宗教に関する私的見解
宗教に関する私的見解
宗教の歴史は古く、かつて(今でも)日本には八百万の神がおられる神道国家であった。
それが六世紀に仏教が伝わって、聖徳太子(厩戸皇子)や聖武天皇らによって国教が仏教となり、今に至っている。
世界的にもギリシア時代の神教からローマ時代のキリスト教、中東のイスラム教等「宗教圏」が形成されている。
歴史をたどったり、宗教の性質等に言及していけばそれこそ分厚い本一冊では済まないくらいのことばが必要になる。本稿では私が宗教に関する見解を私的に述べるだけのコンパクトなものにしたい。
まずもって宗教とは、人が幸せになるための神(仏らも含む)からの教えである。
しかるに、宗教組織が巨大化してゆくと身分制度ができ、教団を経営する資金が必要となってくる。
結果「私どもの神(仏等)を信じなければ、地獄へ落ちますよ」などという脅しまでも使い、心が弱っている人々を勧誘するようになる。
そうなると本末転倒である。
「宗教を始めてお金儲けをしよう」とする悪人が雨後の筍のように湧いて出てきた。
カルト宗教の誕生である。
本物の宗教(善良な意味でだ)とカルト宗教の見分け方はただ一つしかない。
お金を過剰に要求するか否か、である。
安倍元首相暗殺で話題になった旧統一教会や、先ごろ教祖が急死して話題になった幸福の科学などは、カルト宗教の典型的な例であろう。
人を救う目的の教団が、組織の幹部たちが贅沢する目的になるとは、堕したとしかいいようがない。
(宗教の意義)
それでは、本来の宗教の意義とは何か考えると、やはり人が生きていく上において不安や恐怖等、負の感情を和らげる機能があげられるのではないだろうか。
たとえば人は誰しも死ぬが、死に対する恐怖だったり死んだらどうなるのかを教え(あくまで各宗教の教義によるものだとしてもだ)、日々の生活に安寧をもたらす、といったものだ。
死後の世界は現代の科学では解明されておらず、輪廻転生や地獄極楽の存在は不明であるけれども、「生きている間に良いことをすれば死後報われますよ(天国・極楽に行けたり、いい人に生まれ変われる)」等教えを受ければ、日頃の生活を改めたり、長いスパンにおいては人生をより良いものにしようと倫理的に優れた行動をとるようになる。
それこそ人が宗教を必要とする原点なのかもしれない。
その証拠に海外で(めったに聞かれることはないと思うが)、「宗教は何?」と聞かれた場合に「無神教です(日本人はたまにそのように答える場合がある)」と答えたら、怖がられる。
倫理観がないアウトローな人間かも、と判断されるからである。それだけグローバルな視点からは、宗教というものが各人の倫理観のベースになっていることがわかる逸話である。私は「ブディスト(仏教)です」と答えていた。
日本はある程度貧困層にもセーフティーネットがあり、生活保護等各種福祉で飢死することはないけれども、海外の貧困層は想像を絶する死に直面した過酷な暮らしをしている。
そのとき本当に頼りになる最後の依代こそが宗教なのであろう。親も兄弟もなく、内戦や飢えで明日をも知れぬ毎日を送っていれば、見守ってくれるのはそれこそ各人の「神」しかいない。
世界は慈悲に飢えている。自己の倫理ガイドラインとして余裕をもって宗教を信仰しているものがほとんどだと思われるが、切実に生死のボーダーラインにおいて宗教を信仰しているものもいるということだ。
(私と宗教の歴史)
「まんまんちゃん、あーん」
実家の仏壇に祖母と母に促されて、拝んだのが私の宗教に関する最初の記憶である。
ここはお国の何百里 離れて遠き満州の
赤い夕陽に照らされて 友は野末の石の下
これは私が祖母に毎晩子守歌として唄ってもらっていた軍歌である。幼いときに初めて触れた死生観だった。
むかし戦争があったんだな。兵隊さんがた
くさん亡くなったんだな。子守歌から想像して死者を悼むという習慣を身につけたのである。
実家は真宗大谷派つまり浄土真宗の「お東さん」である。今も毎月ご住職がお参りに来てくださっている。
私は仏教のおおらかさ、懐の深さが好きで、梅原猛先生の「聖徳太子→(役行者)→空海→親鸞」という仏教直系の流れを信仰しているといってよく、この四人は個人的な「仏教四天王」なのである。
聖徳太子が仏教を政治に反映させ、役行者小角が仏教と修験道を融合させ、空海がそれを密教として広大な宇宙へと昇華させた。親鸞はそれを受け継ぎ、庶民の生活へ浸透させることに成功させた。
四人とも私にとっては超人にして天才で、利己的な不純物を排し、仏教のもつ慈悲のコアな部分を時代に反映させていったと考えている。
(カルト宗教)
対してカルト宗教と呼ばれるものは、あくまで教祖もしくは教祖周辺の幹部がお金儲けをするシステムであって、信者は荒唐無稽な教義を叩きこまれ、脅しすかされて大金を貢ぐわけなので、企業に例えると反社会的ブラック企業である。
歴史ある宗教は、信者の願いや悩みを断言をもって救わず、道をナビゲートするものであるが、カルト宗教は信者に進む道を断言・強制し、そのためにお金が必要だと洗脳する。
いわば詐欺行為による集金システムである。
人間は都合のいいことを信じたがる本能があるので、藁をもすがりたい精神的経済的弱者がその餌食となっている。
中には「間違っているのは社会の方だ」とテロを仕掛け鎮圧されたオウム真理教のような過激なカルト教団もあったし、安倍元首相を暗殺した男は、旧統一教会に家族が洗脳・多額金銭の収奪に遭い、統一教会を日本に引き入れた岸元首相の孫を害することで恨みを晴らそうとした。
現世で体制や個人を憎しみの対象にする、などという宗教は本来ではありえず、カルト認定して間違いない。
過去の歴史でも、十字軍がエルサレムを侵略した行為や、9.11テロ事件などはイエス・キリストやマホメットの教えではないであろう。
宗教で人を排除攻撃したりするのは、真逆の教えだからである。
とくにキリストが十字軍や統一教会を見たとしたら「たかが宗教で何をしているのだ」
と怒りをあらわにすることだろう。
人間の暮らしにおいて、人間が幸せになるための教えもしくは実践ツールが宗教なのであって、宗教のために己の人生におけるなにがしかを犠牲にすることはありえない、と個人的には考えている。
(八百万の神という宗教)
現在の日本人はほとんどが浄土宗・浄土真宗を信仰しているといわれているが、浄土仏教と並行して生活に浸透しているのは、日本には八百万の神がおわします、という思想である。
要するに「万物に神がやどっておられる」ということだ。山には山の神様、海には海の神様、農作物・農機具にいたるまですべてのものに神様がやどっておられる。
日本の仏教は他の神を排除しないので、神仏混合、誰もが日常に感謝をささげる。それは我が国の美徳であり、国民性に根差しているといっていい。
ところが海外の宗教、たとえばキリスト教・イスラム教ではそうはいかない。
これらは一神教なので、他の神と信仰する神が並び立つ、あるいは複数の神を信仰することは許されない。
なので、宗教間戦争が起きたりもするのが、元来キリスト教もイスラム教も砂漠地帯におこった宗教なので、人間は自然との対立して生きてゆかねばならず、おのずと排他的な性格を帯びるようになったのであろう。
日本のように四季が豊かで、自然に寄り添い共生してゆく生活をしている国民との違いが顕著に見受けられる。
神を信じれば天国。信じなければ地獄行き。
このわかりやすさ、二元論は海外のスタンダードなのである。
日本にはそれぞれの信仰する宗教と並走するように、八百万の神がおられる。人間が「立派に生きる」と「死ぬ」の間にはそれぞれ数え切れないほど各人のバリエーションがある。それを救うのが八百万の神というセーフティーネットなのではないか。
浄土真宗で親鸞が説いたように「悪人でも南無阿弥陀仏と唱えれば極楽往生できる」という破天荒な教義もあるものの、それを知らずして死んでゆく人も多いであろう。
そのときその人が生前農機具を大事にしていたとか、食べ物だけは粗末にしなかったとか、動物には優しかった等、良い行いを八百万の神がピックアップされ、いい感じであの世にナビゲートしてくださるのではないか、と想像しているのだがどうであろう。
(日本人の宗教観)
人間は死んだら終わり。真っ暗な無。そう考えてもいいが、やはり誰しも死ぬのは怖い。
日本人は海外と違って主に農耕民族で、その住む土地土地の自然と共生してきたので、信仰する宗教と別に様々な神社を建て祭ってきた。
それは浄土教とその前に信仰され今もいる八百万の神のご加護を受ける謙虚な精神の発露である。除夜の鐘を寺でつき、初詣は神社に行くのは、自然な行いである。
終