46話【雨】
「……はぁ、はぁ…」
迫り来る落雷をすれすれで回避したクルルは、苦戦を強いられていた。
直撃は避けたものの、高圧な電流を浴びて体が痺れている。服は焦げ、脚には火傷の痕があった。
轟音の度に体が硬直して思うように戦えない。耳を劈く音も、白光りする一瞬の電光も怖くて堪らなかった。
金の立髪を揺らす馬は蹄を鳴らし、次の攻撃に移っている。森を焼き尽くす勢いで放たれる稲妻は容赦なく少女を追いつめる。
嗎と共に空が鳴き出す。大地を揺らす霹靂にクルルは固く目を瞑った。
「…、」
浮かび上がるのは遠い過去の記憶。カミナリは彼女にとって悪夢の始まりを告げる合図だった。
◆◇◆◇◆◇
ファヴレット帝国西部に広がるヨガの大森林でクルルは生まれた。帝国ではレンヨウは泉から誕生すると言い伝えられているが、これは全く根拠のない情報である。
親の顔は思い出せない。しかし、愛情深く育ててくれたのは覚えている。
ある日の黄昏時、クルルは親と共に湖に来ていた。綺麗好きのレンヨウは日々の水浴びを欠かさない。自慢の白い毛並みを整える為に毛繕いも行う。
彼女も見様見真似で拙い毛繕いに精を出した。
両親が目を離した一瞬、クルルは誤って斜面を転げ落ちてしまった。分厚い落ち葉により怪我はなかったが、光が遮断された森の中で独りぼっちになった。
転がり落ちたせいで戻る方向が分からず、匂いを頼りに走り続けた。両親を呼んでも返事は返って来ない。代わりに不気味な木々の葉音が耳に届いた。
雨が降って来て匂いさえ消えてしまい途方に暮れる。他の魔獣から逃げて、獣道を潜り、小川を辿り、あてもなく両親を探して森を長時間彷徨った。
雨足が激しくなり雷が鳴る。けたたましい音が轟き森に落雷が降り注ぐ。近くの木に雷が落ちて、驚いたクルルはがむしゃらに疾走した。
疲れ切って倒れた朽木の穴の中で雨宿りしながら両親が見付けてくれるのを願った。
深夜、茂みから音がして耳を傾ける。両親が迎えに来てくれたのかと淡い期待に胸が膨らんだ。
だが、聞き慣れない音と匂いがして歩みを止める。今まで森で見た事のない生き物が、仲間内で何事か囁き合っていた。
戸惑うクルルを見下ろして、ゆっくり近付いてくる。雷光に浮かび上がった表情に怖気が走る。
逃げようにも遅く既に周りを取り囲まれていた。息苦しい麻袋を被され、必死にもがいているうちに爪が袋を裂く。
袋の穴から飛び出すと、得体の知れない生き物は怒号を上げて必死に追い掛けて来た。
生まれて初めて見た人間は、彼女の目に酷く恐ろしい生物として映った。
逃げ延びたと思った瞬間矢に射抜かれた。脇腹を掠った鏃には毒が塗られており、体が思うように動かなくなった。
呼吸さえ苦しくて、ぐにゃりと眼界が歪んでいく。暗闇に閉ざされる中で聞いたのは人間たちの不快な笑い声だった。
◆◇◆◇◆◇
カミナリとはクルルが大嫌いなものだ。雷鼓を聞くと古い記憶を呼び起こす。
また独りぼっちになるのではないかという恐怖とともに、あの時の人間たちの顔が脳裏に蘇ってくる。
少女は記憶を振り払うように首を振った。
「…レイン」
青年の名前を呟くだけで、不思議と心が落ち着いた。胸に温かい気持ちが溢れて、陽だまりの中に居るように安らぐ。
雷雨の日には決まって寄り添ってくれた。檻の中に手を差し入れて、赤子をあやすように一晩中撫でてくれた。
独りぼっちだった幼獣に手を差し伸べてくれた。
「…負けない、」
彼の愛情に報いる為に、彼が笑って過ごせる未来を作る。これが、命を救われた彼女の存在意義だ。
スレインが人間を守る事を望んだ。それを叶えれずして、彼の隣に居る資格があるだろうか。
クルルは一方的に護られる立場を良しとしない。弱かった少年が自分の為に身を投げ打つ姿を見てきた。だからこそ、彼を守るのは自分であり続けたい。
彼が強くなったのならば、その横に並べるくらいでなくてはならない。1番に頼れる存在でありたい。
「グラシアール・リッカ!」
巨大な氷塊がクルルの頭上に顕現する。手を大きく振ると共に射出されたソレに、馬は真正面から電雷を打ち込む。
力が鬩ぎ合い、氷は粉々になった。
しかし隠されていた2つ目の砕氷が油断していた馬の角へ直撃する。意表を突かれた魔獣はそのまま地へ倒れた。
「はぁ、はぁ…ッ」
膝から崩れ落ちたクルルは、肩で息をする。脚の火傷や腕の傷を治癒して、次にやるべき事に思考を巡らせた。
『クルル!』
突如、声がする。見上げると前方からスレインが現れた。
「レイン!」
青年を満面の笑みで迎える。彼の腕には荷物のようにノエルが抱えられていた。
道中沼に嵌って動けなくなった彼女に出会した時には頭痛がしたものだ。置いて行こうか、とも考えた。
何の為に先に行かせたのかと小言を言いながら救出し、後は文句を言われようと完全無視を決め込んで持ってきた。
ノエルを放すと「ふぎゃ」と情けない声を上げて地面にへばりつく。
彼女が怒りだす前にクルルに歩み寄った。
『雷は大丈夫だったか?』
「ん」
コクリと頷いた少女の服には激しい戦闘の跡が読み取れた。
『誰?』
「?」
『お前をこんなにした奴…ぶっ殺してやる』
クルルの白い肌には擦り傷が幾つかある。逆に綺麗すぎる所には傷があったと思って良い。
スレインは親のようにクルルの体の状態をチェックする。痛む場所がないかと頻りに気にした。
憎悪に燃え上がる青年に「大丈夫」と勝者らしく誇らしげに告げる。
そう言う彼女の後方には気絶し横たわる大きな馬が居た。
「これ…五大神獣の麒麟じゃないですか!」
『神獣…』
「ん、強かった」
魔女教が大平原に撒き散らした毒水に五大神獣が巻き込まれているとは思わなかった。
五大神獣、黄神エクースは白い体に黄金の立髪を持つ四足獣だ。
稲妻型の角は魔力の結晶であり、性格は気高く誇り高い。後脚の蹴りはケルピーさえ一撃で殺すと言われている。
「だから天気が荒れたんですね…。彼らは雷雲を呼ぶとされていますから…」
『関係ねーよ。息の根を止めて馬刺しにしてやる』
クルルを傷付けられ怒り心頭の彼に、最早言葉は通じなかった。ククリナイフを引き抜き、この上ない悪い顔で美味い部位を見定める。
「ちょ、相手は神獣ですよ!?罰当たりですッ」
『はぁー?』
すると騒がしさに耳が動き、倒れていたエクースが目を覚ました。状況を把握する為に周囲を窺う姿は、先程までと違い理性的に見える。
『テメーよくもクルルに…』
間髪入れずに馬刺しにしようとするスレインの腕をクルルが掴んで止めた。
「スレイン待って」
少女を視界に捉えた神獣は身を起こす。ゆっくりと近付き首を垂れて見せた。
気難しい性格の彼らの中で最上級の敬意を表す動作だ。
「感謝申し上げる」
「しゃ、喋った…!?」
仰天したノエルは改めてエクースを見つめる。
神獣と呼ばれるに相応しい神々しい容姿に、爛々と絶えず輝く角。風に流れる立髪はリングで縛っていても燃えているように揺らめいている。
声は直接脳に語り掛けるような念話だった。
「忌々しい人間に思考を操作されていた。君のお陰でやっとレジストする事が出来た」
お礼を言われたクルルはスレインに視線を向ける。聞いた?聞いた?と尻尾を振ってそわそわしていた。
スレインは手を少女の頭に乗せ、ゆるゆりと動かす。ゴロゴロと喉を鳴らして愛撫を受けるクルルは手に擦り寄った。
『そーいやぁ、その忌々しい人間ってのは殺したのに他の魔物は正気を失ったままだな…』
「恐らく根本の原因を破壊する必要がある」
『根本って言やぁ…』
「魔女が渡したという、石ですね」
今から研究所に戻る時間はない。バルティアや他の魔女教徒が所持していたとしたら、捜索には時間が必要だ。
『戻ってらんねーな』
「でも、魔物をどうするんですか?200を超える大群…殲滅は夢のまた夢ですよ」
スレインたちの会話にエクースが割って入る。
「……察するに、君たちには先を急ぐ訳があるようだ。頭に響いた忌々しい声が言っていた方角に仲間が居る…そんなところか…?」
答え合わせをするように言う神獣は、改めてクルルに顔を向けた。
「今回の礼に1つ願いを聞き届けよう」
「…」
少女はスレインとノエルに確かめるように視線を動かし、静かに頷いた。
「へいげんの入り口に行きたい」
◆◇◆◇◆◇
クルル、スレイン、ノエルの順に麒麟へ乗ると、黄神は力強く蹄で地を叩いた。すると上空へ跳び上がり、それ以降ずっと空を駆けている。
「凄いですね…!空を飛べるなんて…」
「正確には飛んでいる訳ではない。魔力の盤上を空に築き、そこを足場にして走っている」
本当に飛んでる者が身近にいるのを忘れているノエルに、スレインはツッコミを入れるべきか悩んだ。
「あれ!」
横向きに座ったクルルが指差す先に休憩所が見えた。モーデカイ、グランベルド、シモンたち全員揃っている。森から溢れ出した大量の魔物を見て、騒めいているようだった。
「先の闘いで我の魔力は少ない。洗脳に抗うのも骨が折れた。後は役に立てないぞ」
『ハッ。元から期待してねーよ』
「フン。妙な人間も居たものだ。貴様は一体どっちなのだろうな…?」
『どーいう意味よ』
青年を無視してエクースは速度を上げて降下する。休憩所と森の間の平原に降り立った。
「ありがと」
律儀に送ってくれた馬の立髪を撫でてクルルが滑り降りる。重力に逆らって着地し、迫り来る魔物たちを見据えた。
「…また会える事を願っている」
大きく嘶いたエクースは尾を翻す。地面を蹴って空へ飛び上がり、再び平原の奥地へ姿を消した。
暴走した魔物が津波のように押し寄せて来る。
休憩所ではモーデカイと彼の仲間たちがスレインたちに向けて「逃げてくれーー!」「あの魔物の数が見えねーのか!?」と声の限り叫んでいる。
『アイツら元気だな。…クルル、大丈夫か?』
神獣同士の力のぶつかり合いに疲労していない筈がない。スレインはクルルの体調を心配して横目で窺う。
すると安心させるように少女は青年の手を握り、微笑んだ。
「大丈夫、任せて」
『分かった。…溢れたヤツは俺が殺す』
「ん」
少女を中心に蒼い魔法陣が描かれた。足元と頭上、更に上空。
目を凝らしていたシモンが眩しそうに皺々の目を細める。
モーデカイが「嬢ちゃん…!?何を…」と溢した。
グランベルドの長髪が風に揺れる。
逃げ惑っていた若い御者たちは繰り広げられる大魔法にただただ圧倒された。
「グラキエース・パラミア・リッカ」
縹色の双眸が強い意志を持って開かれると、その瞬間高位魔法が行使された。
クルルの目前から大平原の奥地に至るまで、彼女の生み出した氷塊により厚く覆われた。一見氷山が噴き出したのかと見紛う光景に、見ていた者たちは言葉を失う。
目前まで迫っていた魔物たちは氷結し、完全に動きを止めた。
やっと状況の整理がついた誰かが「た、助かった…」
と尻餅を突くと、各自実感が湧いたのか歓声が巻き起こった。一度は死を覚悟したが、まだ生きている今に歓喜する。抱き合い、涙を流して喜びを分かち合った。
「こんな事やってのけちまうなんて…!」
「あの数の魔物を一個の魔法で淘汰しやがった!」
抑えきれない思いで、新人の冒険者たちに駆け寄ろうと休憩所を飛び出した。
そして先程まで降っていた雨が上がっているのに気付く。雲が流れて、空には晴れ間が覗いていた。
「フィン大平原の止まない雨が…」
「嘘だろ…」
「晴れただって?」
たったの1度も止んだ事のない雨が止んだ。それは彼女が大平原の芳醇な水のマナを使い尽くした事による一時的なものだが、フィン大平原の歴史を覆す奇跡だった。
雲間の光が降り注ぎ、大平原に初めて太陽が差す。氷に覆われた大地はキラキラと光を反射させ様々な色彩に彩られた。
その美しい景色に、眺めている間は呼吸さえ忘れた。
『流石、俺のクルルだな』
「レイン…!」
堪らず飛び付いたクルルを優しく受け止める。いつもなら重さを感じさせないよう気遣う彼女だが、この時ばかりは浮くのを忘れていた。
スレインにとってクルルの体重などあってないようなもので、だが今はその重みが心地良かった。
穏やかな風が包む平原。モーデカイが遠くで手を振り何事かこちらに向けて叫んでいる。
クルルの魔法に大興奮した御者が走って来ていた。
「行きましょうか」
ノエルが笑って皆の元へ歩き出す。スレインとクルルは目が合うと互いに破顔して額を合わせた。