを放り投げてしまった。得体のしれない物体を持ち上げてしまったかのように、急にスマホが異物に見えてきた。
「はっ……はっ……」
呼吸が荒くなる。点と点がつながった。ここは単に学校の外にある民家ではない。ましてや、2023年ですらない。
そう、俺は10年後の未来にたどり着いてしまったのだ。
その時、テレビから流れていたノイズが正常な音声に戻る。
「ここで速報です」
アナウンサーの男性は声を少し高くしてそういった。続けて、
「先ほど、午後4時50分ごろ 路上で刃物を持った男に女性2人が切りつけられる事件がありました。犯人の男は既に逮捕されています。繰り返します───」
俺はゆっくりとテレビのほうに視線を向ける。するとそこにはドローンで撮影したような上空からの映像が流れていた。パトカーが数台乱雑に停まっており、赤いランプの回転灯がぐるぐる回っていて、まるで真っ赤な血で塗られた地面のように見えた。
ドローンの映像が徐々に拡大される。警察官がある一点を中心にして囲んでいる。その中心にいるのが恐らく犯人なのだろう。その犯人らしき人物にはモザイクが入り込んでいた。頭と四肢を地面にガシッと押さえつけられており、身動きが取れていない。ただ、じたばたと暴れる様子もなく、抵抗せずにまるで自分の運命を受け入れているかのようにじっとしていた。そこで現場との映像は途切れた。
その後、すぐに画面がスタジオに代わり衝撃的な事実が告げられた。
「続報が入ってきました。犯人の男は26歳 会社員 三代勇也容疑者です。安心してください。すでに犯人は逮捕されています」そう、ゆっくりと告げた。
心臓が、飛び上がって身体から抜けていくような感覚に陥る。誰よりも、そして人生で一番耳にした言葉、それが液晶を通して俺の鼓膜に語りかけてきた。
そのまま、じっとテレビの画面を見続けることしかできなかった。