見えないアルバム エッセイ
思い出すことは豊かなことなのだろうか、それとも逃避なのだろうか。
なんだか最近思い出すことばかりしているようなのだが。
私は写真を撮ることが大好きだ。
が、自分の写真は両親が撮ってくれた幼時の写真しかこの世にはない。
それ以外の写真は一枚残らず破棄してしまった。
デジタルにも残していない。
二十代の頃のことだ。
以後自分の写真は一切撮っていない。
それだけ自分を否定したということだけ書き残しておこう。
威張れることでは全然ないが、事実は事実なのだから。
自分の個性のない顔にまったく愛着が持てなかったのも一因。
記憶力は悪い。
だが、残すと決めた記憶は硬く頭の中にとどめ、時々焼き直すことをしている。
友人の結婚式のときのあれこれの表情、旅行先で気に入ったけど結局買わずじまいだった小物、ある日の公園の草花と夕日、伯母の念入りなルージュの引き方、まあ些細なことだが、いろいろある。
捨てた写真の映像の形で思い返すこともあるし、ただ、直に目に焼き付けた映像として再生することもある。
後は匂いだ。
匂いの記憶は再生しにくいが、その匂いと共にあった映像を思い浮かべて力ずくで思い出す。
香水の匂いは思い出しやすい。
香水には柑橘系とか、花の香りとか、木々の香りとか言葉で表されるテーマがちゃんとあるから。
花の香りも安定している。
バラの香り、ユリの香り、スズランの甘い香り、金木犀やそれよりおとなしい沈丁花の香り、花は思い出すまでもなく、季節が来れば香りを届けてくれる。
何度も何度も記憶を塗り替えてくれる。
嬉しいことだなあと思う。
思い出しにくいのは料理の香りだ。
どんなだったか、料理の見た目の華やかさやそのほかのことに紛らわされて、具体的な香りを忘れてしまう。
高価なトリュフにしろ、一回だけ食べたことのあるフォアグラにしろ、舌触りは再生できるのだが、香りの方はおぼろげだ。
もったいないなあ。
やっと友人の披露宴で食べることが出来たものだったのに。
誰かとの食事を思い出すのは、その最初の盛り付けの映像に限られるかもしれない。
香りのきついコリアンダーの匂いだって、どんなだったかと聞かれると、今はとっさに言葉にできない。
確か、とても青臭い、刺激的な、セリっぽい、と分析していっても、あの華やかに爽やかなぱあっと口の中に立ち込める香りを正確には思い出せない。
コリアンダーは料理にほんの少し入っていても、すぐわかるし、使い方によっては本当に記憶に残したいと思うほど絶妙な香りになるのだが。
香りや映像は好きなのだが、実は音にはあまり興味がわかないでいる。
好きな音楽と言うのも、思い返せばあまりない。
音楽に没頭する人は多いし、そんな人ばかりのような気もするけれど、音はちょっと負担になる。
時間を使うし、耳も頭も痛くなる。
虫の声や風鈴の音を少し思い出す程度かな。
こうやって感覚的なことを思い出すのが幸せなのかもしれない。
人との会話はあまり思い出さない。
愉しかった交際も、別れ際は悲しかったり苦かったりすることが多いから。
どうしても最後の表情や言葉が焼き付いてしまう。
沢山の笑顔も、さびしげな顔で塗り重ねられてしまう。
思い出すのは、楽しかった場面の一つが一番。
人間はもしかして記憶の積み重ねで頭の中ができているのかな。
想像力って、記憶に色付けしていくことなのかな。