8話【伯爵家、嫡男】
翌日、スペトラード伯爵家当主、エドワードに呼集された。執務室を訪れても視線さえ合わせようとしない主人の態度に不安が募る。
半刻過ぎた頃、直立の姿勢を崩さず沈黙するしかないレインに、伯爵はやっと羽ペンを置いて声を掛けた。
「…ディリーのアップシートにはお前を従者として同伴させる」
素気無い態度に加えて、冷淡な声。ドッと心臓が強く脈打った。
「返事はどうした?」
『…、大変光栄なお話ですが…、その…僕では足手纏いになります…』
背筋を嫌な汗が伝う。
通常貴族の風習、アップシートに同伴する従者は少なくとも身を守れる程度の魔術や剣術を習得している者が選抜される。
レインはこの何方も有していなかった。
「そんな事は分かっている」
『…、それでは………』
ディーリッヒとレインの仲は良くない。
身重のマルグリットに不自由がないようにと献上された奴隷に、母の愛を奪われたと主張するディーリッヒの激昂は凄まじかった。
貴族生まれの召使を扇動し暴行を加えた事も1回や2回ではない。虫が苦手なレインの私物に毛虫や蜘蛛を集めた事もあった。
今でもやっている事は相変わらずで、レインを常々毛嫌いしている。
そんなディーリッヒが、貴族として大切なアップシートに同伴する従者が自分など許す筈もない。
エドワードは横目でレインを見る。生前マルグリットが可愛がっていた奴隷。毒味と神獣の世話をする、昔からここに仕える古株だ。
「――なぁ?」
『は、はい…』
猫撫で声のエドワードは口髭を撫でながら、レインの頭の先から爪先を舐め回すように見る。
「此処に来て随分経つな?」
『、…はい…』
彼がスペトラード家に奉仕して13年が経過する。人生の大半をスペトラード家で過ごしたと言っても過言ではない。
「思えば奴隷のお前には分不相応な程、贅沢をさせてやっている…。その身分で僭越だと思わないか?」
『そ、れは…』
「お前は私に返し尽くせないだけの恩がある。違うか?」
『…仰る、通りです』
エドワードの目尻が卑しく伸びた。
「それなのに、主人の命に背くのか?まさか、私の可愛いディリーの従者は嫌なのか?」
まるで意外な事のように目を開き、立場の弱い奴隷から言質を取ろうとする。
『いいえ』としか答えられない詰問に、大粒の汗をかいて彼の望み通りの言葉を吐いた。
「よし!それなら問題ないな」
人の良さそうな笑みで、話は終わりだと手を叩く。
「もしもディリーが危ない目に遭ったら、お前がその身で庇うんだぞ。例え手足がもげてもだ」
『…っ』
肩が跳ねたレインは青褪めて息を詰まらせる。彼は自らが選ばれた意味を理解した。
「奴隷は使い捨ての道具に過ぎない。それは、お前が1番分かっている筈だな?」
『は、……ぃ』
「面倒を見てやった恩を忘れたのか?」
『そんな事は…っ』
焦点が定まらない。床が揺れているようで、吐き気が込み上げる。
今、自分はどんな顔をしている?ちゃんと笑えているだろうか。
「まぁ、万が一をなくす為にA級の冒険者をわざわざ呼び出したんだが…盾は多い方が良いだろ?」
思えば、13年間仕えていて彼に名前を一度でも呼ばれた事はない。
――所詮、道具でしかない。
分かっていた筈だった。それなのに、なのに、どうしてこうも苦しいのか。
気道が狭まってしまったかのように息がしにくい。
「獣番といい毒味役といい、お前は本当に便利な奴だよ。はは、はっはっは!」
下品に嗤う口元が、頭にこびり付く。腹と顎を揺らして嘲笑う彼を呆然と眺めた。
◆◇◆◇◆◇
普段通りの仕事をこなしながら、独りで思索に耽っていたレインは落ち着きを取り戻す。
――まだ死ぬと決まった訳ではない。
マルグリットがレインに目を掛けていたのは事実だが、実の息子への愛情を疎かになどしていない。
与えられた役目をしっかり果たせばディーリッヒの、自分に対する誤解と印象や評価も変わるかもしれない。
これは悪い状況じゃないと、必死に思い込もうとした。
レインはレンヨウが居る魔獣小屋を訪れる。
色取り取りの果物が入った木箱を平家横に置き、頑丈な錠前と鎖を外して木製の扉を開く。
「クルル…、グル…クルルー」
レインの匂いをいち早く感じ取り、奥でレンヨウが飛び跳ねていた。
彼の元に来たくて格子の隙間に顔を突っ込む。前脚の付け根と肩が引っ掛かりそれ以上進めず、爪で地面を掻いた。
『お久し振りです。レンヨウ様』
近頃はナオの従者として過ごしていた為、レンヨウと触れ合う機会がめっきり減っていた。
膝を折って屈むと、神獣は再会を喜び胸に飛び込む勢いで顔を舐めてくる。
『…僕も、会いたかったですよ』
歓迎を受けた青年は、宥めるように優しく頭を撫でる。白糸が指に吸い付き心地が良い。額を鼻梁に付けていつもの挨拶をした。
レインが多忙で来れない日は兵士が食事を運んでいたが、彼らは檻に近付くのを嫌がり果実を箱中に投げ入れるのみだ。箱の底には潰れた実が腐敗し、的を外した果実は周囲に散らばり蟻が集っていた。
檻から遠く離れた扉の脇には果実の種が落ちていた。レンヨウが出入り口付近まで種を飛ばすなど物理的に不可能である。
食事を運んだ兵士達が果実をくすねて、神獣から離れたこの場所でサボっていたとしか考えられなかった。
『……直ぐに掃除しますね。そうだ、そろそろ爪も切りましょう』
ぷにぷにの肉球を愛撫しながら爪の長さを目視する。そろそろ切り揃えた方が良いと判断し、今日の流れを大まかに考えた。
前脚の毛流れを整えていると、魔力封じの枷が視界に入りまた悪い考えが過ぎる。
人間の都合で閉じ込められている蒼神が、こんな劣悪な環境下に置かれるなどあってはならない。
だが、自然に還せない事情も重々承知していた。
レンヨウは決して飼い慣らせないと考えられている。狭い牢屋に監禁された長い年月は人間に対する憎悪を増幅させ、そんな魔獣を自由にしたら、沢山の人間が死ぬ。
結果、冒険者組合と国が結託して討伐に乗り出すだろう。人間は脅威に過敏だ。
――このレンヨウが討たれるなど、絶対に…。
神獣は何も知能の高い獣だが、伯爵家に囚われるレンヨウはまだ幼い。長い寿命を持つ神獣の知力は年齢に比例している。
自らを無害だと証明し皇帝の庇護無しでは、討伐運動は免れない。
散乱する潰れた果実を険しい顔で見下ろしつつ、行き着いた思考に小さな溜め息を吐いた。
「クルル…クル、ルルー」
『レンヨウ様……』
顔を覗き込み頬擦りされ、まるで元気を出せと励まされているような気持ちになる。
憂鬱な気分も全て吹き飛ばしてくれる。神獣は辛い時ずっと寄り添ってくれた。
幼い頃から理由のない暴力に晒されていた彼は、泣く事も怒る事も許されなかった。殴られ蹴られても、歯を食いしばって嵐が過ぎるのをひたすら待つ。
でも神獣だけは、レンヨウだけは、いつも泣き場所を与えてくれた。ボロボロのレインをいつだって受け入れてくれた。
『はは、…この仕事が全部終わって無事だったら、またレンヨウ様に元気を貰いに来るかもしれません』
「クルルー」
『体ばかり大きくなって、って…怒られてしまいそうですね』
冗談めかしく言って頬を掻く。
格子の隙間から手を差し入れ首の後ろを撫でた。神獣はレインの肩に頭を置いて喉をぐるぐる鳴らす。
レインに凭れ目を閉じていたレンヨウがピクリと顔を上げたのは唐突だった。
平屋の外から小さな影が飛び込んでくる。振り向きざまのレインの懐にぶつかったのはミーアの愛猫だった。
『ッ…、びっくりした…!マルクル、此処に入って来ちゃダメだよ…』
ジタバタと身を捻る白猫を抱えて、小屋の外に放そうとする。しかしマルクルが無我夢中で踠き暴れるので手を焼いた。
腕を引っ掻かれ『痛っ』と呻くと、その途端大人しかったレンヨウが豹変する。邪魔な格子に噛み付き、凶暴な唸り声に加えギリギリと爪を立てた。
『レンヨウ様、大丈夫ですよ。マルクルは普段は大人しい猫なのですが…』
神獣は人間以外の生き物を見た経験が少ない。驚くのも無理のない事だとレインは納得した。
視界を手で覆って、包むようにゆっくり撫でているとマルクルも次第に大人しくなる。そして気付いた。
後ろ脚から出血している。
『木に引っ掛けたのか?』
このまま放置は出来ない。抱えたまま傷口を確かめようとすると、マルクルは激しく身動ぎする。
心を鬼にして押さえ込み、毛を掻き分けて目を凝らす。
『深いな…。洗って止血しないと』
ジャケットを脱いでマルクルを包む。一先ず安心させないと痛みで暴れて悪化を招く。
部屋に包帯はあっただろうかと別事を考えていたせいで出入り口に立っている男の存在に気付くのが遅れた。
「おい、スレイン。その獣をこっちに寄越せ」
修練に励み皮が厚くなった手を伸ばすのは、スペトラード伯爵家嫡男のディーリッヒ。それに対しレインは尻込みした。
ディーリッヒの右手には剣が握られており、その刀身は剥き出しになっていた為だ。
上着に包んだ猫を彼から遠避ける。何故そうしたのか自分でも分からないまま体が勝手に動いていた。
「はぁあ?もたもたするなこの鈍間がッ!」
眉間に皺を濃く刻み、奴隷を睨む。
『申し訳ありません坊ちゃん。しかし、…怪我をしています。手当が…必要です』
「良いから貸せって言ってんだろ!?」
ヅカヅカと平家に入ってきたディーリッヒに、レンヨウが吠えた。
「うるせぇッ!この獣が…!」
忌々しそうな視線を送る。肩に乗せた刀身を振るうと空気を裂く音が轟いた。
剣の先端を神獣に向けるディーリッヒは、薄ら笑いを浮かべる。
「フン、畜生など生きている価値もない…」
父、エドワードと彼の違いは神獣への信仰心だ。
領地に恩恵を齎すと伝わるレンヨウ。
帝都オルティシアから運ばれて来て体力が回復してから、洪水や干魃が起こらなくなった。土地が豊かになり作物も以前の2倍の量を収穫出来ている。
これらを鑑みると神獣の恩恵を信じずにはいられなかったエドワードに対し、ディーリッヒはレンヨウをただの獣と見做している。
そんなレンヨウは低い唸り声を上げながら、縹色の瞳でディーリッヒを見ていた。
「やはり、話で聞くほど大した魔獣には見えないな。…寧ろこの獣をアップシートで殺せば、帝国中に名が轟くぜ!毛皮を纏えば皇帝主催のパーティーでも、注目される事間違いなしだ…!」
『…ッ、レンヨウ様は皇帝陛下のご意向でこちらにいらっしゃいます!もしもレンヨウ様がこの地でお亡くなりになれば、旦那様が責任を問われる事態になりかねません!』
早口に言うレインはありったけの勇気を振り絞った。相手は武器を持ったディーリッヒだ。殺されるかもしれないという恐怖と真っ向から対峙する。
しかし、黙ってなどいられなかった。この神獣に剣を向けるその行為だけは容認出来ない。
『剣を…お引き下さい…』
視線が交差する中で、滲み出た汗が頬を伝う。怪訝そうに片眉を上げるディーリッヒの僅かな動きにも身体が過敏に反応した。死を身近に感じて手が震える。
「へぇ…。珍しく食い下がるじゃないか。だがそれが、奴隷が人にモノを頼む態度か?」
ハッとしたレインは迷わず膝を突く。マルクルを懐に忍ばせたまま額を地面に擦り付けた。
『どうか、お願い致します』
生唾を飲み下し、祈る思いで懇願する。重い沈黙がのし掛かり顔を上げるのを許さない。
「…フン、奴隷に指図されるのは気分が悪い。俺の機嫌を損ねたら、ただでは済まないと教え込んだと思っていたが」
掌が汗でじっとりと濡れているレインの、丸めた背中がビクりと揺れる。
上着に包んだマルクルがもぞもぞと動き、土下座する腕の隙間から顔を出した。
「ははは!知能のない畜生が!」
『…この子をどうするおつもりですか?』
心底馬鹿にした声色のディーリッヒに、顔を伏せたまま発言する。
ミーアの猫を執拗に追う理由が分からない。動物嫌いの兄に、ミーアが捜索を頼むとは考えづらい。
「どうって、試し斬りに使うんだよ」
ディーリッヒは悪怯れもせずに、さも当然であるように答える。
彼の握る剣は、アップシートの為にエドワードが準備した特注品で、柄の細工が見事な長剣だ。その切れ味を確認する為にマルクルを差し出せと言っている。
「猫の皮は粘るんだ。試し斬りにもってこいなのさ」
マルクルの脚の裂傷は木の枝に引っ掛けた訳でも、割れたガラス瓶を踏んで切った訳でもない。昼寝をしていたところを彼に斬り付けられたのだ。
丸まった小さな子猫に視線を落とす。レインは唇を震わせ固く結んだ後『…、…お渡し出来ません』とディーリッヒの命令を拒んだ。
「はぁ!?」
形相がみるみるうちに変化した彼は座り込む奴隷の頭を蹴飛ばした。身構えたにも関わらず衝撃で吹き飛んだレインは格子に肩を打ち付けるが、上着に包んだマルクルだけはしっかり抱えている。
青年は激突した檻に身を預けたまま、脚に力が入らずズルズルとしゃがみ込んだ。
それを見たレンヨウが房内で暴れて、鉄格子と爪がぶつかる大きな音が響く。
一瞬たじろいたディーリッヒは壊れる様子のない堅牢な檻に安心し、乾いた笑い声を漏らした。
「――はは。この野郎、舐めやがって。お前で試し斬りしても良いんだぞ?スレイン」
『、…っ』
「――どうしたんですか?」
剣を振り上げたディーリッヒの後ろで鈴の音のような声がした。