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「ふえいぃぃぃぃ~~」
湯けむりに白くかすんだ湯船のどこかその辺で、月島のたるみ切った声がする。
大丈夫かあの野郎。往年のびしっと決めたホストの風情が、既に失われて久しい。もうただの疲れたおっさんになってないか? やっぱ連れてくるんじゃなかった。
普通の友だちみんなに声を掛けたんだが、こういうとき、優等生とかリア充はめっきり冷たい。早くも受験臨戦態勢だったり、はたまた俺に近寄ると女運がすり減るとかで拒否られた。かと言って一人だと、また白鳥先生に罵倒されちゃう。で、いやいやながら月島に打診したってわけ。
やつも、スキーなんてオワコンはまっぴらごめんだ、とごねていたが、先生からゲットした豪華温泉旅館の宿泊券をちらつかせたら豹変。ほいほいついて来やがった。(ちなみに、あの渋ちんの先生が宿泊券くれるなんて、俺史上、最大級の驚きだが・・・なんでも、南高勤務時代の同僚のおばちゃんが、旅館関係者の親戚か何かで、よく券をくれるんで余ってるんだと。そんなことだろうと思いました。)
ローカル線を乗り継いで一時間半。温泉駅から歩いて五分で、もうスキーリフト。超便利。これだったらもう、県民全員、毎日来いよ。そしたらすぐ赤字解消じゃね?
とは言うものの、実のところ今年は記録的暖冬で、年末からこのかた、梅雨かよっていうぐらい毎日雨が続いている。一月に雨とかまじですか。スキー場でも地肌があちこち見えているくらいで、もちろん休業していた。はあああ。これじゃ客集めどころじゃない。もうダメぽ。こうなったら、せっかくだから温泉にでも入って癒されるしかないっしょ。・・・まあネットで雪の具合を事前確認しなかった俺も俺だが、どうせ今回は温泉メインだったからな。
しかしやっぱり温泉は良いねえ。・・・俺も月島のことは言えないな。おじさん化が加速する。
棚田式に段差がある造りの、広~い湯船でふぃ~。ちょいと露天風呂に出たら、夜の雨に当たってふぃ~。戻ってきてまたふぃ~。ミカのことを想うたびに毎度ズタズタになる俺のかわいそうな魂に、ふぃ~の三連発が、心地よく染みてゆく。このままふぃ~に包まれて、私は雪だるまになりたい。温泉卵でもいいけど。
悪天候のせいか客もまばらで、もう貸し切り感が半端ない。それに、この大浴場において、時空が歪んでいるのはほぼ間違いない。だって、月島との会話に掛かるラウンドトリップタイムが、通常の100倍ぐらいに遅延しているのが観測されるのだから。例えばこんな具合。
「山本く~ん。あのさ~」
間。十秒ぐらいか。
「なに~」
間。
「あのさ~。ばあちゃんが、昔、言ってたんだけどさ~」
間。以下同文。
「なにを~」
「あのさ~。温泉好きなじじばばってさ~。温泉、朝から晩まで、何回も何回も何回も何回も何回も入るんだよね~」
「へ~。そ~なんだあ~」
「それでさ~。からだじゅう、あっちこっち全部、めっちゃめっちゃめっちゃめっちゃ痛くなるんだってさ~」
「え~そ~なんだ~。だいじょ~ぶかそれ~」
「それがさ~。それが、正常なんだってさ~」
「まじですか~」
「っていうのもさ~。温泉ってさ~。自己治癒力。セルフヒーリングぱわ~っての? そういう力をさ~、ぱわ~あっぷするんだってさ~。だからね~。最初、あちこち痛くなるんだって~。それでさ~。その後、徐々~に回復するんだってよ~」
「へえ~そ~なんだ~。まじでかあ~。じゃあさ~。俺のイタイタの心も、そのうち徐々~に回復するかな~どうかな~」
月島はか~っか~っか~っか~っか~っと笑って、
「ははは~。そりゃ無理ゲ~だろうな~。山本くんは、一生、十字架背負って行けよ~。ちなみに、僕のイタイタの心は、すみやかに早期回復するけどね~はははははは~」
「はははは~死ねよ~はははは~」
*
はああ。やっぱり癒しが足りなかった。それともじじい化が進み過ぎたか? まだ薄暗いうちに目が覚めてしまった。月島は腹が立つほど熟睡している。くそ。俺の苦悩の方が百万倍深遠であることの、何よりの証明だな。
温泉が足りてない。治癒力が足りてない。再補充しよう。もそもそと起き上がって、大浴場へと向かう。ちょっと早いけど、もう入れる時刻のはず。長い廊下を歩いていくと、ちょうど夜が明けて、窓の外がさあっと明るくなった。峡谷と川、赤い鉄橋。絶景です。そして、なんと一面の白。夜の間に雪になったらしい。今日は滑れますかね?
廊下の突き当たりが大浴場。・・・あれ? 浴衣姿のひとが、前を歩いていく。何となく、後ろ姿に見覚えが。はは。バカだね。俺もいよいよ煮詰まったぞ。道行く女性が、全部ミカに見えちゃう。・・・え? でも、あれって、確かに――。
そのとき、彼女が大浴場の入口で立ち止まった。なにげなく振り返ってこちらを見た。そして、幽霊でも見たかのように凍りついた。その顔から一瞬血の気が引いた。手にしたバッグを危うく落としかけた。それから、さっと入口へ飛び込んで消えた。
*
どうしようどうしようどうしよう!? どうすんの俺?
ミカには二度と会えないと思っていた。絶交のまま、この街を発ってしまうと覚悟していた。だけどここにいた。ミカがいた。このチャンスを逃すくらいなら、ここから窓を開けてそのまま川へ飛び込むっ。
だけどどうしたらいい? 嫌がられるかも。拒否られるかも。それでもいい。それでも構わない。とにかくここで待って、待って、待ち続けて、出てきたら土下座して謝る。泣いて謝る。鼻水たらして謝る。せめてミカが旅立つ前に、謝って謝って謝って、謝り倒してお許しを乞う。せめてそれだけはするんだ。たとえ許してもらえなくても。たとえ――許してもらっても、それが、なおいっそう辛いだけだとしても。
俺は待った。
そして気づいた。
入口の木の看板。黒々と――「男」。
*
隣り合った二つの大浴場は、朝夕で男女入れ替え制。ミカが飛び込んだ方は、ゆうべは女湯だった。今朝は男湯になってる。なあんだそうか。ミカって、ああ見えて、けっこう天然うっかり屋さんなのね。ちゃんと注意してあげなくっちゃ。はは。
・・・てえ! くつろいで納得してる場合ぢゃねえ! 俺の脳髄が、前頭葉から後頭葉まで一気に突沸した。何だこの突発性混浴エロシチュは! お約束すぎだろ。テンプレ古典的すぎて、今どきアニメでも使わねえぞこんな手。しかも話の流れ的に、今この場面で、このタイミングでこれ来ますか? もうこの物語は終盤、涙の転校お別れモードに突入したはずなのに。唐突すぎでしょこれ。ファンサービスも大概にしろっつうのっ!
あれ? でも何か違和感が。ミカが、慌てて飛び出してこない。入ったまま出てこない。・・・ま! まさかあっ! もしかして、中はミカひとり? 間違いに気づかぬまま、温泉入っちゃってる? は。は。は。裸で?
どうすんのどうすんのどうすんの俺? あれからどのくらい時間経ってる? 今飛び込んだらまだ間に合う? ミカがまだ服脱いでなければ止められる。だけどもう脱いじゃってたら――。ああああ鼻血があああっ!
そのとき、長い廊下の向こうから笑い声が聞こえた。浴衣のおじちゃん軍団が近づいてくる! ヤバいっ。これ超ヤバいっ。
どうすんだどうすんだどうすんだ俺? ・・・あいつらにミカの裸見られるくらいなら、――俺が見るっ。
俺は飛び込んだ。
*
恐れていたとおりだ。脱衣所には誰もいない。外の声がどんどん近づいてくる。ええいままよ! 俺は、備え付けのバスタオルを引っつかんで、風呂場のガラス戸を引き開けた。
みなぎり渡る湯けむりは、朝の柔らかな光線を一分子ごとに含んで、薄紅に暖かく輝いている。一面の虹の世界が、濃やかに揺れる。何も見えない。誰もいない。・・・と思ったら、誰かが鼻歌を口ずさんでいる。のんびりと可愛らしい声で、なんか心が浮き立つような、どこかで聴いたような・・・って、あれは ClariS じゃないか! ミカさんいつの間に覚えたんですか? と、ふと歌詞に詰まって、「あれ?」――ミカははしゃぎ声でころころと笑った。
そのとき脱衣所でがやがやと声が! 俺は慌ててミカの方角に突進した。湯けむりを透かして、湯船に浮いたミカの頭が、外の声に驚いて振り返るのが見えた。そして仰天したミカが、ざぶっと湯しぶきをあげて、勢いよく飛び出してきた!
漂わす黒髪を雲と流して、あらん限りの背丈をすらりと伸ばしたその姿。その刹那、エロシチュという感じはことごとく我が脳裏を去って、ただひたすらに、美しい画題を見出し得たとのみ思った。着るべき服の存在すら知らぬ神代の姿、その自然なる輪郭を見よ!
がらがらと戸が開いておじちゃんの群れが突入してきたのと、俺がミカの体をすっぽりとバスタオルでくるんだのが同時だった。俺は念のため、その肩を抱き寄せて、やつらの視界からできるだけブロックした。目を大きく見開いたミカが、ショックで体をこわばらせ、小刻みに震えているのが伝わってくる。・・・ん? まさか俺におびえてるんじゃないよね? よね?
絶叫を阻止すべく、ミカの濡れた唇を手のひらでそっと押さえたが、それは杞憂だった。ピュアな驚愕に叫びは要らない。それに、おじちゃん軍団を一目見て、ミカは直ちに状況を正しく理解したようだった。真っ赤に色づいてとっさに目を逸らしたミカの耳元で、俺は安心させようとささやいた。
「俺・・・見てないからっ!」
かたや、おじちゃんどもも、当然驚愕モード。異常な盛り上がり。
「うおおおおおっとお~! なんだなんだなんだなんだ!?」
「こりゃこりゃこりゃこりゃ?」
「混浴じゃないぞお」
「若いってのはいいよなあ~。けど自制心が大事。歯止めが大事」
「君たち。ここはダメ。ここじゃなくて。やるならどっか他で。やるなら貸切風呂で」
「ぶわはははははっ」
・・・俺はまたささやいた。
「このままゆっくり、カニ歩きで行くぞ。脱出開始」




