Interview with 応神天皇
〇 天孫降臨と神武東征
天照大御神は地上を支配するために天孫・瓊瓊杵尊が地上に遣わしました(天孫降臨)。
神武天皇は日向国から東征して大和を制圧すると、即位してヤマト政権の初代天皇となります。
□ 前900年 九州北部で弥生時代に入る。
□ 前660年 神武天皇が即位する。
□ 前400年 北海道・沖縄を除く日本列島が弥生時代に入る。
□ 57年 倭の奴国王が後漢に使者を送り光武帝より「漢委奴国王」の金印を授かる。
□ 107年 倭国王帥升が後漢に朝貢して生口百六十人を献じた。
――本日はヤマト政権の成り立ちと歴代天皇についての解説を行います。ゲストは第十五代天皇の応神天皇となります。
応神天皇(以下応神)「こんにちはー!」
――神武天皇は紀元前660年に即位したと言われていますが………。
応神「それは流石に嘘だよ。神武即位は紀元後だよ。実在したモデルがいたとするならね」
――考古学の観点から紀元前の大和に国と呼ばれるほどの勢力はありませんね。栄えていたのは北部九州と出雲あたりでしょうか。
応神「日本書紀書いた人が盛りすぎたんだよねー」
〇 崇神天皇と邪馬台国
実在の可能性が高いと言われるのは第十代崇神天皇からと言われています。
崇神天皇は四道将軍を各地に送り込んでヤマト政権の支配域を広げました。
□ 238年 魏王曹叡が邪馬台国の女王卑弥呼に金印を与える。
□ 248年 この頃に卑弥呼が亡くなる。
□ 266年 晋に朝貢の使者が送られる。
――崇神天皇は三世紀後半の人物と言われています。奈良県には纏向遺跡があり、崇神天皇の時代の遺跡と考えられていて、邪馬台国との関連も研究されてます。箸墓古墳が卑弥呼の墓との説もありますね。
応神「邪馬台国とヤマト政権の関係は分からないなぁ。僕は崇神天皇は三世紀末に即位したと認識しているから邪馬台国の時代の少し後なんだよね。邪馬台国がそのままヤマト政権になったのか別の勢力だったのか分からないや」
――西暦266年に晋に女王国から朝貢があったというのが大陸側の最後の記録になります。次の記録は百五十年後なので、空白の百五十年とか空白の四世紀とか呼ばれてます。
応神「日本や朝鮮の記録があるから空白とも言えないんだけど。ただ、ヤマト政権が全国政権になったのはその四世紀なんだよね」
〇 ヤマト政権の成立
四世紀に入ると大型の前方後円墳が畿内を中心に日本全国に出没しています。
そのことからヤマト政権が成立したのはその頃だと考えられます。
日本書紀によれば応神天皇・仁徳天皇の時代ですが、実在したとすれば垂仁天皇・景行天皇の時代と考えられます。
ヤマト政権は大王を中心とした豪族連合です。
景行天皇は九州へ親征を行い熊襲を討伐して支配下に組み入れます。
熊襲が反乱を起こすと皇子の日本武尊を送り込み再び制圧させました。日本武尊は九州を制圧した後で東国の制圧へと向かいますが、東征中に死去しています。
その頃の朝鮮半島では大陸北東部の大国の高句麗が朝鮮半島を南下して《らくろうぐん》・帯方郡を滅ぼしました。
高句麗の脅威に対抗するべく、朝鮮半島南部の小国が合一して百済と新羅が建国されます。
□ 266年 晋に朝貢の使者が送られる。
□ 313年 高句麗が楽浪郡・帯方郡を滅ぼす。
□ 四世紀前半 ヤマト政権が全国政権となる。
□ 四世紀前半 百済と新羅が建国される。
――古墳の造営状況から考えるとヤマト政権が全国政権となったのは四世紀前半頃と考えられます。垂仁天皇・景行天皇の時代ですかね。景行天皇は九州に親征して熊襲を討伐したという逸話があります。
応神「有名な日本武尊の熊襲討伐の逸話もあるよね。景行天皇の皇子のヤマトタケルが熊襲討伐に行かされて、熊襲の宴会に女装して忍び込んで暗殺するんだ。日本史上初の男の娘だよ」
――出雲武尊を騙し討ちにする逸話もあります。ヤマト政権が西日本を制圧した史実を反映したのでしょう。その後にヤマトタケルは草薙の剣を借りて東征に向かいます。
応神「正確には天叢雲剣だね。焼津で火責めにあった時に草を薙いで脱出した逸話から草薙の剣になったんだ。天皇に即位する時に必要な三種の神器の一つだね」
――ヤマトタケルは東征中に亡くなりました。白鳥となり大和へ帰ったと言われています。
応神「景行天皇と日本武尊の遠征で各地を制圧して、次の成務天皇が支配を強めて同一文化圏として同化政策を行ったんだよ」
――さて、その頃の朝鮮半島では高句麗が楽浪郡・帯方郡を滅ぼして南下して来ます。朝鮮半島南部の小国は合一して百済と新羅が建国されました。
応神「百済は朝鮮半島南西部、新羅は朝鮮半島南東部だよ。南端部の日本に一番近い地域は伽耶諸国と言って小国の集まりで統一されてなかった」
――伽耶諸国は百済や新羅の侵略に備えて連合して、海の向こうのヤマト政権に助けを求めます。
応神「朝鮮半島南部と対馬と北部九州は倭人で同一民族だったみたいだよ。それで交易も盛んだったんだよ。九州の熊襲は海賊として朝鮮半島沿岸を荒らしてたりもしてた。後の倭寇と同じようなもんだね」
――ヤマト政権は熊襲を従えて朝鮮に進出をしました。日本府を置いて統治した地域を任那と呼ぶようになります」
応神「九州の豪族からしたらヤマト政権に自分たちの利権を奪われたようなものだけどね」
――景行天皇や日本武尊の熊襲征伐は朝鮮半島利権を手中に収める意味もあったんですね。
応神「当時は鉄資源は朝鮮半島でしか取れなかったからね。鉄を征するものは古代を制すだよ。古代九州はかなり力を持った豪族がいた。だけど、まとまりがなかったからヤマト政権に各個撃破されて征服されたんだ」
――九州を制圧して朝鮮半島利権を手に入れて鉄資源を独占したヤマト政権は更に力を増したということですね。鉄を持つ大王一族に豪族たちが従うというシステムが出来上がりました。
応神「強欲だよね」
――成務天皇は内政を重視して全国支配を安定させたと言われています。
応神「だけど、自分たちの利権をかっさらわれた九州の豪族たちも黙ってないよね」
――成務天皇が崩御した途端に熊襲の大反乱が起きます。
〇 神功皇后と三韓征伐?
成務天皇が崩御した時に皇子がいなかったので、日本武尊の皇子仲哀天皇として即位します。
仲哀天皇が即位した頃に九州で大規模な熊襲の反乱が起きたので、皇后と共に九州へ親征しました。
皇后は筑紫で海の向こうの国へ攻め込めと託宣を受けました。しかし、仲哀天皇はその神託を信じずに筑紫で亡くなります。
皇后は攻めて来た熊襲を撃退すると、妊娠したままの状態で海を渡り三韓(高句麗・百済・新羅)を征伐しました。
日本に帰国した皇后は仲哀天皇の皇子を産みました。それが応神天皇です。
――大王家の家系図を用意しました。
崇神天皇 ─ 垂仁天皇 ─ 景行天皇 ┬ 成務天皇
│
└ 日本武尊 ─ 仲哀天皇
応神「分かりやすいね」
――仲哀天皇が即位すると九州の熊襲が反乱を起こしたので、神功皇后と共に親征に行きます。神功皇后は筑紫で「海の向こうを攻めろ」と神託を受けますが、それを信じなかった仲哀天皇は病で亡くなってしまいます。
応神「それは嘘だよね」
――えっ? 神託が嘘ということですか?
応神「神功皇后なんていないし、三韓征伐なんてしていない、そして仲哀天皇は熊襲との戦で戦死した」
――ちょっと待ってください。それなら応神天皇は―――あなたはどうやって生まれたんですか!?
応神「僕は………仲哀天皇を殺した熊襲の王さ」
――!!!
応神「九州を制圧して朝鮮半島利権を奪ったヤマト政権に恨みを持つ九州の豪族は多くてね。彼らをまとめて反乱を起こしたんだ。そうしたらヤマト政権の大王が釣れてさ。決戦をして勝利して仲哀天皇の首を取ったんだよ」
――そ、それからどうしたんですか?
応神「混乱しているであろうヤマト政権を倒すための東征さ」
――神武東征ならぬ応神天皇ですか。応神天皇を祀る神社は八幡宮とされてますが、その総本社は九州の宇佐八幡宮………応神天皇が九州出身であるとすれば納得できます。
応神「畿内まで攻め上ったら仲哀天皇の皇子の忍熊皇子が軍を率いて対抗して来たんだよ。でも武内宿禰が裏切って僕らに味方してくれたから圧勝出来た。日和見していた畿内の豪族たちはみんな降伏して熊襲の王がヤマト政権を乗っ取り応神天皇となったというわけなんだ」
――ちょっと情報量が多いです。えーっと、まずは忍熊皇子から。日本書紀では神功皇后が応神天皇を筑紫で生んで畿内に戻る時に反乱を起こしたとされてます。応神天皇の異母兄ですね。神功皇后に討たれて亡くなりました。神功皇后は摂政となり大和国で四十年間の政務を行って、崩御した後に応神天皇が即位したとあります。神功皇后がおらず応神天皇が忍熊皇子を倒してそのまま即位したと。
応神「そうだよ。大和じゃなくて河内に宮を造ってね。だから河内王朝と呼ぶ人もいるんだ」
――それから武内宿禰なんですけど、そもそも実在したんですか?
応神「武内宿禰は複数の有力豪族の逸話の集合体だよ。武内宿禰の子孫が波多氏・葛城氏・蘇我氏・平群氏・紀氏などの有力豪族になったとか不自然すぎるじゃないか。逆なんだよ。元から有力豪族は存在していて、その一族からヤマト政権の有力者になった人物が武内宿禰と呼ばれるようになったんだ」
――それなら子孫が有力豪族になった理由も三百年も活躍した理由も説明できます。
応神「景行天皇から仁徳天皇まで活躍していたから日本書紀準拠だと三百年だけど、四世紀前半から五世紀前半までと考えると百年ほどだね。まあ、百数十歳でもファンタジーだけど」
――つまりは忍熊皇子は畿内の複数の大豪族から一斉に離反されたということですね。それならその後にスムーズに王権が移動したのも納得がいきますね。ヤマト政権は豪族の連合政権ですから、自分の一族に利があれば大王は誰でも良いというこになります。
〇 ヤマト政権の朝鮮征伐
四世紀後半にはヤマト政権は朝鮮半島に進出して任那を従えます。
新羅征伐の軍を派遣して百済を従えます。西暦372年には百済から七支刀が献上されました。
応神天皇は渡来人を多く重用して、製鉄・養蚕などの技術を発展させました。
□ 364年 倭国が新羅に攻め込む。
□ 372年 百済が倭国に七支刀を献上した。
□ 391年 倭国が海を渡り百済と新羅を臣民とする。
――この時期にヤマト政権は朝鮮半島に攻め込んでいます。応神天皇が河内王朝を建てた直後ですが、外征する余裕はあったのでしょうか。
応神「畿内の豪族をまとめるには飴を与えないとダメじゃん。九州に残っている豪族にある程度の権限を与えて朝鮮半島を攻めさせたんだ。略奪したり鉄資源の出る地を抑えたり任那の国々から貢物を出させたりね。そうやって得た者を九州の豪族や畿内の豪族に分け与えるのが僕の仕事ってわけさ」
――国を挙げての遠征でなく九州の豪族の単独によるものだと。それで良く勝てますね。
応神「朝鮮南部には倭人が住んでいたと言ってたでしょ。彼らは協力的なんだ。彼らからすれば百済や新羅の方が異民族で異国人だからね。それに百済や新羅は建国したばかりだし北に高句麗の脅威があるしで倭国の軍勢に対応出来なかったんだよ」
――それで百済は早々にヤマト政権に対して友好的になり貢物―――七支刀を献上してきたと。
応神「新羅は反抗的だったからずっと戦ってたみたいだね」
――応神天皇の御代と言えば渡来人が多く来日して来た印象です。渡来人により多くの技術や知識が導入されてヤマト政権は発展しました。
応神「高句麗の南下政策で百済と新羅が建国されて、その百済や新羅に対してヤマトが戦をしかけてと、朝鮮半島は戦乱の時代なんだよ。だから亡命者や移民が多くいたわけ。知識や技術の無い難民も多くいたけど、知識層は優遇して技術を取り入れたってわけさ」
――百済や新羅からの使者も多く高句麗からの使者もいます。また、百済からは王族が来たともあります。
応神「考えてみてよ、関東から九州までと朝鮮半島南端部を支配している軍事国家がヤマト政権なんだよ。友好を結ぶにしろ敵対するにしろ外交の使者をよこすのは当然でしょ。百済は高句麗にかなり追い詰められているみたいで王子を人質に出してまで味方になってもらいたいようだったね」
――王仁は儒教と漢字を伝えたとされてます。
応神「儒教も漢字も一世紀頃から日本に入っていたはずなんだよね。漢委奴国王の金印を授かっているし。王仁は千字文という漢字の教科書を持ち込んできたので、漢字の普及に多大な貢献をしたのは確かだけど。これ以降は支配層に漢字の教養は必須になったね」
――好太王碑によれば391年に「倭国が海を渡り百済と新羅を臣民とする」とあります。
応神「好太王というのは高句麗の王様だよね。即位したのがちょうど391年のはずだよ。好太王碑というのは好太王の業績を称える石碑でね。即位した途端に倭国の脅威が迫るという脚色が加えられてるんだ。実際には数十年かけてじわじわと百済や新羅を支配下にしていったわけで、391年に大遠征をおこなったわけじゃないよ」
――この頃には朝鮮半島南部はほぼヤマト政権の支配下にあったということですか?
応神「任那地域は直轄地、百済は属国、新羅は宗主国くらいの認識かな。あちらはどう思ってるのかは知らんけど」
――朝鮮半島北部から大陸東北部に巨大な領地を持つ高句麗としては黙ってられないでしょうね。
応神「そうだよね。いよいよ全面対決が始まる?」
――朝鮮半島の覇権をかけて応神天皇と好太王による全面戦争、燃えますね。
応神「残念だけど、その対決は次号に続く――――倭国と高句麗との戦いは次世代の仁徳天皇の時代なんだ。僕はその前に死んじゃうんだよね」
――日本書紀を西暦換算すると西暦310年崩御となりますが、実際の崩御は395年頃でしょうか。
応神「まあ、その辺りなんじゃね。僕の役目はここで終了。後は子孫のみんなに頑張ってもらうよ。じゃあね、バイバイ!」
――本日はありがとうございました。ゲストは第十五代天皇にして河内王朝初代大王の応神天皇でした。
注意)古代史は不明な点が多くこの内容は作者の妄想です。断定的に書いてますがフィクションとして楽しんで下さい。日本書紀の記述を元に西暦に換算してますが、基本的に根拠はありません。