第8話 諭芽(ゆめ)②
「あの、アナセン様……」
「何かな?」
私はそれでも、二人が楽しそうに笑っていたのは分かっている。ここに住む人々みたいに、幸せそうに。
「ありがとうございます。二人のことをここに呼んで下さって。おかげ様でコールの夢が叶いました。マゼルも、そうです。二人とも毎日すごく楽しそうで、幸せそうで、私……、私は」
そこで私は言葉に詰まってしまった。喉の奥で何かが蓋をしているみたいに。私はそのまま何か言おうとしていたはずの言葉を見失って、何も言えずに黙り込んでしまった。
そんな私を気遣うように、アナセン様が言葉を紡いだ。
「私は何もしていないよ。君たちが偶然助けた子が私の顧客の子供だった。ただの偶然だと思うだろうが決してそんなことはない。君たちの日々の努力が身を結んだんだよ。良い行いは必ず報われなければいけない。私はその手伝いをしただけだよ」
アナセン様の穏やかで優しい表情が私の目に映る。目も耳も鼻も、私の五感がその温かみを受けて、なぜだか目頭が熱くなる。でも直ぐに赤い景色が目の前を過ぎる。身体が強張っていくのを感じる。
それじゃあ、あの惨事は何で起こってしまったのだろう。あの燃え尽きた者たちに、報いなどあるのだろうか。
「コールのように、夢を持つことはとても大事なことだ。生きる希望にも指標にもなる。君には何かあるかな?」
「私は……、そんなものは持っていません」
私は俯いて絞り出すように言葉を吐き出した。“夢”と聞くと胸が苦しくなる。あの夢の中にいるように、息がし辛くなってしまう。
そんな私の視界の中に、すっと古びた本が映り込む。それを見て、私は大きく目を見開いた。
「この本は……」
それはガーナの冒険記だった。表紙には無骨そうな男性が清々しいほどの笑みを見せている似顔絵が描かれている。
「これは昔、私が若い頃に書いたものだ。ガーナというのは私が奴隷だった時の名でね。……君は、この本を知っているみたいだね」
思い掛けない言葉に、私は思わず振り向いてしまう。アナセン様はいたずらに成功した子供みたいな笑みを浮かべていた。
「あの、奴隷って……」
「君と同じだったのさ。私も、昔は心からの奴隷だった。でも世界を見て回って知ったよ。奴隷を公に認めている国はあまり見なかった。だから、まるで存在していないような扱いなのだったら、自由に飛び立てばいいってね」
アナセン様は私の手元に置いた古びた本を、そこのままでゆっくりと開ける。まるで小さな赤子を撫でるような所作で。
「この本は私の夢が詰まった大事な宝物なんだ。もうだいぶ文字も挿絵も掠れてしまっているけれど、……あぁ、そこに描かれている綺麗な花の名前は———」
「———“紫陽花”ですよね」
アナセン様の言葉を紡ぐように、私は掠れて読めない文字と滲んだ花の絵を見つめて言った。きっとこの本を知らない人には何が描いていたのか分からないだろう。でも、私には分かる。この滲んで掠れた花の姿が詳細に目に浮かぶ。
だって、この花は私の———。
「アナセン様、……ありますか?」
驚いた表情で私の顔を見るアナセン様を、私はじっと見据える。アナセン様の大きな手から離れた本を胸に抱き締める。
さっきから、心臓がうるさい。それを鎮めるように、さらにぎゅっと抱き締める。
「ある……、ともないとも言えないね。それも失われた遺産、もう誰も見向きもしていない存在の一つ。この本は、私が世界中で集めた情報を元に想像で補完した私の“夢”だからね」
アナセン様はどこか憂いに満ちた顔で、私と私の胸にある本を見つめていて。
「す、すみません! 私、急に……」
私は慌てて自然と抱き締めてしまっていたアナセン様の本を、両手で返すようにアナセン様の目の前に差し出す。
「……私は、旅の途中で守るものが出来てしまってね、諦めてしまったんだ。だから、ルル。……君に、頼んでもいいかな?」
私が差し出した本にアナセン様はそっと手を添える。ゆっくりと押し返すような小さな力が、向こうから返ってくる。
「この花たちを、いつかこの目で見るという、私の生きる希望だったものを」
穏やかな、でも力強い声色がゆっくりと私の耳に届いて、アナセン様の手は本から離れる。この手の本を、私はどうしたらいいのだろうか。そんなことを言われたって、私は。
「……ですけど、私は」
私は奴隷だから、夢なんて見ないとあの日に誓ったから。そんないつもの言葉は、さすがにアナセン様の前では躊躇ってしまう。
「そんなに気負わなくてもいいさ。仕事の合間に少し周囲を見渡してみる、そんなことでいいよ」
「……はい。でも、これは受け取れません。アナセン様の大切なものですし、私もこの本は持ってますから」
「そうか、分かったよ」
こんこん、と扉が叩かれる音が聞こえてきて、私の意識はそこに向かう。
「ルル殿、アナセン様、まもなく儀式の時間になります。ご準備の方は大丈夫でしょうか?」
「あぁ、ちょうど終わったところだよ」
アナセン様は扉の先へ声を投げ掛けた後、私に顔を向けて前方を指差す。そちらに目を向けると、鏡の中に小綺麗にまとまった私の姿が映っていた。
パサついた髪は真っ直ぐに毛先を揃えられ、肩にかかるようにあった髪を銀色に輝く髪留めが一つにまとめていた。私の酷い隈と火傷痕が不自然に際立ってしまっているけど、こればかりは仕方がない。
「随分と話し込んでしまったね」
「すみません。私が余計なことをいっぱい話してしまって……」
アナセン様はゆっくりと首を横に振る。どこか嬉しそうに顔を弾ませて、私を見遣って言う。
「帰ったらまた話そう。この本に書ききれなかったことがたくさんあるからね」
「……はい、そうですね」
そうして私はアナセン様に見送られて、この部屋を後にした。
———私は、この本のこれ。紫陽花ってお花が見てみたいんだ!
確かに、昔に、私が心に描いた何かを思い出す。
高鳴る心臓は、まだ落ち着かない。




