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うえ~~~ん! もうどうしたらいいか分かんないよおっ。俺、どうしたらいいの?
・・・ミカさんが、最近冷たいんですっ。
*
そう。突然。・・・いや待て。突然でもないな。徐々に。いや徐々にでもない。やっぱ突然だと思う。
もう寒いんで、ツアーを屋内に切り替えて、美術館とか案内してたんだよね。俺、教養を見せてあげようとして、徹夜でググって行った。もうやる気満々。ミカも、絵とか嫌いじゃないらしいし。
だけど、ミカの様子がなんか違う。いや、普通っちゃ普通なんだけど。普通に会話して、普通に笑顔見せてくれるんだけど、どっか、ほんとには笑ってないっていうか。愛想笑いっていうか。ぎこちないっちゅうか。それに、ときどきぼんやりして上の空。みたいな。
最初、どこか具合でも悪いのかと思ったんだ。無理して来てんのかなって。女子って、ええと、サイクルとかあるじゃん? そういうやつかと。でもやっぱり心配だから、聞いたんだけど。でも大丈夫だって。全然平気だって。でも言わないだけかもしれない。だったら早く切り上げよう。そう思った。
ところが、次のときもおんなじなんだ。いやもっとかも。怒ってるのかな? 俺、またなんか言った? でもそんな感じでもないし。
俺の話、やっぱつまんないのかな? もう飽きちゃった? そうかも。それとも? ・・・こういうときって、どんどん悪い方へ考えちゃうよね。(俺だけ?)
ミカって、やっぱりお嬢さまだから飽きっぽい性格なのかな。一人の彼氏が長続きしないとか? そろそろ彼氏リニューアルの時期とか? はやっ。・・・それとも何か心配事でも? まさか東京のストーカーとか? 別のストーカーとか? なら、どうして俺に相談してくれないんだろ。俺、絶対守ってあげるのに。たぶん。向こうが最凶じゃない限りにおいて。
それとも? 考えたくないけど考えちゃう。別の彼氏とか彼氏候補とか? 辻は幸い違ったけど、それに準じた何かの存在。もう同じ誤解と失敗は繰り返したくない。けど、やっぱどうしても考えちゃう。俺って、基本、男らしい男の中の男だけど、たまにちょっとだけうじうじすることもあるから。ごくたまにだけど。あと、俺は、もちろん、自分に絶対の自信あるけど。男として。でも広い世の中、この俺をも凌駕するような、もうちょっとだけかっこいい男が、絶対にいないとは言い切れないし。
・・・でもまあ、ここまではまだ、気のせいかもって思うことにして、何となく自分を納得させていた。だってまだ普通にデートしているわけだし。何も言われてないし。ミカだって、四六時中、天使なわけはないよね。気分が乗らないときくらいあるさっ。
だけど――状況はさらに一段悪化した。ドタキャンです。しかも続けて(涙)。はあああ・・・。
*
「あ。花染さん。ご無沙汰してます。今ちょっといいですか? 実はですね。ちょっとお聞き――」
「うんうん。分かってる。あたしと月島くんのことでしょ? 正体分かった? 例の。幻の女」
「は?」
「だから! 彼が想い続けてる女。あたしを差し置いて! 丸に絶対痕跡を残さない女。・・・誰なのあれ? 北高の誰か? 学校で会ってるんなら、そりゃ丸じゃ分かんないからな。でもあんたなら知ってるはず。親友だろ。隠すなっ。吐けよっ」
「いや。俺の知る限り、やつは花染さん一筋です。確信をもってそう言い切れます。で、話は変わりますが――」
「あっさり変えるな! 何だその確信って。どっから来た? 根拠は? それじゃ、あの女は誰だよ?」
もうやだ。めんどくさい。どうしても説明しろと? しょうがないなあ。
「ええとですね。そこまで知りたいとおっしゃるのであれば、やむを得ませんですね。ちょっと説明しづらいんですが」
「いいから! もったいぶんな。とっととっ」
「・・・実はですね。他でもない花染さんが、そんなにもお悩みのところを、しかと拝見いたしましてですね。他でもない花染さんのたってのお願いとあっては、この不肖山本めも、これは見過ごすことができないと。これはやはり、月島本人を、とことん問い詰めねばならぬと。そう考えたわけでして。そこで、やつの胸ぐらを掴んで、厳しく小一時間、詰問いたしましたわけですよ。その結果――」
「その結果?」
「やつは遂に懺悔いたしました。真実の告白、とでも申しましょうか。その決定的瞬間に立ち会った不肖山本といたしましても、これこそ、真実の瞬間、モーメントオブトゥルースであると。そこには一片の嘘もないと。いかに信じがたい内容であろうとも、魂の真実のみが語られていたと、そのような確信に至ったわけでありますっ」
「ちょ! ちょっと待ってっ」
電話口で、花染さんが息をのむ音が聞こえた。
「・・・今ちょっと。心の準備が。・・・よろしい。いいよ。覚悟はできました。言いなさい。その衝撃の真実とやらをっ」
「いや別に衝撃とは言っておりませんが・・・」
「早く言えっ」
「実はですね。月島曰く――」
「曰く?」
「曰く。・・・自分には、特殊な能力が備わっていると。そう申すのです。未来が見えると。あるいはですね。平行世界が見えると」
「・・・は?・・・」
俺はすかさず強引にたたみかけた。
「そしてですね。驚くべきことに、こう申すのです。いつも見えるわけではない。真実の愛に目覚めたとき。そのときにのみ、愛する女性の中に、そのイメージが浮かんで見えるのだそうです。未来の彼女の姿が。あるいは、別の世界の彼女の姿が。その意味が分かりますか?」
「と言いますと?」
「花染さん! やつがあなたの中に見ているのは、誰あろう! さらにより一層、美しく花開いた、あなた自身のお姿なのですっ」
「・・・」
「ちなみに、このことは極秘事項なのだと。どうしても隠し通す必要があるのだと。偏見に凝り固まった愚民どもによる、異能の徒への迫害を避けるためです。特に、最愛のあなたには、絶対に打ち明けられない。あなたも迫害されてしまうからだとっ」
「・・・」
「やつは泣いて懇願するのです。どうかこのことだけは、花染さんには言わないでほしいと。自分のせいで、彼女が迫害の危機に瀕するのは、とても耐えられないとっ」
しばらく沈黙が続いた。花染さんが、怒ろうか笑おうか泣こうかと、その三択で迷っているのがよく分かった。やがて、
「う~ん」
ちょっと涙声。お? 意外と真に受けてくれた? てか、我ながらめっちゃええ話やん。俺、自分でももらい泣きしちゃう。
「・・・ごめん。その話、さすがにちょっと信じらんない。だけどもし本当なら、・・・死ぬほど嬉しい。あたし、とりま態度保留」
「そ。それで結構です! あの。俺が言ったってことは、月島には絶対ご内聞にっ」
「それは了解。言わない。じゃ」
「ちょ! ちょ! まだ話終わってないから!」
「なんだよ? あたし、ちょっとこれから、今の話の余韻に浸りたいから」
「その前に! ミカさんのことでっ」
花染さんはまた急にドライになって、
「えぇ? なにぃぃ。最近うまく行ってんだろ? それともまた捨てられた?」
「いやまだですっ」
をいっ! 「まだ」とか自分で言うな俺っ。終末を先に認めちゃってどうするっ。
「――でも、最近ちょっと気になることが・・・。教室でミカさんどうですか? 元気? 何か変わったことは?」
「うーん。別に。ふだんと変わんないよ。あんた細かいこと気にしすぎなんだよ。なんかあったわけ?」
「ミカさん、最近ちょっと上の空っていうか。あとドタキャンが二回ほど」
「あ。それダメだわ。それ終わる。兆候見えてる。あんた捨てられるよ」
「そんなあっ。やだっ」
「だから無理だって。最初から言ってるだろ。付き合ってる方が異常事態」
「言ってませんっ」
「固執する子だなあ山本くんも。・・・いや、気持ちは分かるけどね。心配だよね。うんうん。気になるよね。うんうん。じゃあさ、こうしようよ。あれしよう?」
「は?」
「だからさ。位置アプリ。二人でなら、怖く――」
「すいません用事ありました切ります」
*
う~む。・・・ひょっとして、月島が、また薄汚い手でミカに迫ろうとしてるとか? まさかとは思うが、やつは一瞬たりとも信用できない。要チェック。
「おおお山本くん。今日は別に呼んでないけど?」
屋上でコンビニおにぎりを手にした月島は、頬がこけていた。
「顔色が悪いぞ。まあ天罰だが」
「君ごときには、僕の高尚な悩みなど分かるまい。みどりステージ3への道のりが、暗礁に乗り上げているんだ」
「だから! 普通のらぶらぶで満足しろと、あれほど言っ――」
「3の魔力は、経験した者にしか分からない。ほとんど依存症なのだよっ」
「断て。病院行け」
「だが、僕は遂に、唯一の解決策を発見したのだよっ」
「言うな。聞かない」
「それはだ。みどりとのらぶらぶ関係を、いったん解消して白紙に戻す。仕切り直しだ。そして、みどりと別の男がステージ2になったのを見計らって、そのタイミングで寝取る」
俺は唖然とした。
「この鬼畜がああああっ!」
「そのとおりだ」
月島は珍しく素直にうなずいた。
「だが理論上は完璧なプランだ。にもかかわらず、なぜか踏み切れない。どうしても、みどりを失うリスクを考えてしまう。そのリスクと、ステージ3のリターンとを天秤に掛けて、悩み続ける毎日だ。苦悩の日々。前人未踏、孤独な闘いが続く。偉大なる愛と美の殉教者。僕の前に道はない。開拓者は辛いっ」
「・・・俺、やっぱ下でおにぎり食う」
まあとにかく、月島がミカの件に関わってないことは確かだ。あれが演技なら、やつはアカデミー賞5個取ってる。
*
もうヤケです。
「あ。会長。お久しぶりです」
「おお山本くん。やっと〈ミレーマ〉に入会する気になったかね?」
「鋭意検討中です。・・・ところで、最近何か新情報はないですか? ミカさんがらみで」
「〈P〉か? いや。もぐらからは特に何も聞いてないが。ここんところ平穏そのものだ。バグの解消がやはり効いてるんだろうな。最近はやつらの暴走もない。・・・そう言えば君、またやつらにマークされてるぞ」
「は?」
「〈P〉のご相談センターにしつこく電話しただろ? 『レベル3違うはずだ』とか言って」
「だって違ってますもん。明らかにっ」
「電話録音されてクレーマー扱いされてるぞ。受付の人に怒鳴ったらダメだよ。気の毒じゃないか」
「ええっ? そんな! ひどい。正当な抗議なのにっ」
「大人社会はそんなもんだよ」
「それって子供社会と同じじゃないですかっ」
「もっとひどいぞ。慣れろ」
*
ヤケ電話続けますね。
「ああどうも白鳥先生! お忙しいところ恐縮です。あのっ」
「山本。ちょうどいい。電話するところだった。お前、報告書出してないだろ。催促来てるぞ」
「ああ・・・すみません。ちょっとドタキャンが連続で・・・」
「それとなあ。忘れてないだろうな? 『手引き』に書いてあるんだが。アンバサダー関係は、今月が締めなんだ。年末調整の関係でな。経費と購入物品のリストをエクセルで提出することになっている。今年一年分。ちゃんと締め切りに間に合わせろよ」
「えー。毎月出してるじゃないですか」
「あのな。覚えとけ。同じことを、違うエクセルで何度も書かせることこそが、役所の仕事なんだ。しかもコピペできないように、毎回違うセル書式でな。慣れろ」
「はああ。・・・あの。ところでミカさんのことなんですけど、何か〈組織〉から情報など――」
「別にないぞ。忙しいから切る」
*
結局何も分からない。ただ疲れただけ。八方ふさがり。はあああ。今日は土曜なのに。いつもなら、ミカとお出かけしてる時間なのに。
次の候補地をネットで検索してみているけど、なんか虚しくなってきた。だってこのままキャンセルが続いたら無駄だし。
そんな深刻なことじゃないのかな? たまたま偶然、ドタキャンが重なっただけ? 来週は普通に戻るの? ミカは理由を何も言わなかった。ただすまなそうに、何度も謝っていた。だけど、電話口の声も、どこか、辻のときとは違って聞こえた。
勉強でもする? それとも、気分転換に、ちょっとどこかに出かける? 〈マモ~レ〉とか? 駅前とか? 最近の週末はいつもミカといっしょだったから、一人で出かけるのが異様に寂しく感じてしまう。前はそれが普通だったのに。
まあコーヒーでも入れてと。高校生らしく課題やるか。やだなあ。・・・そのときピンポンが鳴った。インターホンに映ったのは――。
ミカだった。
*
正直驚愕した。まったく予想外だった。ミカがうちに来るなんて。ヒルのとき以来だ。というか、あのとき一度きり。
心臓が早鐘のように打った。今、家にいるのは俺だけ。そこへミカを入れちゃう。家の中へ。こ。これって、もしかして、すごいことでは? 定義上、エロシチュではないでしょうか? しかも俺が誘ったんじゃなく、ミカの方から積極的に。・・・お嬢さまっ。なんと大胆なっ。いいんですか俺なんかで? うおおおおおっ。
でもこれ、まじでヤバいかも。〈P〉はどこ? スナイパーは? ミカが入るところ見られた? まさか俺んち、蜂の巣にされちゃう? 爆破とか? ・・・前回は無事だったけど、今回は状況かなり違います。何より、今って、いちおう彼氏アンド彼女だしっ。つまりです。彼女さんが、俺という彼氏さんの部屋にいるわけなのでっ。ふたりっきりでっ。
あああしまったあ! もう慌てすぎていて、何が何だか分からんうちに、ミカを俺の部屋に入れてしまったあ。ダイニングかリビングに通すべきだったのにっ。でもミカは、何の心配顔も見せずに、ごくごく自然に、俺の部屋に入ってきた。警戒しまくっていた前回とは、えらい違いです。・・・でもね。ちょっと! いくら何でも、これは無防備すぎでしょ。嫁入り前の、うら若き娘さんなんですから。しかも普通のひとじゃなく、VIPでしょあなた? ミカパパが見たらどう思いますか? 俺、絶対殴られちゃう! ・・・
俺の頭は、かくのごとく、しばらくの間沸騰していた。だけどそれがやや治まってくると、その場の雰囲気が、どうやらそんな甘ったるいものではないことが、ようやく感じ取れるようになった。少なくともエロシチュからは遠い。ミカの表情は真剣で、どこか緊張をはらんでいた。・・・ん? でもエロシチュでも女子って緊張するのかな? いかん! 無理にエロシチュに引っ張ろうとしてないか俺?
ミカは妙に無口だった。何か迷っているように見えた。やがて口火を切った。
「ええと・・・。ごめんなさい。急に来たりして」
「全然いいよ。どうせ暇だし。来るの久しぶりだよね? うちの場所、覚えてたんだ」
「当然。忘れるわけないもの」
「今コーヒー持ってくるね。ちょうど入れたとこ」
戻ってきた俺が、机の上からごたごたを急いでどけてコーヒーの場所を作ると、ミカは、ありがと、と言ってその前の椅子に座った。椅子をずらして、ベッドに腰掛けた俺の方へ向き直り、ちらと俺の顔を見たが、すぐまた目を逸らした。俺たちは黙ってコーヒーをすすった。・・・椅子からすらりと伸びたミカの脚を、思わず見てしまいます。(エロシチュじゃないと何べん言えば! 俺のバカ!)
気まずい沈黙に、もう限界っす。俺は言った。
「あのさ。今日、用事があったんじゃ? もういいの?」
「え? ああ。うん。大丈夫。どうしようか、ちょっと迷ったんだけど。でも山本くんと先週も会わなかったし、ね? 私が悪いんだけど。でもちょっと顔見たくなって、何となく来ちゃった。ちょっと話もしたいなって。おうちにいないかもって思ったんだけど。でもいてくれたから。はは」
「そうなんだ。はは」
また沈黙。
「散らかっててごめんね。恥ずかしいな。はは」
「全然大丈夫。勉強してたの? 邪魔しちゃったかな。ごめん」
「いや~どうせダラダラしてただけだから。はは」
「これ北高の課題? けっこう難しそう。さすが進学校」
「量多いだけ。めんどい。はは」
沈黙。・・・聞くのが怖いことを、思わず聞いてしまう俺。
「あのさ。ミカさん、最近忙しいんだね。来週とかは大丈夫なの? 週末」
ミカはびくっとした。また目を逸らして、
「ああ! うーん。そのことなんだけど。・・・やっぱりちょっと、しばらく様子見ようかなって思って。お互い、ちょっと忙しくなってくるじゃない? ね? 山本くんも。勉強とかで。年末だし。寒いし。雪降りそうだし。それに・・・」
聞かなきゃよかった! やっぱ別れ話だ。もうかよ! 早すぎるよ! もうやだあっ。・・・ミカはためらいながら言葉を選ぶように、
「ちょっとね、いつもいっしょだと、目立っちゃうかな? って。噂になったりとか。山本くんにも迷惑かかると悪いし・・・ええと・・・」
いつかのバスの会話を思い出した。やっぱりあちこちで見られたのか? 南高でいろいろ言われてるとか? まさかネットで? 花染さんは何も言ってくれなかったけど。
「友だちに何か言われたの? それとも・・・パパに何か言われた?」
ミカは慌てて首を振った。
「いえ! 違うの。そうじゃなく。そうじゃなくて。ただ。ええと・・・」
ミカが困っている。俺、責めるみたいな口調だった? そんなつもりはない。理由はどうあれ、遅かれ早かれこうなるのは目に見えていた。認めたくないけど、花染さんは正しい。客観的に。どう見てもミカは高嶺の花だし。・・・そのミカが困ってるじゃないか。困らせるな。何か言え。でも言葉が出てこない。
「うん。でも。でも、私ばっかりその気になってぐいぐい行って、ちょっと山本くんには迷惑かもって、最近思って。山本くん優しいから。私、ちょっと甘えちゃってるのかなって」
「いやっ。そんなことないですって。そんなことないから! 全然」
「そうかなあ。はは」
「そうですよ。ははっ」
「それにね。うん。あんまり深入りしすぎちゃうと、後で辛くなるかな、なんて」
「いやあ。そんなことないですよ。考えすぎ。はははっ」
何をちゃらちゃら言ってんだよ俺は。優しいのはミカの方だ。何とか俺を傷つけずに話そうと、必死じゃないか。終末を素直に受け入れろよ俺。だけどびびりの俺は、無理やり話題を変えようとして、
「・・・そう言えばミカさん、写真部に入ったんだよね? 忙しいって、部活もあるから?」
ミカは明らかにほっとした様子で、
「ああ! うん。そうなの。そう言えば忘れてた。山本くんにいろいろ聞こうと思ってたの。私、カメラのこととか全然分からなくて。・・・まだカメラも買ってないんだよ! 他の人のを、ちょっと触らせてもらっただけで。ね? おかしいでしょ。笑っちゃうよね」
「はは」
「設定ってあるじゃない? 絞りとかシャッタースピードとかイソ? 感度とか。あの三つの関係がいまいちよく分からなくて。あとレンズとか」
「はは。難しいよね。うん。はは。本とか見れば、いろいろ書いてあるけど」
「あ! そういう本持ってる? あと、どのカメラがいいのかとか。いろいろありすぎて迷っちゃう。そういう本ある? 雑誌とか?」
ミカは本棚を指差して勢いよく立ち上がった。その風が、ふわりとシャンプーの香りを運んだ。机の上の紙切れが舞い上がった。
「あ。ごめんなさい」
ミカは床に落ちた紙を拾い上げた。ああっ。太ももっ。すてきっ。(俺のバカっ!)
ミカは手にした紙をしげしげと眺めると、
「課題じゃないんだ。・・・何これ? 『OA委託業務・事後報告書』?」
しまった!
「あーそれっ。俺ちょっとバイトしててっ」
「へー。山本くん、アルバイトもしてるんだ。すごい。これって県庁に出すの? 役所のアルバイトって、こんなすごい報告書も書くんだ。さすが公務員志望。もう将来見据えちゃってる。すごい堅実。私なんかと全然違う」
「ははは。いやそれほどでも。はは」
「・・・え? でもこれって・・・この前、私と行った場所だよね? 日付も――」
まずい。ミカの顔色が変わった。
「決定に至った経緯? オフィシャルアンバサダー?」
「いやそれはっ」
「このクライアント様って、・・・私のこと? 『私は、上記クライアント様と、個人的利害関係もしくは不適切な関係を有していません。』って」
「いや違いますっ。それはそういうことではなくてっ」
ミカが激しく動揺しているのが分かった。顔がみるみる白くなった。机の上から紙の束を掴んだ。
「前の書類も・・・全部。全部、私たちが行った場所」
「いやっ。あのっ」
「そうだったんだ。すごいね。仕事だったんだ。全部。全部お仕事」
「いやっ。そうじゃなくっ。必ずしもそうとばかりも言い切れ――」
「誰に頼まれたの? パパじゃないよね? 県の偉い人?」
「いやっ。そういうことではなくっ」
「私がかわいそうだから? 友だちいなくて寂しそうにしてたから? それで引き受けたの?」
ミカは片手で額を押さえ、ふらりと揺れて椅子にもたれかかった。でも倒れなかった。それから顔が怒りで燃え上がった。
「ありがと山本くん。親切なのよく分かる。お仕事も熱心。だけど悪いけど、そんなの、正直余計なお世話だから。同情してもらわなくていいから。私、頼んでないから。自分の面倒は自分で見られる人だから私。もういいからそんなの」
目が潤んで赤い。椅子を掴んだ指の関節が白い。
「私バカみたい。彼氏とか彼女とか。ひとりでいい気になって。でもバカでも、うすうす気がついてた。だって、山本くん、地元の子の方が好きなんだよね。私みたいに浮いてる子じゃなく。無理して私に付き合ってくれてるの、何となく分かってたよ。山本くんって、優しいからさあ」
言葉を詰まらせながら、
「でも良くないからそういうの。バカな子は誤解しちゃうから。ダメだよそういうの。良くない。やめた方がいいよ」
「いやっ。俺はっ。それ違っててっ」
バカなのは俺だ。饒舌はどこへ行った? 頭が真っ白で何も言えない。全部洗いざらい話したいけど、できない。自分がずっと監視対象だったなんて、絶対にミカに知らせるわけにはいかない。この街を彼女のトラウマにすることだけは、断じて許されない。
「うん。・・・私、もう帰るね。怒鳴っちゃってごめんなさい。はは。もう大丈夫だから。心配しないで。じゃあね。さよなら」
*
俺は玄関で、茫然とミカの後ろ姿を見送った。ミカは振り返らなかった。俺はバカすぎて、衝撃が大きすぎて、後を追って行くことすら考えつかなかった。
でも、追いかけて行ったら、何か変わっただろうか?
ミカを怒らせてしまったのはこれが初めてじゃない。でも前のときは、俺にその勇気さえあれば、全部誤解なんだと言い切れる自信があった。今回は違う。オフィシャルアンバサダーは仕事だった。ミカとのツアーは仕事だった。俺は、公務員枠をぶら下げられて走る駄馬だった。それが事実なんだ。
そして、その俺の、クソみたいな打算とゴミみたいな下心が、一番傷つけたくないひとを、これ以上ないくらい、深く傷つけてしまったんだ。
これが事実だった。これが現実だった。これが、起こってしまったことだった。そして、俺は、それを前にして、ただ立ちすくんでいるのだった。




