第五章:白騎士と烈火の少女と/02
そして、その日の夜のこと。
「こら、動くんじゃない。まだ終わってないんだ」
「へいへい……」
「しかし前に比べて随分と髪質が良くなったな……私の判断はやはり間違いではなかったか」
すっかり陽も落ちたこの時間、学生寮の203号室で――ウェインはまた、風呂上がりに髪をフィーネに梳かれていた。
パチンと指を弾いた彼女の風魔術でサッと一瞬のうちに髪を乾かしてから、フィーネは手にした櫛で丁寧にウェインの髪を梳いていく。
最初はフィーネの突発的な思いつきで始めたことだが、今ではこの時間もすっかり習慣になっていた。
故に、だろうか。ウェインは特に抵抗することもせずに、彼女にされるがまま髪を好きに弄らせている。
尤も……大前提として、フィーネに抵抗しても無駄だという認識はあるのだが。
何にしても、ウェインはそんな風に今日もフィーネに髪を梳かれている真っ最中だった。
「しかし……これだけ綺麗な髪なら、ああいう風に女装をしても様になるはずだな」
と、フィーネは櫛を動かしている最中、ふとウェインの髪を触りながら呟く。
「あの話はもう勘弁してくれって……」
「ふふっ、だが本当によく似合っていたぞ? 次は……そうだな、試しに私の制服でも着てみるか?」
「女装なんざもう二度とやらねえからな!?」
「冗談だ」
カッと目を見開いて振り返ったウェインにそう返しつつ、フィーネはこっちを向いた彼の顔をスッと前向きに戻してやる。
するとウェインは「ったく……」とどこか不満げに呟いた後、
「……なあ、どうして受けちまったんだよ」
と、今度は細い声音で――彼らしくもない声のトーンで、ボソリとフィーネに言う。
それにフィーネが「なんのことだ?」と首を傾げれば、
「今日のことに決まってんだろ。アイツの……涼音の、ほら」
「ああ、なんだそういうことか」
言われて、やっとフィーネは合点がいった。
つまりウェインは――フィーネが涼音の賭けを勝手に受けたことが、どうも不満だったらしい。
彼の言わんとすることを理解すると、フィーネは髪を梳きながらふふっと微笑む。
「風牙の野郎のときもそうだったけどよ、あんな馬鹿みてえな賭け……どうしてお前は、ああも簡単に受けちまうんだよ?」
「なに、簡単なことだ。私はお前が負けるとは微塵も思っていない。ただそれだけのことだ」
チラリと微かに振り向いたウェインの問いかけに、フィーネはそう――いつかと同じように即答する。
「お前も知っているだろう? 私は分の悪い賭けはしない主義だ。お前ならあの涼音にだって必ず勝てると確信した、だから受けたに過ぎないんだ」
「つってもよ……万が一、って可能性もあるぜ?」
「うむ、お前の言う通りだ。涼音は確かに強い、あのフレイアを打ち負かしてしまうぐらいだ」
しかし、とフィーネは言葉を続ける。
「……アイツは、お前とファルシオンの本当の力を知らない。勝利条件は既に揃っているんだ。であるのならば……私のウェインなら、勝って当然だ。違うか?」
「違うか、って本人に訊かれても困るんだがな……」
困惑した顔のウェインに「私が言うのだから間違いない」とフィーネは自信たっぷりに返して、
「お前は私だけのモノだ、他の誰にだって渡すつもりはない。それとも……お前は私よりも、あの涼音の方がいいのか?」
なんて、後半はわざとらしいぐらいに細めた声のトーンで、いかにもしおらしい風なことを言う。
「だったら話は別だ、お前の意思が……お前の気持ちが私でなくそちらに向いているというのなら、私は素直に身を引こう。悲しいことだが……お前がそう言うのなら、仕方ないからな」
本当に、びっくりするぐらいわざとらしい言い方だ。
それにウェインが「だから別に、涼音とはそんなんじゃねえって!」と返せば、
「――――知っているさ、そんなことは」
フィーネは突然、元通りのあっけらかんとした声に戻して言い、髪を梳いていた手を放して……そのまま、彼の正面に回り込む。
椅子に座った彼に向かい合い、近くから見下ろすフィーネ。
すると屈んだフィーネは指先でクッとウェインの顎を上げれば、何の前触れもなく顔を急接近させて――――そのまま、短いキスを交わした。
「んっ……」
唇同士が触れ合ったのは、ほんの数秒のこと。クチナシによく似た甘い彼女の匂いと、触れ合う唇の感触を感じて……やっと何をされたのかウェインが理解した時にはもう、彼女の顔は少し遠くに離れていた。
でも、顎を持ち上げる指はそのまま。彼の顔を上げさせたまま、自分の方を見させたまま……フィーネは、じっとウェインを真っすぐ見つめる。
それは、まるで――今日の休み時間、ウェインが涼音にやられていたことの意趣返しのようで。だからかウェインは余計に戸惑ったまま、何も言葉を返せないでいた。
そんな彼に向かって、フィーネはまたふふっと微笑み。
「なら、必ずアイツに勝て」
と、呆然と見上げるウェインに向かって言った。
――――実を言えば、今の今まで思い悩む気持ちはあった。
元から涼音は勝てるかどうか怪しい相手だ。そこに今日の賭けの件まで乗っかったから、顔には出さないまでもウェインには悩む気持ちがあったのだ。果たして本当に、フィーネの言うように涼音に勝てるのか……と。
でも、彼女は必ず勝てと自分に言った。
すると――どうして、だろうか。今まで悩んでいたことが馬鹿らしくなるぐらいに、頭の中がクリアになった気がする。背中を押されたってわけじゃないが、とにかく……今までのモヤモヤした気持ちは、どこかに吹き飛んでしまった。
思えば、あの時もそうだった気がする。
転入して早々に、風牙に決闘を挑まれた時だ。今日の件とどこか重なるようなあの時も、フィーネの自信満々な言葉で背中を押されたような気がしていた。
多分、それは……間違いじゃないのだろう。いつだってフィーネの言葉が、自分を突き動かしてきたのだと……今になってウェインは、改めてそれを実感していた。
だからか、ウェインは自分の顎を持ち上げていたフィーネの手を掴みながら、彼女を見上げながら一言。
「――――あいよ」
と、同じように強い自信と……そして、彼らしい闘志を滲ませた声で、短くそう頷き返すのだった。
「なに、安心しろウェイン。仮にお前が負けたとしても、その時は私が涼音に勝ってお前を取り戻すまでのことだ」
「……ほんっと、お前のその自信はどこから湧いてくるんだか……」
「当たり前のことを言うな、私はフィーネ・エクスクルードなのだからな」
「へいへい……敵わねえよな、お前には」
ふふん、とわざとらしく胸を張るフィーネと、それにやれやれと肩を竦め返すウェイン。
迷いは吹っ切れて、覚悟は決まった。後は勝負の日を待つだけ――――。
こうして、今日もまた夜は更けていくのだった。
そして、同時刻――迫る準決勝に思いを馳せる、もうひとつの影があった。
「…………」
ここは学園都市エーリスの市街エリア、その片隅にある高層マンションの一室だ。
その部屋のリビング、電灯を消した薄暗いそこの窓越しにぼうっと景色を眺める少女の影がひとつ。それは他でもない彼女――羽衣涼音だった。
何をするでもなく、灯かりの消えた部屋でただ窓の外を見つめている涼音。
どうして彼女が学生寮でなく、こんなところに居るのか。それは単に彼女が他の多くの生徒と同じように、学外通学であるからに他ならないのだが……そんなのは今、些末なことでしかない。
涼音はただ遠くの夜景を見つめながら、しかし心はここにあらず。ただひとえに次の戦いに、迫るナイトメイル競技会の準決勝にただ思いを馳せていた。
〈……本気、なのだな〉
そんな彼女に、右手首の紅い数珠が――朱雀が語り掛ける。
涼音は遠くの景色を見つめたまま「ええ」と、静かに朱雀に頷き返した。
「この間のこと、覚えてる?」
〈というと、主のアルバイト先での一件か〉
察した様子の朱雀に「そうよ」と肯定し、涼音は窓の外の夜景を見つめながら、言葉を紡いでいく。
「アタシね、あの時にアイツのこと、すっごく気に入っちゃったの。前から気になってたし、実際に手合わせしてからは一目置いていたけれど……でも切っ掛けはあの時よ。皆を守るために、いの一番に飛び出したアイツを見てたら……なんかこう、胸がすっごく熱くなっちゃってね。そしたらいつの間にか、アイツのことばっかり考えるようになってたの」
〈……なるほど、実に我が主らしい切っ掛けだな〉
「ねえ朱雀、アタシの天竜活心拳の教義、もちろん覚えてるわよね?」
〈うむ――『弱き者を、力なき者を守る拳であれ』であったか。無論覚えているとも〉
「アイツは……ウェインはね、何も考えずにそれが出来る男だって、あの時に分かったの。どれだけ荒っぽく振る舞ってみせても、アイツの根底にはそれがある。天竜活心拳が最も大切にする芯の部分と同じ心を、アイツはちゃんと持ってる……だから、なのかもね。アタシの心を、アイツが掴んで離さないのは」
〈……主の言わんとしていること、分からなくもない。だが……よいのか? 本当にあのようなやり方で……〉
どこか、案じた様子の声で呟く朱雀。
そんな相棒の声に、涼音は「いいのよ」と表情を緩ませながら頷く。
「これが、アタシらしいやり方だと思うの。アタシの胸の中にあるこの気持ちも、伝えたい想いも……全部は言葉じゃない、この拳で直接叩きつける。それがいつだってアタシの……羽衣涼音の、やり方だからね」
〈ふむ……主がそう言うのであれば、もう私は何も言うまい。主は主の思うように、その拳を振るうがよい〉
「ふふっ、ありがと朱雀」
朱雀にお礼を言いながら、涼音はスッと手を伸ばし、そのまま指を折り曲げて……グッと拳を握り締める。
「待ってなさい、ウェイン・スカイナイト。アタシは必ずアナタを手に入れてあげる。そしてすぐにアタシの虜にしてあげるから。その上であの娘も……フィーネも倒して、アタシが最強だって証明してみせる。他の誰でもない、アタシの誇りと――この正義に懸けて、必ずね」
窓の外に広がる市街エリアの夜景を見つめながら、拳を握り締めた少女が決意する。その顔に不敵な笑みを湛えて、そのターコイズブルーの瞳の奥に、烈火のような強く燃える闘志を宿らせて。
ウェインとフィーネ、そして涼音。それぞれの思いを巡らせながら、夜は更けていく――――。
(第五章『白騎士と烈火の少女と』了)




