34◆ 心配りと心遣いと
コリウスと俺は黙り込んだまま役所を目指し、魔界から帰還したときに最初に案内された、円卓の部屋を再び訪れた。
先触れなしの突撃となったが致し方あるまい。
ヴェルマ将軍とあと二人、名前を知らない人がそこにいて、俺たちの帰還を驚きつつも歓迎してくれた。
驚いたのは多分あれだ、マジで東の国境まで行って戻って来たとは思えない早さだったからだろうな。
俺たちの無事を祝う、お偉いさんのどうでもいい長台詞を、コリウスが早々にぶった切ってくれた。
自分自身も辺境伯の嫡男であるという身分があるから、こういう場では強い。
お陰で俺は、今回の最重要事項である、魔法を使うレヴナントについて素早く報告することが出来た。
報告を聞いて、ヴェルマ将軍はさっと顔色を変えた。
他の二人はむしろきょとんとしていて、ヴェルマ将軍との状況把握能力の差を露呈していた。
その二人を置き去りにしたまま、ヴェルマ将軍は、老いてなお若かりし日の鈴のような声音を想像できる凛とした声で、俺に幾つか質問した。
――小さかったとのことだが、膂力はどの程度だったか。魔法を使うとのことだが、程度はどれほどか。
発生に条件はありそうか、など。
俺は一つ一つに答える。
――膂力は人と変わらず、抵抗されても、直接触れて押せば力任せに押し遣れる程度。魔法は絶対法を超えたものを使うので、警戒するならば明らかにこちらの方。周囲の空気ですら、吸気ですら、武器として扱うことが出来る魔法だ。
発生の条件については不明だが、レヴナント全体に言えることだが、世双珠の破損と同時にレヴナントが発生している可能性がある。
他の二人が徐々に事態を理解した表情を示す中、ヴェルマ将軍は俺の返答を噛み砕き、老いた目許に影を落とした。
「――対策はありますか」
尋ねられたその言葉に、俺は思わず息を吸い込んだ。
――対策があるのなら、俺が既にそれを見付けていたのなら、シャロンさんは死なずに済んだ。
「今のところは、逃げるより他は」
短く答えた俺を、ヴェルマ将軍はじっと見た。
意外にも、「救世主のくせに何を言うのだ」と叱責することはなかった。
ようやく顔色を変え始めた他の二人を見て、ヴェルマ将軍が小声で世双珠の管理について指示を出している。
やはりというか、この時代の生活基盤である世双珠そのものを危険視する思考は端からないようだ。
当たり前なんだけど、なんだろうこの違和感。
指揮官三人での会話を短く打ち切って、ヴェルマ将軍は俺たちに向き直った。
俺たちを労い、今日はもう休むようにという言葉を受けて、俺とコリウスはそれぞれ頭を下げて踵を返した。
役所を出ると、辺りはもう夜の帳に包まれていた。
宿舎に向けて歩きながら、俺たちはやっぱり無言だった。
一人で歩いているのではないと俺に教えるのは、隣を歩く聞き慣れた足音、それのみだった。
とはいえ、物静かに歩を進められたのも宿舎の入り口までだった。
宿舎にはさすがに人がいて、ちょうど任務を終えて宿舎に入ろうとしている一団と鉢合わせたのだ。
俺たちを見た彼らが口々に歓迎と驚きの声を上げ始め、それが宿舎の中にまで聞こえたのか、宿舎からひょっこりとアナベルが顔を出した。
――俺とコリウスが、同時に息を吐いた。
やはり昔馴染みの無事な顔を見ると安堵が先に立つ。
さっと道が開けられて、俺たちは真っ直ぐにアナベルに向かって歩いて行った。
肩上で切り揃えられた薄青い髪を、宿舎の中から差す明かりにちらちらと煌めかせつつ、夜陰を透かして俺たちを見付けたアナベルが、珍しくやや大きな声を出した。
「戻ってたの、早かったわね。一日か二日は遅刻すると思っていたんだけれど。むしろ、一日早くない?」
「まあ、そうだね。予想が外れたね」
コリウスが言うと、アナベルはなぜか、少しだけ皮肉な含みのある表情を浮かべた。
とはいえそれも一瞬で、すぐに「おかえりなさい」と当然の顔をしてコリウスと俺、それぞれの手を握る。
宿舎の前は混雑していた。
任務から戻って来た人たちの足を止めてしまったのだから当然だったが、アナベルはその状況にはまるで頓着せず、無人の大広間を歩くかのような自由さと気軽さで踵を返した。
宿舎内の明かりは絞られて薄暗かったが、人の気配はあった。
果たせるかな、足を踏み入れた先の大広間では、今まさに夕飯の光景が繰り広げられていた。
かつてのように、全員揃っての規則正しい夕餉、というよりは、任務が終わった者から摂っていく夕餉、のように見受けたが、それでも魔界から帰還したときに比べて、格段に隊員たちの顔に生気がある。
席は六割方埋まっていて、テーブルの上に等間隔で置かれた燭台にも灯が入っていた。
雑談混じりに食事を摂っていた隊員たちが、アナベルを先頭に入っていった俺たちを見て、一斉に手を止めて立ち上がった。
救世主さま、と無数の声が上がって、しかもその声の殆どは壮年男性のものだったから、俺は思わず顔を伏せた。
――が、すぐに顔を上げて、大広間をぐるりと見渡す。そして首を傾げた。
「――アナベル、他のみんなは?」
「戻ってないわね」
アナベルはすっぱりとした声音で呟き、自分が元座っていたのだろう、大広間の中ほどの席に腰掛けた。
その挙動を見届けてから、立ち上がっていた隊員たちもがたがたと座り直す。
アナベルの目の前には、いかにも食事中ですといった風情で、パンを載せた平皿やスープの深皿が置かれていた。
他の皆さんも同じような献立を目の前に並べていたから、救世主だけが特別扱いを受けているということはないらしい、良かった。
まあ、こっちにはトゥイーディアがいるから、そういう横暴は絶対に許さないだろうと分かっていたけれど。
アナベルの周囲の席は空いている。
さすがに、救世主と面と向かって食事する度胸のある隊員はなかなかいないらしい。
いや、あるいは、アナベルがあからさまに、傍に人が寄るのを嫌がったのかも知れないが。
長椅子を跨ぎ、俺がアナベルの左隣に、コリウスが俺の隣に座り、俺は無断でアナベルの皿からパンを一つ取った。
丸っこいそのパンを二つに割って、コリウスに片方を渡す。
コリウスも何も言わずにそれを受け取り、アナベルもアナベルで、特に咎め立てはしなかった。
薄紫の目でちらりとパンの行方を追ってから、嘆息して呟く。
かちゃ、と音を立ててスプーンを握った右手の手首に包帯が巻かれているのを、俺は見た。包帯には赤黒い染みが出来ている。
「あたしも一時間前くらいに戻ったばっかりよ。夜といってもこの頃は全員揃うことはあんまりないから、他の帰りを待とうなんて思わないで、さっさと寝た方がいいと思うわ」
トゥイーディアは? と尋ねようとして、出来なかった。
トゥイーディアはどのくらい無理をしているのか、と訊こうとしたんだけど。
無言でパンを齧る俺の隣で、コリウスは眉を寄せる。
「そうか。知らせもあるんだが、全員に纏めて伝えるのは難しいかな」
「知らせ?」
アナベルが首を傾げたところで、また入り口付近で声が上がった。
振り返ると、周囲に愛想よく手を振りながら、数人を引き連れる格好でカルディオスが大広間に踏み入って来るところだった。
長椅子を跨いで、俺は立ち上がった。
全員が揃うことはないとアナベルが言った直後にカルディオスの戻りとは。
俺に気付いて、カルディオスの翡翠色の目がこちらに向けられる。
そして、彼は破顔して走り出した。すたすたとこっちに駆け寄って来て、勢いよく俺に抱き着く。
背中に回された手が傷を直撃して、俺はうっと呻いたものの、即座に応じてカルディオスを抱き締め返した。
その動きに、カルディオスもまたうっと呻いたので、奴も奴でどこかに怪我をしているらしかった。
が、発した声は元気だった。
「おかえり、ルド! コリウス!
――っと、あれ? ルド、どっか怪我してんの? あと、なんか服変わってる?」
俺から離れて、とはいえ肩には手を回したままで、カルディオスが首を傾げる。
張り倒したくなるくらい絵になる姿だ。場が一気に華やぐとはこのこと。
俺は曖昧な声を出して目を逸らした。
確かに俺の軍服は駄目になったが、その経緯を思い出すのは、自ら傷口に塩を塗り込むようなものだった。
コリウスがちらりと俺を見て、それから鮮やかに話題を変えた――が、その舵を切った先の話題も、俺にとっては相当敏感になるものだった。
「――そういえば、つい数時間前に知ったんだが、トゥイーディアが」
そこまで聞けば言いたいことは分かったのか、カルディオスとアナベルが一斉に表情を無にした。
アナベルはそのまま、何か下品な言葉でも聞いたかのように不機嫌にスープにスプーンを突っ込み、がちゃんと音をさせる。
一方のカルディオスは数秒を置いて、どうやら苦笑らしきものを苦労して浮かべた。
「……あー、うん。つい五日前にな、仰々しく使者が来てイーディを呼び出していって、発表された」
俺は席に座り直した。
カルディオスは、アナベルを挟んで俺の反対側に座ったが、俺たちと違って長椅子は跨がず、通路側に身体を向けて腰掛ける格好を取った。
「トゥイーディアは……その、なんだ」
コリウスが、やや身体を後ろに引いてカルディオスと目を合わせつつ、身振り混じりにそう言った。
明瞭な言葉を選ばないのはこいつらしくなかったが、意図するところは十分に伝わる。
カルディオスは肩を竦めた。
す、と額髪を払う仕草が、それだけで引力を放つようだった。
「嫌がっちゃいないよ、もちろん。イーディが言い出したことだしな。――けどまあ、さすがに、髪飾りは断ってた。あと、なんつーか……」
髪飾り。婚約のときに女性へ贈る伝統的な贈り物。
ヘリアンサスがトゥイーディアに髪飾りを差し出している場面はどうにも想像がつかなかったが、俺は内心で謂われもなく安心していた。
そうか、トゥイーディア、髪飾りは受け取ってないのか。
俺の内心は無論のこと表に出るものではないので、カルディオスが小声で続ける言葉を邪魔するものではなかった。
「殺気がすごい。俺らですらちょっとびびるレベル。ヘリアンサスを見るときのイーディの顔――や、もちろん、他に人がいるときは猫被って気持ち悪いくらいの笑顔なんだけどさ。でもそれ以外のとき、やべーよ」
「滅多に顔を合わせるものじゃないでしょう」
アナベルが、少しばかり怒ったようにカルディオスに向かって言った。
そして俺とコリウスの方を見て、補足するように、腹立たしげに呟く。
「イーディ、殆ど砦に戻らないのよ。あたしたちだって、二日に一回戻るか戻らないかだけれど、それにしても度を越してるわ」
――俺の心配が的中した。
トゥイーディア、やっぱり無理をしている。
カルディオスも、アナベルの表情が伝染したかのように顔を顰めた。
そして、俺とコリウスに向かって、講釈を垂れるように言った。
「ここでの任務ってさ、普通はガルシア近辺を回ってのレヴナント討伐だから、普通は一日に一回戻って来れんだよ、普通は」
普通は、と言いながら、カルディオスは周囲を指差す仕草をした。
それに釣られて周囲を見渡した俺は、こちらをちらちらと見ていた数人と目が合い、取り敢えずは軽く会釈して目を逸らした。
「俺たちは頑張らないといけないから、レヴナントからレヴナントに渡り歩いて、二日に一回砦に戻るか戻らねーか、ってとこなんだけど」
激務おつかれさま、の意を籠めて、俺はアナベルの左手の甲を軽く叩く。アナベルは無反応だった。
カルディオスは溜息。
「イーディだけ、滅多に戻って来ない。ずーっと任務。東西南北で管轄割り振ったじゃん? あれも無視。とにかく、レヴナントが出たとなれば飛んでくる」
俺は暗澹たる気持ちになった。
「そういえば」
と、コリウスがふと気付いたように。
「ここに戻る道すがら――上空から、レヴナントが見えた。すぐに斃されていたようだったけれども、恐らくあれはトゥイーディアだね」
はあああ、と重い溜息を吐いて、カルディオスは首を振った。
「こないだは、婚約の発表があるからって使者が向かったから戻って来た。それが多分、イーディが砦にいた最後。その前はトリーが涙ながらに懇願して休んでくれてたけど」
――目に浮かぶ。
「お願いだから休んで!」と淡紅色の目に涙をいっぱいに溜めて迫るディセントラと、なんだかんだ言い訳しつつも、ディセントラの涙の威力に押されて白旗を揚げるトゥイーディアが。
ふ、とカルディオスの視線が俺に動いて、彼の長い腕が伸ばされた。
がし、とアナベル越しに肩を掴まれて、俺は眉を寄せる。
「――なんだよ?」
「おまえね、」
と、カルディオスは仏頂面。
「イーディの話題になった途端に白けた顔すんのやめろよ」
俺は肩を竦めた。
そして、あからさまに話題を変えた。
「それより、戻って来た俺を歓迎しろよ。――アナベル、後でその傷も治すから。他にもどっか怪我してるとこは? てか、怪我人はどこにいるんだ?」
その傷、と示したのは、アナベルの右手首に見える傷だ。
「ああ」とばかりにそちらを一瞥して、アナベルはなぜか思案顔。
一方で、コリウスがめちゃめちゃ顔を顰めた。
「――ルドベキア。言っただろう。今日は休め」
カルディオスがコリウスを見て、それから俺を見た。
首を傾げて、怪訝そうに呟く。
「……ルド、何かあった?」
俺は息を吸い込んだ。
心臓の辺りが鈍く痛んだ。
こいつらの顔を見て、その上でシャロンさんのことを思い出すと、俺の言動を支えている意地だとか精神力だとかが、ぽっきり折れてしまいそうだった。
吐き出そうとした言葉が何だったのかは、俺本人にすら分からなかった。
が、俺の様子を見たコリウスが、素早く言葉を差し挟んでいた。
「聞いてくれ。ルドベキアが、――かなり厄介なレヴナントに遭遇して」
翡翠色の目を細めてじっと俺を見たまま、カルディオスが言葉だけをコリウスに向ける。
「へえ。厄介って?」
「それが――」
コリウスが言い差した。
俺がいるのに、あのレヴナントのことをコリウスが話そうとしたのは初めてだった。
俺がそれだけ酷い顔をしていたのかも知れない。
カルディオスはまだ俺から目を逸らさない。
が、そのときちょうど、またも大広間の入り口付近で声が上がった。
カルディオスが入って来たときよりもなお大きなざわめき。
そして、次々と大広間にいる隊員たちが立ち上がり始めた。
「リリタリスのご令嬢」と、あちこちで声が上がる。
俺は振り返った。
心臓の鼓動が一気に跳ね上がったが、表情は淡白なものへと切り替わる。
トゥイーディアが大怪我をして戻って来たのだったらどうしようと思って、手が震えるほど緊張したが、その緊張すら欠片たりとも表には出ず。
カルディオスが弾かれたように立ち上がった。
彼が壁になって、俺は大広間に入って来るトゥイーディアを見ることが出来なかった。
だが、こつこつと近付いてくる靴音は聞こえたし、四方八方から掛けられる声に、笑みを含んだ声で応対している、トゥイーディアの少しハスキーな声も聞こえていた。
靴音から推すに、歩行に支障を来すような怪我はしていない。
声音から推すに、声が震えるほどの痛みも感じていない。
――はずだ。たぶん。
トゥイーディアはときどき、俺が信じられないくらいの我慢強さを見せるから、確信は出来ないけれど。
靴音は少し遠い。
どうやらトゥイーディアは、真っ直ぐに俺たちの方に向かっているのではなくて、俺たちの向かい側の席を目指して歩いているようだ。
テーブルの幅を挟んだ先から近付く、トゥイーディアの規則正しい靴音。
「――イーディ!」
カルディオスが声を上げると同瞬に、トゥイーディアが俺の視界に現れた。
灯火を弾く蜂蜜色の髪を半ば結い上げて流しており、その髪が少し解れている。
北国の生まれとあって色白の頬に、いつ付着したのか黒ずんだ汚れが飛んでいた。
翻る外套も草臥れていて、たった十日ほど前に新品を貰い受けたのだとは俄かには信じ難い様相。
――だが、それでも、表情は柔和で明るかった。
「やっぱり戻ってたのね、ルドベキア、コリウス」
にこ、と微笑んで、トゥイーディアが俺とコリウスを見た。
俺は多分、代償がなければ真っ赤になって何か叫んでいただろう。
飴色の目に俺が映っているのがはっきり分かったし、コリウスより先に名前を呼んでもらえたし。
「さっきレヴナントを斃したときに、なんか空の上に変なものが見えた気がして。もしかしてコリウスじゃないかと思って、急いで戻って来たのよ。――おかえりなさい」
トゥイーディアが首を傾げた。
解れた、緩やかな癖のある蜂蜜色の髪がふわりと揺れた。
微笑に緩められた顔はやっぱり、そこにだけ別種の明るい光が差しているかのように錯覚させるものだった。
俺は素っ気なく目を逸らしたが、トゥイーディアの軍服の襟から包帯が覗いているのは見た。高揚は一気に動悸に変わった。
代償がなければ俺は多分、蒼褪めて震えていたことだろう。
トゥイーディア、一体どれだけ怪我したんだ。
「イーディぃぃぃ――」
カルディオスが、殆ど怨念さえ感じられる声を出した。
トゥイーディアはきょとんとしてそちらに目を向け、瞬き。
「なあに? あ、もしかして私、話の邪魔しちゃった?」
だとしたらごめんなさい、などとお道化るトゥイーディアに、「違う!」と叫ぶカルディオス。
次々に着席し直す周囲からますます注目が集まったが、どうやら気にしていないらしい。
「違う! イーディおまえ、コリウスに気付いて戻って来たって、それ、また今日も戻らない気だったのか!」
トゥイーディアは目を見開いた。
そして、そわそわと髪に触れ、
「えっ、やだカル、そんな年頃の娘に言うようなこと」
あからさまにふざけた返事を投げたトゥイーディアに、カルディオスは憤激の表情。
「おまえ、おまえ……おまえなあっ!」
癇癪を起したようなカルディオスに、トゥイーディアは大袈裟に耳を塞いでみせ、「はいはい」と。
「はいはいはい、分かった、分かりましたから。今日は休めばいいんでしょ?」
「最後にちゃんと休んだのは五日前だろうが!!」
怒鳴るカルディオスに、トゥイーディアはえへへ、とばかりに微笑んだ。
そして唐突に手を伸ばし、テーブル越しにカルディオスの手を掴むと、ふわ、と目を細めて。
「心配してくれてありがと、カル」
怒りの腰を折られた形になって、カルディオスはしばし絶句していた。
とはいえすぐに、「分かればいーんだ」などと言って座り直してはいたが。
――一方の俺は、ちらりと見えたトゥイーディアの手首にも包帯が巻いてあるのを見て取っていて、いよいよ気分が悪くなっていた。
トゥイーディアが俺の正面に座ったところで、「で」とアナベルが口を開いた。
「コリウス、何を言い掛けてたの?」
「ああ――」
呟いて、コリウスはちらりと俺を見た。
俺は無反応に斜め下を見ていた。
トゥイーディアが怪我をしていることとシャロンさんのことと、二つもあって俺の頭はいっぱいだった。
一昨日から事あるごとにそうなっているように、心臓が冷えていく感覚がする。
「実は――」
周囲の隊員に聞かれれば、それだけで大混乱になって士気を損ないかねない話のため、コリウスは声を潜めて話した。
こういう重大な発表は、指揮官のタイミングに合わせるべきだから。
端的な言葉を選んで、魔法を使うレヴナントがいたこと、その魔法が絶対法を超えていたことを、コリウスは素早く話した。
なぜそのレヴナントに遭遇する事態になったのかということは、見事なまでに省略した。
それから付け加えるように、世双珠の破損とレヴナント発生の関連の可能性についても話した。
ディセントラがここにはいないから、彼女には後から伝えることになる。
トゥイーディアたちはさすがと言えた。
現実逃避ぎみに否定することも、度を失って狼狽えることも、意気消沈することもなかった。
もっと言えば、聞き返すこともなかった。
コリウスが話した内容を事実として受け止めて、頷いて理解を示した。
もしも仮に、遭遇したら撤退已む無し。
そう告げて話を終えたコリウスを見て、トゥイーディアが無表情に首を傾げた。
「――そのレヴナント、遭遇したのはきみなの? それともルドベキアなの?」
俺は思いっ切り顔を顰めた。
コリウスは客観的な言い方を選んで話をしたから、先入観でコリウスがレヴナントに遭遇した本人であると――あるいは俺とコリウスが同時に遭遇したのだと、そう思い込んでもいいはずなのに、妙なところで鋭い。
コリウスは、今度は俺を一瞥もせずに答えた。
「ああ、ルドベキアだ。僕は、」
肩を竦めて、コリウスはあっさりと言った。
「ルドベキアがそのレヴナントと対峙していたであろうときに、〈呪い荒原〉のお陰で気を失っていたから」
トゥイーディアがさっと顔を強張らせた。
同瞬、カルディオスが目を見開いてコリウスに向き直った。
「コリーおまえ、それで、具合は――」
「問題ない」
コリウスは、心配してもらったというのに、まったく恩知らずにもうるさそうに答えた。
「こちらにはルドベキアがいたからね。――むしろ、ルドベキアの方が今は重傷だ。そのレヴナントにやられたらしい背中の傷を治せていない」
カルディオスが俺を見て、急に、合点したとばかりに手を打った。
「なるほど。それでさっき、ちょっと痛そうにしたのか」
「待って、なんで?」
アナベルが言って、心底不思議そうに俺を見た。
俺もきょとんとしてアナベルを見返した。
アナベルはその懐疑的な顔のまま、俺に向かって細い指を立てつつ指摘する。
「〈呪い荒原〉の病は体内の損傷でしょう。それを治したんでしょう? 身体の中の傷も治せるんだから、背中だって大丈夫なんじゃないの?」
傷を見ることが治療の条件ではないんでしょう、と首を傾げる彼女に、俺は首を捻ってみせた。
「いやなんか、身体の中は勘で治せるんだけど、皮膚は無理。なんか変な風にくっつきそうで嫌だ」
この理論には、その場の全員がきょとんとした。
まあ、俺もこんなこと言ってる奴がいたらきょとんとするとは思うけど。
それにしても、なんか見えないところの表皮って治せる気がしないんだよな。
アナベルは額を押さえて、呆れたように。
「嫌だって、あのね。ちょっと、見守っててあげるからやってみたら?」
俺は顔を顰めた。
「やだよ、変な風にくっついて余計に痛くなったらどうするんだ」
皮膚が捩れたりしたら見た目もえぐいことになりそうだし。
が、俺の反論に、アナベルはますます胡乱な顔をする。
「だから、身体の中が大丈夫なんだから大丈夫でしょう」
俺はそっぽを向いた。
「ほっとけよ、俺が見て治療できない身体の表面は俺の背中と顔くらいだろ。俺にしか不利益ないんだからほっとけよ」
幸か不幸か、痛みには慣れている。
しばらく俯せで寝ないといけないが、不自由といえばそんなものだし。
――と思っているといきなり、カルディオスがアナベル越しに手を伸ばしてきて、俺の背中をちょん、とつついた。
――目から火花が出るかと思った。
「――いっ……つぅ――っ!」
変な声が出た。
不意打ちだったし、みんなの中にいて気が緩んでいたということもある。
電撃のように背中から全身を走った激痛に、テーブルに縋り付くようにして、俺は無言で身悶えた。
「ちょっと、カル!」
トゥイーディアが窘めるように強い口調で呼ぶのが聞こえた。
カルディオスはカルディオスで、俺が思った以上に痛がってびっくりしたらしい。
ちょっと上擦った声で、
「え!? そんな重傷なの!? ごめん!」
などと叫んでいる。
俺はやっとのことで顔を上げ、涙目でカルディオスを睨んだ。
「てめぇ……後で覚えてろよ」
「だから、ごめんって」
そんな遣り取りをする俺たちに挟まれて、アナベルはやや冷ややかな目で俺を見た。
「『俺にしか不利益ないんだからほっとけよ』、ねぇ……。
今現在、めちゃめちゃ痛そうにしながらそれ言う?」
このやろう。
言ったばかりの台詞を引用されてぐうの音も出ない俺は、はぁ、と零されたトゥイーディアの溜息を聞いた。
反射的に(喧嘩腰の顔で)そちらを見ると、テーブル越しに俺を見るトゥイーディアは、何とも言えない顔をしていた。
それから首を傾げて、誰にともなく言い放った。
「誰か、この我侭のために合わせ鏡でも用意してあげれば?」
――提案としては真っ当だった。
真っ当だったが、口振りが明らかに俺を責めていた。
なんで俺が責められんだよ、と思った俺の率直な気持ちを、俺の代償が少々歪んだ形で吐き出させた。
「――壊すばっかりのおまえには何も言われたくないんだけど」
声音が相当険悪になったため、その場の空気がぴしりと凍った。
やっちまった、と俺は目を閉じたくなった。
が、トゥイーディアはなぜか怒らず――これは結構珍しいことだ。自分の能力が破壊一辺倒であることを、トゥイーディアはかなり気にしているから――、凍った空気を自ら割り砕くようにして、ちょっと身を乗り出して俺を見た。
そして、どうしてだか気遣わしげな声を出した。
「……ねぇ、ルドベキア。何かあった?」
――俺は息が止まった。
さっきカルディオスに同じことを訊かれたときの比ではなく、泣きたくなった。
トゥイーディアの声は柔らかく、真っ直ぐで、心底から俺を気遣っているということがありありと分かるものだった。
無理に相手に寄り添おうとするのではなくて、あくまでも自分の立ち位置から、視線を合わせて遠慮がちに相手を覗き込むような、こういうこいつの声音が、俺は昔から大好きだった。
頭の中に色んな言葉が渦巻いた。
強がる言葉も甘える言葉も中にはあった。
それなのに、俺が口に出したのは、俺自身が一番意図しない言葉だった。
「――今まさに、その『何かあった』って話をしたんだろ。馬鹿なの?」
「…………」
今度こそ、完全にその場の空気が凍り付いた。
アナベルが冷ややかな目で俺を見る。
カルディオスは片手で顔を覆っていた。
トゥイーディアの表情は、俺は怖くて見られなかった。
ちょうどそのとき、誰かが厨房に救世主たちの帰還の報を入れてくれていたらしい、新たに用意された俺たちのための食事が運ばれてきた。
が、愛想よく食事を運んで来てくれた侍女さんたちですら、余りの空気の悪さに困惑した顔を見せる始末。
食事はきちんと味がしたが、全く美味しく感じられなかった。
最悪な雰囲気の食卓となったことは言うまでもない。




