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7話【黄金の夕陽】



 山に囲まれたリンドの街は河沿いにある緑の多い田舎街だ。杏色の三角屋根で統一された街並みが美しい。

 人や馬車がまばらに行き交う大通り。道は広く設けられ規則性がある。


 街中は段差が多く高低差があるのが特徴だ。石を敷き詰めた階段は街に溶け込んでいる。


 長くリンドで暮らしているが、街に下りるのは初めてだ。昔マルグリットが街へ行く際、レインを召使(フットマン)として連れて行こうとした事がある。しかし、幼い彼は外出を怖がり、結局は別の召使が同行した。

 今思えば奴隷の彼に息抜きをさせようとした夫人の気遣いであったと理解出来る。


 あの時は何もかもが恐ろしかった。仕事を覚える事に必死で、人の顔色を窺い、身を縮めて生きていた。

 しかし希望は捨てきれず何かが変わる事を期待して、その一方で変化を酷く畏懼していた。


 幼い日の自分を嗤笑する。


「レインさーーん!」


 名を呼ばれて我に返った。


 現在レインはナオの従者として屋敷の外、街に来ている。

 声がした方を向けば、彼女が満面の笑みで手を振っていた。


「この串焼き食べてみませんか!?凄く美味しそうです!」

 

 店先で売られていた肉と野菜が貫かれた串焼き。甘辛い匂いのするタレでコーティングされ、輝いてみえる。香ばしい匂いが鼻先を擽り、口内に唾が溢れた。


 レインは伯爵から預かった金銭で支払いを済まし、大きな串焼きをナオに渡す。


「うえ!?あ、有り難う御座います!そんなつもりでは」


『旦那様からお預かりしたものですので、気になさらないで下さい。それより街を楽しんで頂ければ幸いです』


 人の流れに従いながら歩き始める。ナオは熱々の串焼きに齧り付き、幸せそうに目を細めた。


「レインさんは食べないんですか?」


『僕は昼食を済ませた後ですのでお腹いっぱいで…』


 毒味を済ませた後なので腹は減ってない。付け加えるなら、冒険者の支出にと渡された金銭を自らの間食に使用する訳にはいかなかった。


 ナオは「そうですか…」としゅんと肩を落としたが、直ぐに気を取り直して「お肉柔らかくて美味しいです!」とニッコリ笑う。


『ウクエレ地方で獲れる大牛(ボナゴン)の肉ですね。今の時期、良質な肉が獲れると料理人の方が教えて下さいました』


「ボナゴン…?」

 

 聞き慣れない単語を鸚鵡返しにする。レインは彼女が渡り人である事を思い出した。


 ボナゴンは大牛とも呼ばれ、馬に似た立て髪を持つ4足獣の牛だ。角は内側に向き戦闘に適していない。その為比較的捕らえ易く安価である。


『主に食用になる魔物です。草原や平地に群れで生息してます』


「って事は私、魔物を食べてるんですか!?」


 目を剥いて驚くナオ。驚く要素が分からず、レインはたじたじと様子を窺う。


「すみません…、私の元居た世界って魔物とか魔獣とか居なくて」


 魔物に襲われて命を落とす事も少なくないからこそ、魔物が居ない世界は正に理想と言える。


 800年前に1度文明が滅んでいるとはいえ、魔法が在る〈アノーラ〉の人文が中世ヨーロッパまでしか発展してないのは魔物の存在が密接に関わっていた。

 街が大きくなり人々の活気が集まると魔女が創生した魔物の強襲に遭う。


「私、この世界に来て自分はなんて恵まれていたんだろうって思い知らされました。家があって、ご飯が当たり前に出てきて、着る物も親に用意して貰って。毎日が平和で、勉強してるだけで褒めてもらえる」


『……』


 ナオはこの世界に来るまで普通の女子高生だった。両親と兄が居て、絵に描いたような仲良し家族だ。

 友人関係も良好で学園生活を満喫し、近頃は大学受験を控えていて日々勉学に励んでいた。


「争いはあってもただ画面越しに見てるだけで、心の何処かで自分にはあまり関係ない、なんて思ってしまってて…。まさか自分がこんな…生きる為に闘わなくちゃいけない世界に来るなんて」


『ナオ様――…』


 戦争や争いは絶えないが、それは何処か遠くの異国の出来事。テレビで報道されるニュースに心を痛める程度で、それ以上の関心は無かった。


 それが、〈アノーラ〉に放り出されて他人事ではなくなった。戦争でないにしろ闘わなければ生き残れない。生と死が常に隣り合わせで、だからこそ生を実感していた。


 過去を顧みる彼女の髪が風に揺れる。


「――でも、そう!今まで魔物は爪とか牙とか毛皮とかの素材が売れるだけだと思ってたので、食べれるって聞いて吃驚しちゃいました!」


 先程の悄然とした顔付きは、見間違いだったのか。


 笑顔を貼り付ける裏にはきっと、計り知れない不安と苦悩がある。それは何処か、奴隷に堕ちたばかりの自分に似ていた。


「魔物のお肉がこんなに美味しいなら、前に討伐クエストで狩った魔物も食べてみたかったなぁ…」


 ほう、と零した吐息と共に涎が垂れる。


 よく考えれば魔物が存在する世界で野生の牛や豚、鳥は生き残るのは困難だ。弱肉強食が体現された、弱い動物は淘汰される厳しい世界。

 牛や豚が僅少な場合、身近に居る食肉に適した魔物を食すのは自然だ。


『A級クエストの…?それは、お気をつけ下さい』


「え?」


『強大な魔物の肉は上質ですが、魔石持ちには毒があり大変危険です』


 ある一定の強さに達すると魔物の体内に魔石が出現する。その周辺の肉に毒素が滲み出し、一口でも食べれば毒に侵されてしまう。


 なので上位の魔物の食肉を扱うには資格が必要だった。


 冒険者ギルドに滞在している仕分け人はこれに精通しており、毒を取り除く事が出来る。貴族お抱えの料理人もこのスキルを有している。冒険者の中には、旅の途中個人で肉を処理する為に資格を取得した者も居た。


 上位魔物の肉が一般に出回るのは処理が終わった可食部だ。


 特に、闇属性の魔物は毒持ちが多い事で有名である。彼らは例え食用に適した肉質でも破棄されていた。魔女の眷属の肉を食べるなど、身の毛がよだつ悍ましい行為そのものだからだ。


「なるほど…!魔物は強い程美味しいって事ですね!」


『…いえ、毒が…、まぁ、はい』


 大事な所を伝えられたか不安に見舞われる。たが彼女には【紅の狼】の仲間も付いているし、心配ないだろう。


 街の中うきうきと鼻歌を歌う彼女の一歩後ろを歩いていると、突然手を握られた。


「あっちの人集りに行ってみましょう!凄く楽しそうです!」


『え…、は ぃッ!?』


 答える間もなく駆け出したナオに引っ張られ、気付いたら走っていた。

 冒険者のナオの脚力は今や一般の兵士の数倍。レインは縺れそうになる脚を必死に動かした。


 栗色の髪が踊り、少女の小さな背中が先導する。華奢な体なのに手を握る力は実に逞しい。人を引っ張っていながら疾風のように駆ける。


 これ程全力で、無我夢中で走ったのは何年振りか。景色を置き去りにして風を切って疾走する。

 この瞬間だけは何にも縛られていないと錯覚を起こした。



『――はぁ、はぁ…はぁ…っ』


「す、すみません…!」


 広場の人集りに飛び込んだ彼女が振り返ると、従者は腰を落として息を整えていた。バクバクと激しく鼓動する心臓と、収縮を繰り返す肺が苦しくて仕方ない。

 顔色が悪いレインを覗き込んで安否を確かめると、彼は弱々しく微笑んだ。


『申し訳ありません。こんなに走る事は今までに無かったもので』


「あぁああ…だ、大丈夫ですか?すみません、夢中で…」


『ハァ…はぁ、いいえ、一瞬だけ――…』


 この身が奴隷である事さえ忘れられた。

 喉まで来た失言を飲み込む。


「?どうしました?」


『いえ、何でもありません。それより、どうやら簡易な出し物が行われるみたいですね』


 広場の中心には大きなステージがあった。前には長椅子が並べられていて、誰でも参観出来るようだ。舞台の左右にテントがあり、関係者が出入りしている。


 ナオはレインに勧められて長椅子に腰を下ろしたが、年配の女性を見付け席を譲っていた。

 他の場所が空いていないか周囲を見回している内に、人に囲まれる。催し物が終わるまで一歩も動けそうにない。


 ナオを一瞥すると「私はこのままで大丈夫です!」と朗らかに笑う。伯爵の客人に立ち見させる罪悪感…もっと自分がちゃんとしていればと悔やむ。


 ステージに注目していた人々が一斉に拍手をした。


「あ、ほら!始まりますよ」


 裾を掴まれ促され、レインも舞台を概観する。

 国が誇る大英雄、剣聖の活躍を題材にした子供たちによる演劇だ。


 帝国の誰もが知る物語だが、渡り人のナオには新鮮な内容だろう。彼女は目をキラキラさせて夢中で舞台を凝視している。


 緊張で同じ側の手足を同時に出して歩く7歳くらいの少年が、声を拡声させる魔道具を前にゴクリと喉を鳴らした。必死に覚えて何度も練習したのであろう台詞を大衆の前で発する。


「こ、これは何百年も続く大英雄、剣聖オルレアン家のお話です」


 少年が舞台裾に引っ込むと、左右から別の子供が現れる。頑丈な紙を繋ぎ合わせて作った白鎧に身を包む、青いカツラを被った子だった。剣聖の家系に受け継がれる青い髪を忠実に再現している。


 劇に釘付けのナオの横顔を盗み見た。沢山の子供が出て来た時には目を輝かせ「かわいー!」と声を殺して叫ぶ。

 魔物と剣聖の攻防はハラハラと手に汗を握り、助けた王女が額にキスを施すシーンは手で口を覆ってニヤける口元を隠していた。


 感受性が豊かで、その表情はまさに千変万化。彼女を見ながら微笑する自分に気付いて自重する。


 それと同時に歓声が上がり惜しみない拍手が贈られた。


「凄いッ!凄いですねレインさん!」


 手を打ち鳴らして絶賛するナオは、観衆に紛れて小さな役者たちを褒めた。

 レインは彼女をこれ程喜ばせてくれたのだからと、回された竹籠に多めのおひねりを入れる。使い方としては間違っていない筈だ。



「――ですし、感動的なラスト!もう最高ですよー!」


『ええ、本当に』


 まだ余韻が残る彼女と共に通りを歩く。興奮が冷めないナオは魔物と戦う剣聖を思い出して、拳を前に突き出した。


「あの子達は役者の卵とかですかねー。これだけ人を感動させられるんですから凄い才能です!」


『彼らは…』


 言うべきか否か迷う。言い淀んだ彼に気付いて、彼女が振り返った。


『その、…彼らは、孤児です』


「孤児、ですか?なんで…」


『親に捨てられたり魔物に殺されたり、盗賊に遭ったり、何らかの形で親を失った子達です』


 ノノア地方は他の地方と比べて静謐なものだが、そういった事件がゼロではない。


『孤児院の資産が低迷しない為に、子供たちであの様なイベントを行って日銭を稼ぐと聞いた事があります』


「そう…なんですか…」


 深刻そうに顔を伏せる。表情が曇ったナオを見て、先の発言を後悔した。わざわざ伝える必要はなかったかもしれない。


『こんな話…申し訳ありません』


「とんでもないです!レインさんが教えてくれるお陰で、私は〈アノーラ〉を知ることが出来るんですから!」


 レインを安心させるように、彼女は優しく微笑んで見せた。その後ぷく、と頬を膨らませ「それに、私に謝ってばっかりですよ」と指摘する。


『申し訳あり…、…』


 それを受けて気付く。口を突いて出るのは謝罪ばかりだ。謝るのが気に触るならば改めなければ。

 往生するレインに、悪戯っ子っぽく歯を見せて勝ち誇った笑みを浮かべる。


「今度謝りたくなったら、お礼に言い変えれないか考えてみて下さい」


『お礼に…』


 長く奴隷をしていると考え方が卑屈になる。謝罪が感謝に言い換えられるなど、考慮した事が無かったのでイマイチぴんと来ない。申し訳ないと思う事が、真逆に変わるという彼女の言葉が。


「あ!レインさん見て下さい!」


 再びナオはレインを引っ張って走り出した。露店が並ぶ通りに入り、「うわー…」と感嘆を漏らしつつ商品を吟味する。


 彼女と居ると身分を忘れてしまう。それはナオがレインを人として扱ってくれるからだ。

 彼が一歩身を引いていても、彼女は横を歩こうとする。命令も無ければ、要求も無い。従者、ましてや奴隷を連れて街を散策しているのに偉ぶる様子も無い。


 まるで対等のように話し、接する。


 奴隷の身分は最も低い。


 人権も無く、ただ主人の為に労働する。命令であればそれがどんなに理不尽であろうと厳守しなければ、最も苦痛が伴う呪印による躾が待っている。


 幼少の頃、伯爵に呪術を発動された記憶が蘇った。仕置きをされた理由を、レイン自身は知らない。

 ドラコニスや他の貴族生まれの従者が何か手落ちをして、それを自分の仕業に仕立て上げられたのは薄々勘付いていた。


 その時の激痛と恐怖は深く心に刻まれた。


「レインさん?」


『…ッ』


 ビクっと身体が跳ねる。


 気付けばナオが目の前に居た。雑踏が耳に戻り現実に引き戻される。


『あ…』


「ボーッとして、大丈夫ですか?そう言えば、私の勉強にも毎日夜遅くまで付き合わせちゃって…ちゃんと寝れてます?」


『身体は丈夫な方なので大丈夫ですよ』


「うー…寝れてないって事じゃないですかぁー…」


 ナオの勉強会は日付を跨いで終わる日が殆どで、レインの職務は夜明け前から始まる。

 翌日の準備や雑務で睡眠時間は殆ど無いが、彼にとっては充実していた。


 不満そうに口を結びジト目で青年を見上げる。


「無理はしないで下さいね。疲れた時は疲れたって言って良いんですよ!心配しちゃいます…」


 疲労を見せるなどあってはならない。泣き言を零してはならない。逆らってはならない。


 常識に対して、ナオは逸脱しているように思える。どう説明したら良いだろう。

 自分は本当は、A級冒険者の従者に相応しくない身分である事を。心配などする価値の無い、奴隷である事を。


「そうだ!レインさん!あと1カ所行ってみたい所があって…」


『はい、何なりと仰って下さい』


◆◇◆◇◆◇


「うわーーーッ!」


 ナオが望んだのは西に建てられた時計台の頂上。リンドの街が一望できて、全貌が見える。美しい街並みもそうだが、全てを紅く染める大きな夕陽で彩られ声も出なかった。


 河も街も屋敷も、全てが優しい(かば)色に包まれている。

 街角で遊ぶ子供たちの笑い声が聞こえ、家々から夕食の良い匂いが立ち上っていた。


 ナオが柵から身を乗り出す。危ないと警告するのも忘れて、その後ろで黄昏の街を見下ろした。


「綺麗ですねレインさん!」


『……、』


 世界が屋敷で完結していたレインには、かつて無い衝撃だった。あの時、ドレスのデザイナーが言っていた事を思い出す。この景色に魅入られ、移住も考えたと。

 この絶景にはその価値があると心から思った。


 丘に吹き抜ける風が葉っぱを巻き上げる。目に涙が滲んだ。初めて世界の美しさを知った。


 湧き上がる感情が何なのか分からない。


 琥珀の瞳が潤んでいるのに気付かない振りをして、ナオは薄暮を見続ける。

 此処に来てみたかったのは事実だが、同じくらい彼を連れて来たかった。人から聞いたと話す彼は、あまり外に出た事がないと見て取れた。多忙であるが故か、奴隷であるが故か。


「レインさんと此処に来れて良かったです」


 夕陽を背に此方に微笑み掛ける。


「あとこれ…露店で見つけたんですけど」


 ポケットから小さな袋を取り出した。それをレインに握らせる。


『これは…』


「いつもお世話になってるレインさんに、プレゼントです!」


『ッ!そんなの頂けません』


「良いんです!受け取って下さい!」


『いえ、僕は…』


「私が渡したいんです!」


 数回同じやり取りをして、渋々手を引っ込めた。掌に乗る程の小さな袋には僅かな膨らみがある。


「開けてみて下さい」


 促されて膨らみの正体を掌へ落とす。琥珀色の鉱石を嵌め込んだ片耳ピアスが、太陽の光に照らされて輝いていた。

 ナオを見上げる。こんな品物を貰って良いのだろうか。


「レインさんピアス(ホール)は空けてないので悩んだんですけど、この石は普通の物じゃなくて魔力を溜めてくれるんですって!魔術は苦手って言ってましたが、いざと言う時役に立つかなって思って」


 生き物は無意識にほんの微量ずつではあるが、オドを放出し続けている。

 体内の魔力を溜める容量が一杯になると溢れ出すソレを意のままに操るには確かな技術が必要だ。


 このピアスは、体外へ流れる魔力を代わりに溜める働きがある。


 生まれて初めて人からプレゼントを貰った。自分の事を考えて選んでくれたその気持ちが素直に嬉しい。

 しかし同時に本当に貰って良いのか迷う。


『…ナオ様、僕には勿体ない品物です』


「いいえ、レインさんに似合うと思って私が選んだんです!瞳と髪色と同じ色で綺麗ですし、持っているだけで魔力は溜まるそうですので!」


 オロオロと瞳が泳ぐ。


「いつもお世話になってるレインさんに何かお礼が出来ないかなーってずっと考えてたんです!貰ってもらえませんか?」


 その言い方はずるい。本当なら外に連れ出してくれただけでも、彼にとっては僥倖だった。休み無く働くレインには外の景色は新鮮で刺激に満ちていて、色鮮やかに見えた。

 この偉観も、生涯忘れる事はない。


 レインはピアスを大切に手で包む。


『こんな…申し訳、…… … いえ…有り難う御座います』


「えへへー。此方こそ!」


『大切に致します』


 レインは穏やかに微笑んだ。夕焼けに透ける髪が眩しい。


 ナオは彼がやっと笑ってくれたと感じた。彼女の前では終始笑顔だが、何処か悲しみを帯びているように見えた。

 その表情を目にする度、ナオの胸の辺りはキュッと痛んだ。


 だが先程の笑みには愉悦の念しか含まれていない。やっと彼の心に触れられた。彼女にはそれで十分だった。

 初めて向けられた表情に、また胸の辺りが疼く。ナオは首を傾げた。


『如何かなさいましたか?』


「いいえ、大丈夫です!暗くなってきましたし、お屋敷に帰りましょうか」


『…はい。そうしましょう』


 名残惜しいと思うのは、僭越だろうか。巡った思考を叱咤して姿勢を正す。


 自分の居場所は屋敷だ。今日はたまたま、街に出れただけ。ほんの少し外に出れたからと言って、右手の呪印が消えた訳じゃない。


「でも帰る前に、カイルさん達にお土産を選ぶのに付き合ってもらって良いですか?」


『勿論です、ナオ様』


 まだこの時間が続く。そう思った途端安堵した自分に気付いた。


 ナオとレインは時計台を降り、大通りへ戻る。宵の口、明かりが灯り始めたまだ賑やかな街で土産を選んだ。



 伯爵の屋敷の門を潜り敷地へ入る。


「今日は有り難う御座います、レインさん!凄く楽しかったです!」


『僕も、大変有意義な時間でした。それに贈り物まで頂いてしまって…』


 上着の内ポケットを上から抑えた。


『奴隷は自らの身体に傷を付ける事を許されておりません。それはピアスの穴も例外ではないので、身に付ける事は叶わないかもしれませんが…ずっと持っておきます』


 魔力を蓄積させるには肌身離さず携帯する必要がある。その為この手の魔道具はアクセサリーに扮している事が多いのだ。

 蓄財した魔力の使用には所定の場所に身に付ける条件があるが、溜めるだけであれば所持しているだけでも可能。


 魔物も居ない屋敷でレインが魔法を行使する機会は訪れないとは思うが、折角の初めての贈り物だ。


「喜んで貰えたなら私としては充分ですよ!」


 鼻歌を歌いそうな軽い足取りでステップを踏む。そんな彼女の後に付いて行きながら、土産の入った紙袋を持ち直した。


「すみません、重いですよね」


『いいえ、これくらい大丈夫です』


「うーん、じゃぁ半分こにしませんか?」


 如何やら彼女の中でレインは極度のもやしっ子だ。手を引かれて疾走し、息を乱した辺りから虚弱だと思われている。

 確かに冒険者の彼女と比べると一般人のレインは脆弱だが、年端もいかない少女に労わられるのは複雑だった。そもそも渡り人の彼女が強健なのだ。


 兵士の3倍以上の強さだと謳われるA級冒険者相手には男の矜持など無意味と思われるかもしれない。


 気付けばナオに紙袋が奪われていた。


『ナ、ナオ様…っ』


 せめて荷物持ちくらいはしなくては。今日は何一つ従者らしい事をしていない。


「えっへへーこっちですよ」

 

 悪戯が成功して喜ぶ子供のように、無邪気に笑う。華麗な足運びで扉まで到達するナオに、困った顔で追い掛ける従者。

 その2人の様子を、東館の窓から見下ろす影があった。


「……」


 激情のままに握った拳を窓枠に叩き付ける。犬歯を剥き出しにして憤る影は部屋の奥に消えた。



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