2018年1月5日 暇の哲学
暇という概念は、モノ・コンテンツがありふれて、家の外でも中でも常に何かしらのことができてしまう、この日本の現代社会が生み出した贅沢な概念だと私は考える。
自らの過去を考えたときに、自分の意志で自由に使えるモノが少なかった幼少期には、暇という概念が無かったからだ。
「暇という概念が無いくらいがモノの充足度としてはちょうど良い」というのが個人的な意見だが、そんなことを言っても周囲にはモノで満ち溢れているので、もはや私の力でコントロールできない境地に達している。
たまには意識的に、暇な時間でも作るのが良いというのが私の妥協案である。
そんな中、SNSで流行し、個人的にも使いまくっている言葉に、『虚無』というものがある。
食事を摂りすぎると太るのと同様に、暇な時間を作りすぎて精神的におかしくなってしまう状態と私は解釈している。
もちろん好ましい状態と言えないのだが、この1月5日という日は、新年5日目にして、まさに虚無という言葉が当てはまるような一日だったのかもしれない。
要するに、特にバイト以外に予定がなかったということである。
このまま終えても面白くないので、せっかくだから「暇」について深堀りしようと思う。
「暇」という言葉や環境に、ネガティブな印象を抱く人と、ポジティブな印象を抱く人は半々だと思う。
私は前の文章から察せられる通りポジティブに捉える派である。
「暇な時間は無駄だ」と言い切ってしまうのは何となく勿体無いと思う。
暇な時間には、斬新な、画期的なアイデアが浮かぶことが多いからだ。
じゃあこの日は何か斬新なアイデアでも思いついたのか、という話になる。
おそらく何か思いついたのだろう。ただし6年も前のことなので何も覚えていない。
人生に生産性を追求しすぎてはいけない。
果たしてこの日、バイトに行くまでの私は何をしていたのだろう。
こういうケースでは、私の趣味に関するその日、その週のイベントを遡ることでヒントを得ることができる。
次の日に行われる京都金杯、中山金杯の予想をしていたという可能性はある。
私のことだ、きっとそうに違いない。
率直に言うと、競馬の予想こそ虚無である。
いくら時間をかけて、データを収集して予想をしたとしても、馬体重やパドック、馬場状態などによって予想の前提が変わることが殆どだし、それらの要素をそれぞれパターン別に分けて予想する作業をすると、予想に1週間ほどかかることとなる。
そもそもゲートが開いて馬が走りたくない気分だったらそれで予想の成果は無くなる。
そこまでするくらいなら、あみだくじで買う馬を決めた方が良いと思うのだ。
競馬は見ているだけで面白い。
そんなこんなと言うこともないが、夕方にバイト先へ赴き、虚無の1日が終わったのである。
-----2024年1月5日の私より------
暇って重要なことだと社会人になって痛感しますよ本当に。
ある意味達観して、逆に暇を謳歌しようと意識的に暇人になりきっていた大学生時代の私の判断に敬意を表します。
暇すぎるとそれはそれで面白くないということが身に沁みて分かったので。
社会人になってからでは検証する時間すらありません。
競馬予想についての考え方はこのときと今とでだいぶ異なっています。
本当に予想に1週間を費やすこともありますからね。
それで当たるようになったかというと、それはまた別の問題です。