6話【アノーラの魔女】
「そう、なんですか…」
此方の世界は魔力と密接な関わりがある為、誰もが魔法を使用できるものと勘違いをしていた。
思い違いを正し、軽はずみな発言に注意しようと改める。
そんな彼女の胸中など知る由もなく、気にした素振りもないレインは淡々と説明した。
『そんな人の為に作られたのが魔道具だとも言えます』
「なるほど…」
青年は魔道具のティーポットを指す。本来熱を保つには火属性の魔法が必要だ。
ポットの取手に埋め込まれた宝石のような火の性質を持つ魔石と、見えないように描かれた記述式魔法が単身で熱を保つよう働きかけている。
「魔力は電気で、魔道具はあちらで言う電化製品…。原理は全然違うけど、そう思うと分かりやすいです!」
『……ナオ様の仰る世界は、大昔の〈アノーラ〉のようです』
「大昔の?」
聞き返されたレインは歴史書を開いてナオの方に向け指で辿った。
『大昔の〈アノーラ〉は機械化が進み、街も発展して栄えていたそうです』
「そうなんですか!?」
今の〈アノーラ〉で機械と目ぼしい物は帝都でも見ていない。魔法のせいで曖昧だが文明レベルは中世頃だと判断していた。
更に驚くべき事に、昔の方が魔法の力が優れていたと言うではないか。
「何で今は機械が何処にもないのですか?大昔にそれだけ栄えていたなら…」
素朴な疑問に気持ちが早り、目が本の先へ走る。駆けた先に禍々しい邪気を放つ怪物が描かれた挿絵を見付けて、思わず目を止めた。
『名前を言ってはいけない【災厄の魔女】です』
「え?名前を…」
『名前を呼ぶだけで禍が降り掛かると恐れられて、呼ぶ事すら忌避されているのです』
ナオの口から「おお…名前を言ってはいけないあの人、みたいですね」と意味深な発言が飛び出す。彼女の世界にもそのような人物が居る事実に驚きつつ、レインは静かに語り始めた。
世界に暴虐の限りを尽くした魔女。彼女は凡そ800年前に実在した人物である。
太陽を隠し、洪水を招き、人々を餓死させ、強大な魔物を幾多も創り出して蹂躙し、大地の殆どを荒れ地へ変えた人物だ。
その時代、〈アノーラ〉は大いに繁栄を極めていた。特殊なエネルギー資源の発見と高度な技術により機械による開拓や無人化が発達し、街の建物は空高くまで聳えている。
人々は明るく活気に溢れて豊かな生活をしていた。魔物が活発に活動する夜に怯える事もなく、街は絶えず明るく、高度な結界により守られていた。
硬質な乗り物が行き来し、道を滑走する。
今では考えられない世界だった。
その文明の全てを破壊し尽くしたのが彼女【災厄の魔女】である。生きとし生けるモノを憎み、積み上げてきた技術、文明、命、全てをリセットした。
魔女の属性は闇。彼女の創り出した魔物の属性は闇だった。世界を混沌へ突き落とした悪しき魔女の眷属は闇属性。それは人間も例外ではないと、近年も信じられている。
魔女の眷属を根絶やしにする魔女狩りが盛んに行われ、魔女裁判が頻繁に開かれた。
悪しき心を持って生まれると闇属性に堕ちると言い伝えられ、魔女の眷属、闇人と呼ばれ嫌忌されている。
800年経った今でも差別意識は色濃く残り、闇属性の肩身は狭い。大量虐殺の歴史も相俟ってその人数は極小だとされている。
属性だけではない。魔女に関する様々なものが嫌悪の対象。それ程に畏怖された邪悪な存在だった。
「凄い歴史があるんですね…」
『左様で御座います。800年前を境に、〈アノーラ〉の文明は大きく後退しました』
ナオは挿絵を見ながら、ノートにペンを走らせる。日本語で“魔女、怖い人”と書き込んだ後ふと、手が止まった。
「レインさんはその魔女の名前をご存知なんですか?」
本の何処を見ても魔女、としか表記がない。
『…はい。〈アノーラ〉に住む者は幼少の頃には何らかの形で教えられます』
レインの場合は物心付いた頃に母親に教えられた。間違っても名前を呼ばないようにと念を押されて。
「…その、教えて貰えませんか?」
世の誰もが知っているその名前を知らない。それは彼女にとってストレスに違いない。周囲から異質だと認定されては、仲間に迷惑を掛ける。
レインはそこまで考えた後、ナオの前で片膝を突いた。
『…彼女の名前は紙に書くなど形に残す事は恐ろしい行為です。僕は母からこうして、手に指で書いて教えられました。その方法で宜しければ』
「お願いします」
『…では、失礼します』
ナオの手を取って、彼は暫く躊躇っていた。数回呼吸を整えて、意を決し人差し指で文字を書く。
―― “ エ ル ヴ ィ ラ ”
少女は文字を正確に読み取った。
名前を書き終えた青年は、顔色が悪い上に珍しく疲労感が漂う息を吐き出す。
酷な事をさせてしまった罪悪感が募った。
『…回りくどい真似をして申し訳ありません。僕が強い心を持っていれば、口にする事も出来るのでしょうが…』
「いいえそんな!教えて頂いて有り難う御座います!」
【災厄の魔女】エルヴィラ。その名前を頭の中に何度も刻み込んだ。
レインはティーカップが空になったタイミングで飲み物の支度をする。マドレーヌは冷めても美味で茶に合うが、その都度口内の水分を拐ってしまう。
『冷えた物になさいますか?』
「あ…お願いします」
『畏まりました』
数冊の本を広げるナオの後ろで黙々と準備に取り掛かる。
「いやぁ、レインさんが居てくれて助かりました!私1人じゃ行き詰まってしまって」
『【紅の狼】の皆様とは、こういった話はなさらないのですか?』
何気ない従者の問いに、ナオは頬を掻いた。
旅をしている彼らの方が視野が広く的確なアドバイスが出来るだろう。魔術に関しても実技を交えて分かりやすく説明を行える。
「え、へへー…。皆忙しくしてるので、私の都合で引き止めるのも悪いなぁって…。あ!その、レインさんが暇そうだって言ってるんじゃなくて、いつも一緒に居てくれるから付き合ってくれないかなって…思っちゃって…あの、うぅー…」
少女はしどろもどろになって弁解した。
『…いえ、僕の事は構いません。ナオ様に尽くす事を旦那様は望まれておりますので、如何様にもお使い下さい』
ノノア地方は彼女にとって見知らぬ地。知人も居なければ頼るアテもない。今までどれだけ心細い思いをしたのだろう。
知らぬ土地に突然1人で放り込まれる孤独と恐怖を、レインは知っている。
家庭教師を付けて貰ったとはいえ学ぶ事が多く、何処から手を付けて良いのかあぐねた筈だ。何が常識で何が非常識なのか不明な段階で迂闊な質問は出来ない。
それ故に奴隷などに頼らざるを得なくなった。
言葉が羅列されたノートを見れば日々の努力が見て取れる。レインに素性を隠しながらの学習は神経をすり減らしただろう。
何故もっと早くに彼女の苦悩に気付けなかったのか。
『―― …』
「レインさん?」
『…申し訳ありません』
「…え?い、いや…」
キョトンとしたまま目を丸くするナオは、一瞬何に謝られたのか分からなかった。レインの視線を手繰ってやっと、稚拙な書き溜めをした自身のノートの存在を思い出す。
「気にする事ないのに…。レインさんはとても優しい人ですね!」
『…そうでしょうか』
レインは自分が保身に走る、弱く情け無い男だと思えてならない。自発的に何かを行う事もせず、命令をただただ熟すだけ。
最早奴隷である事に違和感は無く、今やそのお陰で衣食住を与えられ生き延びている。
力を持たない者は、搾取されるしかない。抗わず逆らわず、流され、翻弄されるしかない。
『ナオ様こそお優しい方だと思いますよ。とても素直で聡明でいらっしゃるのでこの世界の知識や常識も直ぐに覚えてしまわれると思います』
レインは笑顔を取り繕った。客人に泣き言を溢すなどあってはならない。自分の存在価値は伯爵の役に立つ事であり、それが全てだ。
冷たいレモンティーをコースターに乗せ、ナオの前に差し出す。彼女は「えへへ、素直ですかね~…」と照れた様子で呟いていた。
「私の名前って、両親が素直な子になりますようにって願いを込めて名付けたらしいんですよ」
『それは…』
「まぁ画数の関係で漢字は全く違うんですけどね」
ノートの隅に漢字で【美月 尚】と名前を書き、下の列に【直】と整った字で書いた。それぞれを丸で囲み、複雑な表情を浮かべる。レインは見た事ない文字を興味深そうに見ていた。
「レインさんの名前は、何か意味や願いが込められたりしてるんですか?私の知ってる知識では雨って意味なんですが」
自身に関する質問に、レインは戸惑う。客人にこんな事を聞かれるのは生まれて初めてだった。
『……此方でも意味は雨です。由来は…その』
青年は言いにくそうに口籠る。視線を逸らして気恥ずかしそうにする彼の初めての表情を横目で見て、ナオは胸が高鳴るのを感じた。
『僕の生まれた日は雨が降っていたそうで』
「それでレイン、ですか!」
『いえ、…まぁ、はい。とても穏やかな雨だったらしく、その慈雨のように優しくあれと』
「わぁ!素敵な意味ですね!」
ピッタリだと思った。成長したレインは両親の願い通り、とても穏やかで思いやりに満ちた青年だ。
本当はもっと彼について聞いてみたい。しかし、彼にとって触れて欲しくない地雷を踏み抜きそうで怖かった。ナオにとって馴染みの無い奴隷という身分を持つ青年。
勿論、言いたくない事を無理やり聞き出す趣味はない。だが、そういった話題を含め、聞いたら答えてしまう気がした。それによって自身が傷付いても、躊躇わず教えてくれる予感がする。
奴隷として身分を背負う彼ではなく本来の彼と話をしてみたい。それは率直な、ナオの本心だった。
◆◇◆◇◆◇
図書室からナオを客室に送り届け、戸締りを確認して業務を終了する。その途中、闇の中に何か気配を感じた。
この時間まで仕事がある使用人は居ない。即ち、見回りの騎士か、客人か。それとも――…。
レインは燭台を掲げながら長い廊下の奥を照らそうとする。蝋燭の灯火では全貌を照らす事が出来ずもどかしい。深い暗闇が、ぽっかり開いた怪物の口のようで不気味だった。
『…何方ですか?』
尋ねると動く気配がする。微かな足音が此方に近付いてきた。
息を飲んだレインは、相手が何者か探ろうとする。
屋敷のセキュリティーは万全の筈だ。夜間であろうと兵士が交代で見張りを行っている。
しかし、それを大きく凌駕する術者なら?
近付いて来る足音に向けていつでも魔法を放てる姿勢をとる。
彼はナオに嘘を吐いた。否、真実を告げなかった。
レインは魔法を使う事が出来ないのではなく、意図して使わない。それは彼が闇属性であるからに他ならない。
この事実が露見すれば、奴隷のこの身は容易く破滅する。魔女の眷属として即処分されるか、地下牢へ幽閉されるか、魔女裁判にかけられるか…。
過程に微々たる違いはあろうとも、行き着く結果は廃棄だ。
レインは身を震わせた。
属性が周囲に知れたら、今までのようにはいられない。
彼にとって、平穏に暮らすには隠し通すしか道はない。
ハニーブロンドを揺らして、にじり寄った。今は深夜で周囲には誰も居ない。魔力の乏しい彼が魔法を使用しても目立たない。
静かに呼吸を整えていたレインは、蝋燭の朧な光が照らし出した思わぬ侵入者を見て直ちに魔法の行使を中断した。
『何だ、マルクルか…』
現れたのは1匹の猫だ。ミーアが可愛がってる白猫で、首輪の代わりに可愛らしい赤いリボンが結われている。
足元まで来て餌を強請るように一声鳴いた。
緊張して強張っていた筋肉が安堵と共に解れる。しゃがんで指で喉を擽ってやると気持ち良さそうに目を細めた。
『西館から迷い込んだのか?』
彼にとっては本邸も別邸も自分の縄張りなのかもしれない。
『そういえば君がまだ子猫だった頃、よくお嬢様に探すよう頼まれたな』
苦笑しながら当時を思い返せば、庭の高い木に登って下りられなくなったマルクルを助ける為、ミーアの命令で慣れない木登りをさせられたり、煮干を片手に立ち入り禁止の倉庫に入り込んだりと色々あった。
今では屋敷は安全な自分の住まいだと認識したのか名前を呼べば出て来るのだが、呑気に欠伸をするこの猫の気紛れで何度胃を痛めた事か。
マルクルはレインをじっと見詰めた後、身を翻し夜の闇に消えて行く。しんと静まり返る廊下の奥に目を凝らすが、最初から何も居なかったかのように静寂が満ちていた。