2018年2月2日 胸部が膨れる事象についての議論
「男」という性別を持って生まれた我々にとって、異性の乳への異常な関心が時として議論を呼ぶ。
誰もが乳について何かしらの見解、学説を持っており、もはや正しさなど自分自身の胸の中にしかないのだ(おっぱいだけに)と議論を放棄する学者も少なくないなかで、この日、歪み切った性のスペシャリストの結集である煮卵でも乳議論が開催された。
無論、巨乳好きか貧乳好きかとか、何カップが好きかとか、そのような低度の議論は我々煮卵メンバーは小学校で済ませている。
議論の始まりは、和田の一言であった。
「冷静に考えて、同じ人間なのに女性だけ胸部が膨れることに、なぜ誰も違和感を抱かないのか?」
私のこの発言は各所で既に行っているので、「ああ、この話か」と思う人も多いだろう。
煮卵内においても同様の発言は複数回目だが、議論に発展したのは史上初のケースであった。
この議題について、池田は「疑問を抱くも何も、胸は正義だから」と発言。
正義という強い言葉を出すことで正当性を主張しているが、単なる思考停止にすぎないと判断した和田が池田に噛みつく。
「じゃあある日突然自分がGカップになったらそれを受け入れられるのか」と返答。
しかし、池田は胸というものは徐々に膨らんでいくものだから、その意見は不当だと反論した。
池田の学説は、「胸部が膨らむのは女性特有の生理的な現象であり、帰納法的に考えると胸が膨らんでも人間の本質は変わらないので、何も違和感は無い」という、極めて正論に近いものである。
しかし、和田は人間の本質が変わることに恐怖や違和感を抱いているのではなく、「胸が膨らむ」という事象そのものに恐怖を抱いているという点で、池田の学説とはやや前提が異なっていた。
つまり、性別は関係なく、人類史上始めて胸部が膨らんだ人は、その事実に恐怖を抱かなかったのだろうか?ということである。
もしかしたら病気だと思って恐怖した可能性もあるし、周りの人々も気が気でなかったのではないだろうか?
今でこそ、思春期を迎えた女性は胸が膨らむ傾向にあるということが幅広く認知されているが、経験則的に忘れ去られてしまった恐怖感は、本当に忘れて良いものだったのだろうか?という話である。
男性器にも同じことが言えるだろう。いつの日だったか白い液体が飛び出したとき、確かに我々は恐怖したではないか。
何が言いたいかというと、そんなデリケートなものを、性的な遊具のように弄ぶのはおかしいのではないか?という話である。
もっと丁寧な扱いが求められるのではないだろうか。
「おっぱい揉みしだきてぇ」とか言っている人達に、私は、そう言いたいのだ。
煮卵に話を戻すと、その後胸部が膨らんだ歴史的背景に話が及び、「尻が先か胸が先か」という議論にまで発展を見せた。
この日の議論はみんな途中で飽きて寝てしまったため結論は先送りとなったが、いつか必ず日本、否、世界の性教育の発展に寄与する可能性が高い意見が含まれていたことは確かである。
このような高尚な下ネタを議論できる、それが煮卵の最も素晴らしい点の1つなのだ。
-----2024年2月2日の私より-----
終始何言っているんだろうと過去の自分が心底心配になります。
胸を弄ぶ相手のいない悲しき男として周囲からは映っていたのでしょうね。本当にかわいそうです。
ただし当時の煮卵メンバーの多くも同じような境遇であり、その心は現時点でも残されています。
煮卵は全てを受け入れてくれます。




