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12話【アップシート】



『――う…』


 目が醒めると見慣れない天井があった。

 女神が降臨している壮大な宗教画が大きく描かれており、その美しさに圧倒される。芸術に見識のないレインでも、一目で価値があるものだと判断出来る。年月による劣化で掠れているがその神々しさは微塵も霞んでいなかった。


 意識が覚醒し弾けるように起き上がる。体に掛けられたローブに視線を落とし、見覚えあるソレに、ある人物の顔が浮かんだ。


『ナオ様…?』


 周囲を見回して彼女の姿を探す。背負っていた荷物は隣に置かれており、畳まれたタオルが枕になっていた。


「レインさん!気がつきましたか!」


 明るい声が降って来る。吹き抜け筒状のホールの2階に居たナオが手摺から身を乗り出した。


 立ち上がろうと踏ん張ると、地面が僅かに傾いていると気付く。

 2階から飛び降りた彼女は軽々と着地し、蹌踉たレインを支えた。


『有り難う御座います。…その、何があったんですか?』


「……恐らく、何処かに転移させられました」


 魔法が当たり前に使用される〈アノーラ〉でも空間転移など、神の未技とも言うべき大魔法だ。

 大昔は一般的に使用されていたが、現代では使える人物は居ない。


「建物の材質は同じですし、水に白木蓮の花弁が浮いているのでナタリア遺跡の中…だとは思うんですが…」


 地下通路を進んでいた筈が、巨大な建物の中に居た。

 円柱状の建物で天井画が見下ろしており、至る所から水がチョロチョロと流れている。流水は傾きに従い崩落した外部へ流れていた。

 

「外を見てみましたが、水で行手を阻まれてました。真っ暗なので泳いで出口を探すのは危険です」


 遺跡には人工的な照明が設置され視界は良好だ。照らされる水も澄んでいる。

 しかし、足場と同じ高さまで迫っている水面を辿れば果てしない闇の世界が広がっていた。

 足元を覗くと、嘗てこの場所が背の高い塔だった名残がある。崩れた足場から下の階層が確認出来た。

 

 長年に渡り湖の底に沈んでいる古代遺跡の老朽が窺えた。後数年もすればこの場所も湖水に飲み込まれるだろう。


 レインたちが居るのは地下の地下に存在した、浸水する都市だと思われた。


『他の方々は…』


 周辺を捜索したが見つからなかったナオは静かに首を横に振る。

 未知の場所でのパーティーの分断は致命的だ。


「私たちと同じように違う場所に転移していると思います」


 不安そうなレインに向けて、ナオは「皆強いから大丈夫ですよ!」と笑って取り繕う。


 レインは上を見上げる。高い天井にダンスホールのような丸い広間。

 ナオの説明によると2階は柱が倒壊して通路を堰き止めており探索は進んでおらず、3階はギャラリーがあるらしい。


「残るは…」


 ナオがゆっくり振り向くそこに、長く大きな扉があった。


 ナタリア遺跡において、罠があるなどの情報は無い。此処は地元の冒険者も来訪するB~C級向けの古代遺跡の筈だ。

 古代魔法を使用した人為的な罠があるなど、ランクを引き上げる必要がある。


 本来のナタリア遺跡とは、階段を降り続けた先にあるフロアと通路を含む5つのブロックの事だった。

 それ以外の道は崩落により通行不能で、手頃な広さに加え、棲み着く魔物は低位魔物が多くB~C級の冒険者向けだとされている。


 黙考するナオの頭上から異形の魔物が飛来した。


『ナオ様ッ!』


 蜂のような見た目で蝙蝠の羽を持つソレは、顔面の中央から縦1列に眼が3つ付いている。大きな顎で腹が括れており、尻は肥大し先端に鋭利な針が見えた。


 気付くのが遅れたナオが振り向き様に突進を回避する。


 今まで彼女が出会った事も、聞いた事もない魔物だ。

 闇属性バイアクター。水辺付近の洞窟に棲息する飛甲虫。


 バスケットボール程度の大きさだが素早く飛び回る。

 針を刺そうと尻を突き出す。針は人間の小指の太さで鉤爪のように鋭い形状にゾッとする。


 防戦を強いられるナオの動きはぎこちない。チームでの護衛は兎も角、1人で護りながら戦闘するのは慣れていなかった。

 加えてスケルトンとの攻防で魔力を消費している。もっと配分を考えて魔法を使用していたらと後悔した。


 バイアクターの高速飛行はナオでも目で追うのがやっとのスピードだ。

 甲虫が突き出す毒針を、魔法で作り出した盾で防ぐ。


「くぅ…、重い…っ」


 一撃を受けるだけで手が痺れた。


 通路の奥から、微な羽音が耳に届く。新手の予感に「レインさんこっちへ!」と叫び手を差し出した。


 ナオの方に手を伸ばしたレインは目を見開く。ナオの背後に一際大きなバイアクターが迫っていた。


『ナオ様ッ!!』


「――ッ!」


 咄嗟に身体を捻ったナオの腕に針が掠める。痛みに顔が歪み、甲虫へ向けて手を翳た。


「ラピュセル…!」


 少女が声を発した瞬間、足元に魔法陣が浮かぶ。強烈な光を発して、2人を包むドーム状の結界が生まれた。

 バイアクターの攻撃を跳ね返すのを見届けて、ナオが初めて膝を突く。


『大丈夫ですか!?』


「…っへへ…、しくじっちゃいましたね…」


 少女の顔色が悪い。腕を切り裂いた傷は深くないが、赤く腫れていた。

 急いでネクタイを外したレインは、それでナオの腕をキツく縛る。他にも使える物を探して、背負っていた荷物を漁った。


 そうしている間に彼女の身体の力が抜けていく。座っていられなくなったナオが、青年の胸にすっぽりと収まった。


 焦燥に駆られるレインに向けてナオが口を動かす。


「…あそこ、に…扉があります。この結界も…長く保ちそうにありません」

 

 合計で3匹のバイアクターに囲まれていた。結界に何度も針を突き立てており、今にも崩れ去りそうだ。


「合図をしたら、扉に向かって…全力で、走って下さい。虫は私が引き付けます」


『ナオ様…?何を…』


 毒に侵された苦痛に眉根を寄せ、ナオが呻く。


「実は体が痺れて力が入りません…。視界もぼやけてきました。レインさんだけでも…」


 彼女が指差した先には例の扉があった。


 結界が綻びた隙間から針をねじ込む虫を視界に入れ、「迷ってる暇は無さそうです」と青年の決心を促した。


『…嫌、です』


「!」


 初めてレインが彼女の頼みを拒否する。その声は震え、少女を抱く手に力が入った。

 

『例え、それが命令でも…、…』


「…ッ、結界が壊されます!…お願いですから、此処を離れて下さい!今がチャンスなんです…3匹とも結界しか見てません!」


 レインは内ポケットに入れていた、いつかナオから貰ったピアスを掌に取り出して、握り締め――罪を犯す。


「レインさん…?」


『…ッ、』


 穴の空いてない左耳に無理矢理ピアスを刺し、血が流れる。

 ――奴隷が自らの身体に傷を付けるのは禁止。以前彼が言っていた言葉がナオの頭に蘇る。


 これによりナタリア遺跡から生還を果たしたとしても、裁判に掛けられる。


 ――それがどうした。


 弱い精神を叱咤する。腕の中で浅い呼吸を繰り返すナオに視線を落とした。彼女がこうなったのも、足手纏いが居て気を取られたせいだ。

 奥歯を噛み締め、勇気を奮い起こし喉を鳴らす。青白いナオを寝かせ立ち上がる青年の瞳は揺れていた。


「レイ…、さん…」


 意識が朧な少女が最後に見たのは、怪物と自分の間に立ちはだかる従者の背中だった。


 ナオが気を失ったその瞬間、綻びていた結界が跡形もなく、硝子が割れるように消え去った。


 四方からの刺突を受ける。やっとの事で回避出来たのは1匹の攻撃のみで、腕と肩に毒針が刺さった。毒をくらった以上、持久戦は不利になる。

 構う事なく床へ飛び込むと、風を切って虫の大きな顎が髪先を通過した。


 料理に使用するダガーを握り締め、冷静に考える。動きが早過ぎてバイアクターを捉えきれない。


 ピアスのお陰で、以前より使える魔力が増幅しているのを感じた。しかし、長年に渡り属性を隠す生活をしてきた彼に使える魔術はない――かに思えた。


 奴らを一網打尽にする方法。不意に頭に浮かんだ強烈なイメージを言葉に乗せる。


『ブライアー!』


 突如出現した幾重もの黒い荊棘が甲虫を絡め取り、3匹纏めて拘束した。

 蜘蛛の巣のようにピンと張った蔓に拘束され、飛甲虫は突然の現象に鳴き叫ぶ。

 

「ギィイイーーッ!」


「ギギィ」


 バイアクターは踠き逃れようとするが、荊棘の棘は深々と突き刺さっている。

 甲高い悲鳴を上げて身を捩る3匹に、恐る恐る忍び寄る。


 捉えている荊棘は花や葉は皆無で黒一色。禍々しいとさえ感じる闇の力。

 逃げようと動く度に鋭利な棘が食い込み、バイアクターは悶え苦しむ。


 その苦悶の様子に見覚えがあり、レインはハッとした。

 幼い頃、薔薇の棘に刺され生死の境を彷徨った事がある。


 赤黒く美しい薔薇で、皇帝の叔母が最も好んだ花だ。お陰で貴族は挙ってこの花を育てていた。

 美しい華には棘があり、その棘には悪辣な毒があった。取り扱いは慎重に行われ、剪定や刺抜きは奴隷にさせる貴族が殆どだった。


 召使時代、屋敷の温室で育てていた毒薔薇の棘を、貴族生まれの同僚に面白半分で腕に押し付けられた記憶が蘇る。途端に巡った悪毒により体内の血液が爆ぜた。

 アビリティにより僅かに症状が軽減され死は免れたが3日3晩睡眠の間もなく苦しみ続け、昏睡から目が覚めたのが7日後の朝だ。


 この荊棘はレインの悍ましいトラウマが、そのまま形になったようなモノだった。鋭利な棘に身震いする。


「ギィ…イイー」


「ギャギャギャ」


 拘束から抜け出そうと、発達した顎で荊棘に噛み付く。体から血液に似た汁を垂れ流す様は見るからに痛々しい。

 鳴き叫ぶバイアクターに目を移し、そっと閉じた。毒針に注意しながら固い頭部に向けてダガーを振り下ろすが、硬質な殻に弾かれる。


『う、…っ』


 苦虫を噛み潰したように、レインは眉を顰めた。楽にしてやりたいのに、力が足りない。今度は縦に並ぶ複眼目掛けて、ダガーを思い切り振り下ろした。

 バイアクターは次第に動かなくなり事切れた。深々と刺さったダガーを引き抜き、肩で息をする。


『はぁ、…はぁ…、』


 じっとりと額に滲んだ汗を袖で拭う。


 貴族の儀式、決別(アップシート)を体感して、得たのは誇りでも達成感でもない。


 虫を締め付けていた荊棘が闇に溶けるかの如く消滅した。ごっそりと魔力が失われる感覚。


『、…はぁ…ハァ……』


 初めての魔術。それは一般的には感動で打ち震えるものだが、彼にとって自らを闇属性だと強く自覚させ、ただ酷く落胆した。


『…、ナオ様…』


 疲労する体に鞭を打ち、倒れたままのナオに駆け寄る。症状は悪化し、高熱を発症していた。毒素を少しでも取り除こうと傷口を口に含む。毒と血液を吐き出し、それを数回繰り返した。

 傷を洗い、リュックの奥深くに入れられた毒消しを探す。


 ――応急処置を行なっている最中、背後から声が聞こえた。


「貴様!俺のナオになにをやっているんだ!?」


 縦長の扉からディーリッヒが飛び出してくる。続けて彼女の仲間の姿も。

 ホッと安堵した――のも束の間、伯爵家の息子は奴隷を蹴飛ばした。


『ッ!?』


 水飛沫を上げて不様に倒れ込み、呆然としながら起き上がる。何が起こったのか分からず、目の前がチカチカした。

 ディーリッヒはナオを抱き寄せ、彼女に数回呼び掛けた後、敵意の篭った視線でレインを一瞥した。


「何をするつもりだッ!このケダモノがぁ…ッ」


 彼の言っている意味が掴めず、ただ唖然と眺める。そこにカイルとアンモスが揃い状況を確認しようとしていた。


「おい、ナオ…!」

 

「気を失ってる…。何があったんだ?」


「この奴隷がナオ殿を襲っていたッ!俺が助けなければどうなっていたか…!」


 ディーリッヒの発言を受けて、一斉にレインに視線が集まった。

 意識のない少女の腕は肩から大きく露出している。処置を優先しレインが服を裂いた為だ。

 彼女の白い腕には一筋の赤い裂傷が見受けられた。


『誤解ですッ!僕はただ…!』


 彼女を助けたい一心で無我夢中だった。


「2人きりになったのを良い事に襲ったのだろッ!?」


『違います!』


 カイルが「ナオがこんな奴に後れをとるなんて有り得ないが…」と険しい顔をする。

 

『…、魔物に襲われて…ナオ様は守って下さって…』


「…その魔物とやらは何処に居るんだ?」


『ッ!?』


 振り返り確認するが、トドメをさした魔物が居ない。水に押し流されたとしても浮いている筈だ。


 とうとうレインは言葉を失う。どうして良いのか分からず、頭はひたすら混乱していた。


「どうせナオ殿なら上手く出し抜けるとでも思ったのだろう!?」


「普通の魔物にナオがやられる筈がない。信頼してた奴隷の裏切りを受けない限り…」


「お前の腐った性根は分かったぜ…。大人しそうな顔して、機会をずっと狙ってやがった訳かァ?…まさか、屋敷から逃げようと計ってやがったのか?」


 カイルの視線はレインの足元に落ちているダガーに固定されている。

 ディーリッヒはナオを傷付けたとレインを非難し、アンモスは計画された奴隷の逃亡未遂だと信じて疑っていない。


「その返り血はナオのものか?」


『!?』


 耳にピアスの針を刺した際の流血が、彼の左頬に付着していた。


「言い逃れは出来ねェな」


『違います…!これは、僕の…』


「嘘吐くんじゃねェッ!」


 アンモスの一喝で、レインは言葉を飲み込んでしまう。長年に渡る奴隷生活の悪癖だった。


 思い付いたように悪い笑みを浮かべたディーリッヒは「どうせなら、簡単に始末するのではなく…今まで俺が受けた苦痛をじわじわと味あわせて後悔させるべきだ」と目を細める。


「………そうだな。ナオはコイツを信頼していた…裏切られたと知った時…さぞショックだっただろう」


 カイルの瞳に冷徹な光が灯った。仲間を襲われて心中穏やかではない。

 アンモスは何も言わず、地面に置かれていた大きな荷物を背負う。


『ぁ…っ…』


 座り込んでいたレインは、荷物持ちの役目を思い出し焦った。客人に荷を持たせるなど、あってはならないと染み付いた奴隷の精神が騒ぐ。


「――行こうぜ」


 カイルとディーリッヒを促したアンモスが扉に向かって歩き出した。

 言うまでもなく、レインは地べたに座り込んだままである。


『…ぁ、の…』


 最悪の予感がした。

 遠去かる3人の背中に縋るように、手を伸ばす。


「ははは!未練がましいぞスレイン!」


「幸い水はたっぷりあるようだ。死ぬまで大体60日ってところか?」


「餓死はさぞ苦しいだろうなァ」


 同情しているようで、全くしていない声色。


 ディーリッヒはその処置に満足し、扉を施錠するよう2人に命令した。

 両開きの扉が閉められていくのを、ただ眺める事しか出来ない。


 大きな絶望の音がして、唯一の出入り口は固く閉ざされた。


 抗わなければ、と本能的に体が動く。一拍遅れで扉に駆け付けた。押しても引いても開かない扉を前に、置いていかれたという実感が湧く。


『せ、説明をさせて下さい!』


 拳で扉を叩き、必死に声を張る。


「黙れ薄汚い奴隷の分際でッ!」


 ディーリッヒの声がした。まだそこに居ると僅かな希望が芽生え『お願いですッ』と懇願する。


「……今、扉に噛ませる手頃な板を2人が取りにいっている」


『板…』


 それがされれば、本当に終わりだ。


『ディーリッヒ坊ちゃん…っ』


 悲痛な声で訴える。


「…くっくっ…良い気味だぁ」


『…ッ、…』


 身の毛もよだつディーリッヒの声に言葉を無くす。顔を見なくとも嗤笑しているのが分かる。


「…本当のところ、お前がナオ殿を襲うとは微塵も思っていない。そんな度胸お前なんかにないだろ?」


『どう、いう…』


「分からないか?俺はお前が昔っから気に入らなかった――スレイン」


 スペトラード伯爵家、次期当主の唇が綺麗な弧を描いた。鋭利な言葉が突きつけられる。


「…今回のアップシートにお前が同伴する事になったのは、俺が父さんへ頼んだからさ。――何故だか分かるか?」


 思わぬ告白に瞠目した。ディーリッヒ自身が、自分の大事なアップシートにレインの同伴を望んだという事になる。

 この先は聞かない方が良いと分かっていながらも『…何故、ですか?』と口が勝手に動いた。


「決まってるだろう?目障りなお前を始末する為さ!ナオ殿と俺の仲を妬み、ウロウロと見苦しいッ!」


『――ッ』


「この手で殺れないのは残念だが、…まぁ良いだろう。精々苦しんで死ね!ははははっ、はーっはっは!」


 淀みない喜悦を含んだ高笑いに脚の力が抜ける。閉ざされた扉の前で、レインはゆっくりと崩れ落ちた。目を見開いたまま放心する。


 板が嵌め込まれる重々しい音がした後は「じゃぁな」の一言で、一切の音がついえた。

 

 遺跡に、置き去りにされた――。どうする事も出来ない残酷な現実に心が押し潰される。


 聞きたくもない、風を切る羽音がした。後方を5匹のバイアクターに囲まれている。

 息を潜めていた魔物が獲物を狙って降りて来た。


 魔力は欠片も残っていない。たった一回の魔術で全て使い果たした。

 レインは立ち上がり虫へ向き直る。


 尻の先をぼんやり静観し、針を刺され動けなくした後は、ゆっくり生きたまま(はらわた)を食われるのだろうか、と他人事のように考えた。


 何もかも、全ては無駄だった。

 努力も奉仕も、総て無意味なものだった。


 ――奴隷としての生に意味など無かった。蔑まれ避諱され、挙句には遺棄された。


『…』

 

 打ち拉がれ目を閉じたその時、地面が震えた。足元の石片が小刻みに振動している。

 揺れは次第に大きくなり、水面に波を作った。唸りを上げた荒波がぶつかり合い巨大な渦道が出現する。


『なん、だ…?』


 尻餅を突いたレインの前に、1匹のバイアクターはここぞとばかりに襲撃した。

 殺られると覚悟したが、予想は大きく裏切られる。


 湖水から顕現した巨大な龍が、目にも止まらぬ速さで飛甲虫を飲み込んだ。水が雨のように降り注ぎ、レインを濡らす。

 思わぬ奇襲に他のバイアクターは逃げ惑い、白い水龍から距離を取る。


 首を出した龍を見上げ、唐突に消えた甲虫の死骸の謎が解けた。水に浮いていたバイアクターは傾きに従い流れ、湖水に潜んでいたこの水龍に1匹残らず食われたのだ。


 龍の鱗はヒュドラのように細かく光沢がある。鰭は長く、まるで帯のようだ。

 真紅の瞳に、固いバイアクターの身体をもろともしない硬質な牙を持つ。


 飛び回る甲虫に狙いを定めて噛み付き、砕いて飲み下す。

 残酷な食物連鎖を目の当たりにして、恐怖で足が竦む。


 バイアクターを平らげた水龍はレインの存在に気付いた。

 ドラゴンのような瞳孔が細まり、咆哮が耳を劈く。


『…っ…、』


 耳を塞いでも聞こえる地を揺らす程の哮り。座り込んでいた身体が勝手に動く。弾けるようにその場を離れ、遺跡の陰に隠れようとする。

 手放した筈の生存本能が、真紅の瞳から逃れろと叫んでいた。


 彼が居た場所に龍の顔が突っ込む。ガラガラと石壁が崩れ、その破壊力に一度でも捕まったら終わりだと悟る。

 水龍の尾が横凪に払われ、レインの腹部を直撃した。背を壁に打ち付け、意識が途切れる。


 巨体が暴れ建物の均衡が崩れた。

 水龍は動かなくなった獲物を貪ろうとするが、ゆらゆらと建造物が揺れ、上から石煉瓦が落ちて来た。


 女神を描いた天井画の中央に穴が空く。1つが落下したら後は支えを無くした積み木のように瞬く間に崩落し、土埃を舞い上がらせ全て水の中に消えた。


 遺跡の崩壊に驚いた白龍は水中に潜る。龍が発生させた激しい荒波に、レインの身体は飲まれて見えなくなった。



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