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8 ― 3

 その後、あの日の演劇部のステージで何が起こったのか? 実は、俺は見ていません。なので以下は、たまたまあの舞台を観ていた元カノ数名に、後日、月島が聞き取り調査を行った結果、明らかになった内容を、俺が再構成してお届けするものです。予めご了承願いますね。


     *


 巨大な第一体育館のステージ。満員の観客。物語は佳境を迎えていた。


 戦時下のベルギー。ヒロインのシスター・ルークは、父がナチに銃殺されたことを知る。怒りと悲しみに震えるヒロイン。だが、神に仕える修道女としては、そうした感情をも超越し、敵を愛する境地に達しなければならない。


「マザー・エマニュエル。わたくしにはできません。愛する父がナチスに殺されたのです。非道な彼らを許すことができません。どうしても、憎しみを抑えることができないのです!」

「シスター・ルーク。その気持ちはよく分かります。ですが、ここは修道院なのです。あなたは、神に仕える尼僧なのです。世俗的な感情は、全て捨て去るのです。憎しみに、魂を支配されてはなりません。神を愛する心で、イエスを愛する心で、敵も味方も、全ての人を愛するのです」

「できない。わたくしにはできません!」

「あなたにはできるはずです。外の世界とのつながりを断ち切ったではありませんか。恋人への想いを断ち切ったではありませんか。厳しい戒律に耐え抜いたではありませんか。その強い心を、その強い決意を思い出してごらんなさい。十字架を思いなさい。わたくしたちの罪を背負ってはりつけになられた神の子を思いなさい。この世を、世俗の愛と憎しみを、超越するのです!」

「おお神よ! わたくしはどうすればいいの? 一度は捨て去ったはずの愛と憎しみが、この胸の奥底から湧き上がってくるのを感じる!」


 緊迫するステージ。迫真の演技で身もだえするヒロイン。息をのむ客席。・・・そのときだ! 突如、場違いな謎の男声が、体育館じゅうに響き渡った!


「はっはっはっはあ! よくぞ気がついたなシスター・ルーク! その衝動こそ正しいのだ! それこそ人間の証なのだ!」


 驚愕する尼僧たち。驚愕する観客。全員が声の主を求めて、上を見上げた。そこにはなんと! 尼僧の衣装をまとったウサギが、まるでスパイダーマンのように、体育館のかまぼこ天井に張り付いているではないか! 会場がざわめいた。


 腰を抜かしそうなヒロインが叫んだ。


「あ・・・あなたは誰?」

「ウサギとでも呼んでくれ。若者の尊厳と自由を守らんとする正義の徒だ。この世にはびこる、あらゆる非人間性を否定し糾弾するために参上したのだっ」


 マザー・エマニュエルが怒った。


「邪魔するのはやめて! 降りてきなさいっ」

「黙らっしゃい! お前こそ、これ以上、人間の自然な感情を抑圧するのはやめるのだ! スピノザを知れ。ニーチェを知れ。〈生の哲学〉を知れ! 我々の生の重心を、十字架や原罪や死後の世界に引きずり込むな! 生きることの輝きを取り戻すのだ! 愛することの輝きを取り戻すのだっ」


 そのときだ! 突如、場違いな謎の女声が、体育館じゅうに響き渡った!


「ちょっと待った! お前の好きにはさせんぞっ」

「その声はっ。ぶ。部長っ!?」


 全員が声の主を求めて、振り返った。そこにはなんと! 尼僧姿の生徒会長・兼・演劇部部長が、ショットガンを構えて仁王立ちになっている!


「食らえっ」


 銃口が火を噴いた。間一髪! ウサギは身をかわして巨大なはりに降り立った。針と白い糸の束が、天井に突き刺さっている。


「ふふっ。残念だったな」

「逃がさんっ」


 南会長はショットガンから伸びる糸束をむんずと掴むと、驚くべき速さで、ターザンのごとく、そのロープをよじ登り始めた。ブランコのように勢いをつけて、観客の頭すれすれの高さで空中を横切る。悲鳴が上がった。物理法則に従ってその勢いは見る間に加速度を増し、遂にロープは梁にくるくると巻き付いた。あっという間に、彼女は梁の上にすっくと立ち上がり、ウサギと至近距離で対峙していた。


「ウサギこと北会長。年貢の納めどきだ! 風紀を乱す不逞の輩。美しき伝統と秩序、神聖なる規律と規範を敵視し、ことごとく破壊しようと企む堕落の権化。覚悟しろっ」


 隠し持ったカッターが一閃! ウサギのかぶり物が真っ二つに割れて、北会長の顔が現れた。


「うおっ!」「イケメンっ」「かっこいいっ」


 一部の観客から黄色い声援が起こった。だが梁の上はそれどころではない。くんずほぐれつの大乱闘が続いていた。


「危ない!」


 カッターを振りかざす南会長の腕を押さえた北会長の手が、勢い余って、彼女の僧衣の上で滑った。切り裂かれたポケットの中身が飛び出して宙を舞う。それを素早く掴んだ彼は仰天した。


「な。何だこれは?」

「そ。それはっ。返せっ」


 下からは小さすぎてよく見えなかったらしいけど、花染さんの友だちが、借りてたオペラグラスで観ていたら、ボタン電池だったそうです。


「LR44。3個セット。な。なぜこれをっ」


 彼女は突然、不可解にも頬を赤く染めた。


「・・・この前の晩、あのボタンちょっと押してみただけだ! 試しにな! でもお前は来なかったっ。電池なかったからなっ。だから、次に決心がついたときに備えて、いつも持ち歩いてるんだよっ」

「なにいっ! するとつまりっ。それはっ」

「ご。誤解するなっ。お前が思ってるような意味じゃない! あくまでも、長年の因縁に決着をつけるためだっ。それだけだっ」


 彼の顔も、みるみる赤くなった。


「ならば言おう。俺はな、あの日から、一日たりともお前を忘れたことはないっ。お前のことを想わなかった日はないっ。花畑小の校庭で、いじめっ子に囲まれていたお前を助けた、あの日からなっ」


 彼女は一瞬はっとしたが、すぐに嘲るように切り返した。


「バカを言え。あのときお前は、やつらにボコられて逃げたじゃないか。私を置き去りにしてっ」

「逃げると見せかけて、やつらをお前から引き離したんだ。あの後、裏手で改めてボコられたけどな。だが時間は稼げたはずだ。その間に、お前はちゃんと逃げられたじゃないか」


 彼女は眼をむいた。


「なん・・・だとっ・・・そんなバカな・・・そんなはずはっ」

「俺はっ。お前を〈P〉の魔の手から救い出すため、そのためだけに〈ミレーマ〉に入ったんだ。だから、この命を懸けても、絶対にお前をやつらから奪い返すっ」

「きさまっ・・・くそっ・・・私はっ・・・私はっ・・・」


 鉄壁のガードを遂に外した乙女の頬を、涙がとめどなく流れ落ちた。


「お前の誤解のお陰で、俺の人生はぶち壊しだ。〈ミレーマ〉が忙しくて東大も諦めたんだぞっ」

「嘘をつけ。それ古文がクソ悪かっただけだろうがっ」

「どっどうしてそれをっ」

「お前の情報は全て〈P〉から取得済みだ。第5志望まで調べた。私の志望もそれに合わ――し、しまったっ」

「お前。そこまで俺のことをっ」

「ち。違うっ。断じて違うぞっ」


 梁の上で、彼は彼女の肩に回した手を、ゆっくりと引き寄せた。客席のあちらこちらから、すすり泣きが聞こえてきた。


「ええと・・・シスター・ルーク?」


 舞台の上で、あっけにとられて二人を見上げていた尼僧たちは、ようやく我に返ったらしい。


「・・・はい。そうですね。ええと。マザー・エマニュエル。わたくしは、やはり、どうしても世俗への思いを断ち切ることができないのです。修道院が求める尼僧にはなれません。わたくしは、祖国ベルギーのために生きる決心をいたしました」

「よろしい。残念だが、あなたは誠実なお方です。必ずや、外の世界でも、豊かな人生が待っていることでしょう。お行きなさい! 道は、あなたの前に、常に開かれているのですからっ」


 すすり泣きが大きくなった。生徒が全員泣いている。先生も泣いている。用務員のおじさんも泣いている。まばらな拍手が、やがて割れんばかりの熱狂と大歓声へと膨れ上がり――。


     *


 ・・・え? 話盛ってるだろって? いや、観てたの、俺じゃないんで。複数筋からの確かな証言なんで。



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