32◆ ある商人の英断
俺の希望の通り、コリウスはブロンデルに向けて空路の舵を切った。
ガルシアに戻るための経路から、そう大きく逸れるわけでもない。
移動の日数にそう大きく関わるところではないが、問題は、俺の目的の人物に会うまでの時間である。
丸一日とか待たされたらどうしよう。
俺たちがブロンデルの上空に到達したのは、ガルシアを出発してから九日目の昼だった。
運河の畔に発達した町は、以前と変わらずごみごみして、背の高い灰色の建物が道路を圧迫していて、馬車はせかせかとその道を走っていた。
天候は重く垂れ込めた曇天。
運河を行き来する船が吐き出す蒸気が、更にその空を低く見せていることだろう。
移動方法が余りにも異様なので、騒ぎにならないよう、町の外に着地することもコリウスは考えていただろうが、それは無用だった。
というのも、道行く人たちがみんな冬空の寒さに俯いて、空を見上げている人なんていそうになかったものだから。
あと単純に、絨毯の色が象牙色だから、曇天に溶け込んで目立ちにくいということもある。
とはいえ、低空に向けて滑空するときには真下の様子が気になった。
身を乗り出そうとするとコリウスに引き戻されたけれども。
目的地付近の――とはいえ、俺はブロンデルに寄ってくれと頼んだ目的を一度もコリウスに話していないが、さすが長い付き合いだけある。過たず察してくれているようだ――適当な建物の裏手に舞い降り、コリウスと俺は絨毯から地面に飛び降りた。
膝の高さに浮かせた絨毯を、コリウスがくるくると巻いて毛布と共に肩に担ぐ。地図と食糧の入った麻袋は俺が持った。
降り立った路地裏は薄暗く、湿っていて、変な臭いがした。
すぐ傍に大きな木箱が二つ積み上げてあって、きぃ、と小さな鳴き声がしてそちらを見ると、黒くて大きな鼠がくるくると木箱の上を走り回っていた。
鼠は鼠なりに、空から生き物が降って来た事態に混乱しているのかも知れない。
指を伸ばしてみると、鼠はびくっとして木箱の裏に逃げ込んでいった。
路地裏から表通りに踏み出す。
表通りは喧騒と言うほどの喧騒もなく、概ねは静かだった。
というかこの時間帯は、仕事に従事している人が多くてこの辺の人通りは少ない。
これが、商店通りとかだったらもうちょっと喧しかったんだろうけど。
二輪立ての一頭馬車ががらがらと車輪の音を立てながら俺たちの横を通り過ぎた。
出で立ちからして結構怪しいから――何しろ、一人は軍服、一人は平服、そしてなぜかでかい絨毯を抱えているという始末――、山高帽を被った御者に横目で見られたのはもちろん、馬車の後部の窓から、帳を除けて俺たちをまじまじと見る紳士が見えた。
見られることは気にせず、俺たちは真っ直ぐに目的の建物へ。
運河を望む場所にある、この町並みの中では珍しい煉瓦造りの三階建ての建物。
三つの棟が渡り廊下で結ばれているそこが、俺の目的の場所だった。
屋根から突き立つ幾本かの細い煙突が漂う煙を吐き出していて、その煙が曇天に迎合するように空に広がっていた。
敷地を囲う低い塀。無骨な鉄の門の前には二人の見張り番。
――かつて納税を渋り、救世主一同に手間を掛けさせてくれた世双珠専門の流通業者、ダフレン貿易である。
門の前に立った俺たち二人に、門衛二人はちょっと胡乱な顔をした。
誰何の前に俺は、思わず名乗るよりも先に用件を伝えていた。
「――社長にお会いしたいんですが」
「は?」
門衛がぽかんと口を開ける。
そして俺を頭のてっぺんから爪先まで見て、視線を折り返すようにまた目を合わせ、肩を竦めて目を眇めた。
「どこのどいつか知らんが、我が社の社長は大変お忙しい。出直して――」
「おい」
と、その門衛の脇腹を肘でつつくもう一人の門衛。
何かに気付いた様子で食い入るようにコリウスを見て、ちょっと冷や汗を浮かべている。
「――あ? なんだよ」
自分を振り返る相棒の方に一瞥もくれず、門衛は掠れた声で。
「分からんのか。ガルシアの制服だ。――ジャックがご尊顔を拝見したことがあると言っていたが、話に間違いがなければ……救世主さまだ」
ジャックというのは多分、俺たちが以前ここを訪れたときに門衛をしていた人なんだろう。
ジャックから話を聞いていなかったらしい門衛の彼が、目玉が飛び出るような顔をした。
ばっと俺を振り向く。
愕然としたその顔に、俺はぺこりと頭を下げた。
「はい、そうです。社長か――あるいは、ファーストンさんにお取次ぎ願えませんか」
忙しいのは事実だろうから、数時間は待たされることを覚悟しなければならないが。
二人の門衛が顔を見合わせた。
「お――お入りいただいて、それから」
「アンジェラさんに頼んで、応接室を開けていただけ」
「お、おまえここ残る?」
「そうしよう――か」
めちゃくちゃ動揺させてしまっている。
「申し訳ない……」
思わず呟けば、門衛二人にすごい勢いで首を振らせてしまった。
申し訳ない……。
門衛の彼(ジャックから話を聞いていた方)に案内された俺たちは、それからアンジェラというきりっとした女性に引き渡された。
仕事中に引き留められた彼女は最初、「は?」みたいな顔をしたが、切羽詰まった顔の門衛の彼に、「救世主さまだ!」と説明されるに至り、慌てて俺たちを応接室に通してくれた。
以前も通された部屋である。
門衛の彼の方はといえば、社長あるいはファーストン氏を目指して走って行った。
冷静を装いつつもおろおろするアンジェラさんを説得して仕事にお戻りいただいて、俺は思わず溜息を吐いて椅子の背凭れに沈み込んだ。
前回、この部屋でこの椅子に座っていたのはディセントラとカルディオス、コリウスだった。なので知らなかったが、この椅子はたいそうふかふかだ。
「――業務妨害甚だしいな」
ぼそ、とコリウスが呟き、俺は悄然と頷いた。
「まあ、業務妨害しに来たんだしなあ」
俺の台詞に、コリウスが深々と溜息を吐く。
――やっぱり、俺がどうしてわざわざダフレン貿易に立ち寄りたいと言ったのか、おおよそのところで察しがついているらしい。
多忙極まりない世双珠の流通会社の最大手の社長を訪ねたのである。
俺もコリウスも、このまま数時間は待たされる覚悟を決めていたが、意外にも僅か数十分で扉が開いた。
コリウスと二人、立ち上がって扉の方を振り向く。
入って来たのはアルフレッド・ダフレン社長、その人だった。
以前ここに来たときは不機嫌極まりない顔で出迎えてくれたものだが、今日は満面の笑み。
相変わらずふさふさと蓄えられた黒髪に髭、そして今は笑みに細められた黒い瞳。
笑ってはいてもその眼光から鋭さが失われないのは、彼が根っからの商売人だからか。
社長の後ろには俺たちが会ったことのない少年が付き従っていて、興味津々に俺たちを見ていた。
「これはこれは! お久しゅう!」
両腕を広げて大歓迎され、俺とコリウスは取り敢えず社長からの抱擁を受けた。
この人、こんなに俺たちに好意的だったっけ?
頼って訪ねてきた手前ではあるものの、俺は内心で面食らった。
「お久しぶりです、社長。お仕事の邪魔をしたのでなければいいのですが」
当たり障りなく挨拶したところで、社長が俺の真正面の椅子に座る。
彼の合図を受けて、付き従っていた少年が部屋の外へ身を翻した。
社長は自分と俺たちの間に置かれたローテーブルの上を一瞥し、眉を寄せる。
「大変失礼した。うちの者は茶の一杯もお出しせず」
「いえ、こちらから遠慮したので……」
何しろ、急に引き留められたアンジェラさんが、山ほど仕事を抱えていただろうことは確かだから。
そうでしたか、と豪快に笑う社長は、それから軽く首を傾けた。
「本日はコリウスどのとルドベキアどの、お二人でのお越しですか」
俺たちの名前までしっかり覚えているとはさすが。
「救世主さまはガルシアにいらっしゃると新聞にも出ておりましたが、こんな町に何用で?」
「レヴナントは、この町にも?」
コリウスが質問に質問で返した。
この町には――ダフレン貿易が社を置くのだから当然に――世双珠が溢れ返っている。
世双珠の破損と共にレヴナントが発生するという仮説が正しいのであれば、レヴナントが連日発生してもおかしくないのだ。
それを気にしていると分かる横顔で、事実コリウスは、ちらりと俺と視線を合わせて眉を寄せた。
「ああ、出ましたぞ」
ダフレン社長は肩を竦めた。
そして、くい、と親指で運河の方角を示す。
「ちょうど運河のすぐ傍で、一月ほど前に出ましたな。まあ幸い、この町にもガルシア部隊が少数とはいえ滞在しておりますからな、大した被害にはならんで済んだが」
俺は思わず瞬きした。
「そ――その一回だけ?」
ダフレン社長は首を振る。
「いや無論、それより以前にもちらほらと出ましたが」
ちらほらと。
俺はコリウスと目を合わせた。
コリウスがダフレン社長に向き直り、「失礼ですが」と前置きして言った。
「世双珠の管理はどのようになさっておいでです? 一つ一つ、数を合わせて管理なさっているのか、それとも――」
社長は訝しげに眉を寄せた。
「無論、大事な商品。個数で管理しておりますが?」
「破損する世双珠などはございますか」
コリウスの問いに、社長はやや不機嫌に眉を顰めた。
そしてどっかりと背凭れに背中を預ける――あ、前に来たときの社長と同じ態度だ。
「何を仰るかと思えば。うちの従業者どもがそのような粗相をするわけなかろう」
思わず息を吐き、俺はちょっと身を乗り出した。
「大変失礼を申し上げた。――実は、世双珠が破損した現場でレヴナントの発生が確認されることが多くて。確証も何もない段階ですが、気を付けていただくに越したことはない」
ダフレン社長が背凭れから身を起こした。浅黒い顔に浮かぶ表情は、翻って笑顔。
「ほう、それは初耳。ご忠告痛み入る。今後はいっそう用心しよう」
俺は微妙な顔で頷いた。
世双珠の扱いに対してだけではなくて、世双珠の存在そのものに対する危機感が、多少なりとも見られるかと思ったのだが、さすがにそれはなかったか。
――世双珠がレヴナント発生の原因だとして、その確証が何らかの方法で得られたとしても、この世から世双珠が一掃されるかと言えば、答えは否だろう。
世双珠は既に社会基盤として定着し過ぎている。
ダフレン貿易がそうであるように、世双珠を失えば職を失うという人々も相当数いる。
魔法は世双珠を介して使われるがゆえに、魔術師たちも魔法を使う手段を失うことになる。
世双珠を使用禁止にしようなどと気の狂った命令は、どこの国も出せようはずがないのだ。
暴動は必至だし、経済的にも利便的にも、被る害が大き過ぎるから。
「――最近の業況は? 以前に比べて利益は落ちたでしょう」
頼み事を口に出す前に、探るようにそう言った俺に、ダフレン社長は声を上げて笑った。
ちょうどそのとき、先ほど部屋を出て行った少年が戻って来た。
慎重にワゴンを押しながらの登場で、ワゴンの上には紅茶の支度が整っていた。
かちゃかちゃと音を立てつつ、緊張した風情で彼が茶器を並べ、既にポットの中で蒸らしてあったのだろう紅茶をとぽとぽと注ぐ。
ふわ、と湯気と共に紅茶の芳醇な香りが広がった。
最後に焼き菓子を載せた皿を各々に差し出して、少年はワゴンを押し、静かに出て行った――が、扉が閉まり切る前に、「ちゃんと出来たっ」と呟いているのが聞こえてきた。
思わず、俺とコリウスが苦笑。社長も苦笑した。
「――最近雇い入れたばかりで。勉強中の身ですよ、あれは」
「なるほど」
と、俺が相槌。
コリウスは端正な仕草で紅茶のカップを口許に運んだ。
やれやれと首を振り、社長も、コリウスに比べるとやや豪快な手つきでカップを口許へ。
そうして紅茶を一口飲んで、社長はかちゃん、とカップをソーサーに戻し、俺を見た。
「――そう。で、最近の状況ですな。まあ、いいとは言えますまい。レヴナントのせいであっちこっちで汽車は止まる、船は港を出ない、あるいは沈没。仕入れた世双珠がレヴナントに叩き潰されたりもしましたな」
身振り手振りで災難を表現しながらも、社長は肩を竦めてみせた。
「まあ、出荷しちまえばこっちのもんですが。出荷時点で売り上げが立つことになっておりまして――当然、出荷と同時に代金も頂く。出荷した世双珠に何かありましたら、それは先方の負担ですわ。
とはいえ、レヴナントのせいで取引先が倒産してしまいよって、売掛の回収が出来なかったこともありますがね」
「――保険が活躍しそうですね」
コリウスがぼそっと呟いた。
――保険ね。
保険は俺も知っている。前回の人生でもあったから。
運送――特に海運なんかだと、自然災害や海賊の被害なんかで積み荷を失い船を失い、仕入れ代金の支払いのみが残る――なんてことは結構ある。
結構あるから、結構な確率で商人は破産する。
なのでそういった事業を営む商人同士で組合を作り(まあ、業種を問わず組合はあるのが普通だけど)、仲間内で金を出し合い、損失が出た人を助け合う仕組みがあったのだ。
他にも、組合は関係なしに、出航前の船主に保険金を払っておき、その船が無事に商売を終えればその保険金に利子をつけて返金してもらう――という仕組みの商売で儲けている人もいた。
ていうか救世主として、その保険金の返金に関する揉め事を解決したこともある。
確かに、レヴナントが頻発するこの状況、保険は大いに活躍するだろう。
「如何にも」
社長も笑って首肯した。
「世双珠の流通組合で、早速にも互助金を出し合っておりますよ。わしらが商売をしている相手も相手で、それぞれの組合で動いておりますことでしょう。
――そんなわけで、うちは幸いにも被害が大きいなんてことぁない」
焼き菓子を摘まみ上げ、大きく開いた口に入れる。
むしゃむしゃとそれを咀嚼しつつ、社長は俺をまじまじと見た。
ごくん、と菓子を飲み込んで、社長はまた首を傾げる。
「――で? うちの状況をお気になさるとは、どういう風の吹き回しですかな?」
身も蓋もない言い方だが、正解だ。
普通、救世主は特定の一社の状況を気にしたりしないからね。
だが、これから無茶な頼み事をしようという手前、相手の業況は知っておきたかった。
もしも万が一、急速に業況が傾いて火の車――なんて事態になっていたとすれば、頼み事なんてしてる場合じゃない。
だが、取り敢えず、ダフレン貿易の業況は傾いてはいない。
息を吐き、俺は目を上げて社長を見た。
「あのとき言ってくださったことをご記憶ですか?
――“どこにいようと、何をしていようと、可能な限りで俺たちの力になる”と」
あの台詞は恐らく、ディセントラに向けられたものであるというのが大半の意図だ。
ダフレン貿易絡みの揉め事解決において、最も前面に立って活躍したのが彼女だ。
だが敢えて持ち出す。
社長は意外にも、嫌な顔ひとつせず頷いた。
「無論。わしは商人ですぞ。約束を違えぬのが商人の矜持」
だろうな。
契約事と信義則を重んじるのが商人だ。
それが出来ない奴は悪徳で、賊に等しい。
しかしそれでも、俺がする頼み事はかなり面倒だ。
無理強いは出来ないぞと再び自分に言い聞かせ、俺は言葉を押し出した。
「実は、頼み事が」
「何なりと」
さらりと返され、俺は少しばかり言い淀んで目を落としてから、もう一度視線を上げた。
ダフレン社長の表情は真摯だった。
息を吸い込み、俺は告げた。
「――浮民を助ける気はありませんか?」
社長は眉を寄せた。
当然だろう。
俺としてもお門違いの頼み事であるということは重々承知だ。
だが、これしか伝手がなかった。
救世主の頼みとあらば力になると言ってくれた、この人しか。
詳しく、と身振りで示されて、俺は言葉を続ける。
「東の国境――イルフィーティ地方で浮民が発生しているのはご存知でしょう?」
「ずっと以前からですよ。〈呪い荒原〉が広がり始めてからは」
社長は紅茶の湯気を追い掛けるように視線を上げてそう言い、俺を見て目を眇めた。
「――加えて、浮民の対処は国の仕事だ」
「通常は、確かに」
一言を添えて認めて、俺は頷いた。丁寧な口調がぼろっと剥がれた。
「今はもう追い着いてない。レヴナントの討伐も合わせてやらなきゃならなくなった今、国だけであれに対処するのは無理だ」
ダフレン社長は腕を組んで俺を見た。
俺もそれを正面から見返して、促される前に言葉を続ける。
「物資を届けるとかそういうことは、底が見えてる――それは分かってる」
救援物資だって、送る側にも限度がある。
更に言えば、送る側には何の利点もない。
「でも、たとえば――あんたの会社の世双珠の仕入れと配送の事情は知らないが、」
前置きして、俺は足を組んだ。
あんまり行儀は良くないが、こういう商談めいたことをするときの俺の癖だった。敬語が抜けるのもその癖だ。
なんでこんな癖が出るかというと、慣れてないからだ。
大抵こういうのは、ディセントラかコリウスに任せるからね。
「経路を変更して、浮民を訪ねることは出来ないか。そこで浮民を拾って、育てて、あんたの従業者にすればいい。あるいは、人手の足りないところがあれば、そこに送り込んでもいい」
社長の表情は動かない。
まあ、穴のあり過ぎる話だし仕方がないが、ここで重要なのは社長の心を動かすこと。
そうすれば細かい点は、この生粋の商人が詰めてくれるはずだから。
「あの人たちには、どうやったって故郷は戻らない。このままじりじり死んでいくだけだ。
だからあの人たちに必要なのは、その場凌ぎの救援物資じゃなくて、生きていける場所と、生計を立てるに足る仕事だ。
――あんたにそれをお願いしたい」
組んだ足を戻して、俺は膝の上に肘を置いて身を乗り出す。
「浮民を従業者にするなんてこと、変な連中が手を付ければ、下手すりゃあの人たちは奴隷の扱いを受ける」
何の後ろ盾もなく、切実に職を必要としていればそうなる。
労使の平等が図られないどころか、無給で働かされかねない。
「でも、あんたはそんなことはしないだろう、社長。
――浮民の中にはもしかしたら、将来あんたの右腕になるだけの商才を持った人もいるかも知れない。浮民になる前に、商人として名を立てていた人もいるかも知れない。見方によってはあんたにも得はある」
暴論を振り翳して、俺はまくし立てた。
「浮民全部にあんたの手が及ぶとは考えてない。でもあんたは、組合の中でも声のでかい方だろう。あんたが浮民の――あの人たちを重んじる立場をちゃんと表明してくれてさえいれば、あんたに続く人も下手なことはしないだろう」
一拍置いて、俺は首を傾げた。
「――どうだ、無理か?」
無理だと言われれば諦めざるを得ない。
覚悟しつつ社長の目を見れば、社長は何やら俺から目を逸らして顎を撫でていた。
隣のコリウスを見遣る。
優雅な仕草でお茶を楽しみつつ、コリウスは「落ち着け」とばかりに眉を寄せた。
――コリウスがこういう顔をするということは大丈夫なんだろう。
じっと待つこと数分。
はたと瞬きしたダフレン社長が、俺を見て「失敬」と笑った。
「失礼、考え事を。
――救世主さまの仰せとあらば、可能な限り力になると申し上げましたは事実」
そう言って、社長が立ち上がった。
釣られて俺も立ち上がる。
ちょっと警戒ぎみの俺に向かって、ダフレン社長が右手を差し出した。
――握手を求められている。
内心ではぽかんとしつつもその手を握り返すと、社長は俺の手を大きく振り、頷いた。
「ルドベキアどのの仰ったことはわしの力の及ぶ範囲と見受けた。――承りました、ご安心召されい」
「マジですか」
素の声が出た。
かっこいいな、この社長。
この無茶苦茶なお願いを二つ返事か。すげぇ。
「ただ――」
社長が言い差し、再び腰を下ろしながら、探るように俺を見る。
俺も座り直しつつ、眉を寄せた。
「ただ――、なんです?」
「救世主さまのお名前を出すことをお許し願いたい」
そう言って、ダフレン社長は軽蔑を籠めて嘆息した。
「仰る通り、浮民を雇い入れるとなれば、それを奴隷と勘違いする馬鹿者もおりましょうからに。そういった輩を抑え込むには、横暴には鉄槌が下ると、そう思い込ませるのが最も効果的。鉄槌を下すとなれば、一商人のわしの名前を出すよりも、救世主さまのお名前を出す方が何倍も効果的だ」
ああ、そういうことね。
勿論、と即答しようとした俺を、この部屋に入ってから初めて遮って、コリウスが素早く口を出した。
「そういうことでしたら、僕の名前を」
社長の目がコリウスに動く。
俺は内心で、自分のうっかり加減に頭を打ち付けたくなっていた。
そうだった。俺、救世主の一人ということになっているとはいえ、個人で目立っちゃ拙いんだった。
素性を探られたら困る立場だったのをすっかり忘れていた。
コリウスは微笑み、自分の胸に手を当てる。
「コリウス・ダニエル・ドゥーツィア。ドゥーツィア辺境伯の嫡出子にして長子です。宣伝にも牽制にも打って付けでしょう。――もしも僕で不足があれば」
にこ、と目を細めて、コリウスはいとも容易く旧友を差し出した。
「ファレノン将軍の息子の名前もお出しください。救世主の一人――覚えていらっしゃるとは思いますが、カルディオス・ジョシュア・ファレノンです。あいつも名前を出されて不満はありませんでしょう」
――実は、このとき初めて俺は俺は、カルディオスの今のフルネームを知った。
へえ、あいつそんな名前だったの――と思わず考える俺を後目に、ダフレン社長は大きく頷く。
「有り難い限り。あとはこのダフレンにお任せを。――別事業を立ち上げて社を大きくしておくのも悪くありますまい、良い機会です」
かっこいいな、この社長。
感謝を籠めて頭を下げ、俺はようやく紅茶に口をつけた。ちょっと冷めていたので、こっそり温め直す。
焼き菓子も頂いたが、大変美味しかった。アナベルなんかは好きそうだ。
社長は当然の如く、俺とコリウスを彼の屋敷に招待してくれたが、礼を言いつつそれは断った。
何しろ、早くガルシアに戻らないといけないからね。
ちょっと残念そうにしながらも、ダフレン社長は場を辞そうとする俺たちと再び握手をして、なお重ねて言ってくれた。
「――今後も、何かありましたらお申し付けを。
商人の気概に賭けて、救世主さまの仰せとあらば、どこにいようと、何をしていようと、可能な限りで力になりましょう」
「……社長」
この人は多分、何の下心もなく申し出てくれているんだろう。
そうと分かる誠実な声音だった。
救世主と渡りをつけておくことで、今後何かあったときに利用しようだとか、そういう思惑は感じられない声だった。
ネイラン氏の裏切りが、それだけ彼の心に傷を残したのだと思うと遣り切れない思いもあるが。
「――感謝します」
深々と頭を下げて、俺たちは社長の厚意を受け取った。
――ずっと後になって分かることだが、このときの社長の英断が、のちにダフレン貿易という会社を救うことになる。
このときはまだ、そんな気配は欠片もなかったにせよ。
社長はそのまま、なんと俺たちを見送りに外まで出て来てくれた。
途中で従業者の皆さんが、唖然として社長を見ていた。
普通、こんなことをする人ではないのだろう。
更には、入口付近で社長と辞去の挨拶を交わしていると、奥からばたばたとファーストン氏が駆け出して来た。
こちらも、以前と変わらぬ様子である。ひょろりとした痩身に、苦労の偲ばれる皺だらけの顔。
とはいえ今は相当焦った様子で、手には新聞、この真冬に額には薄く汗。
慌てて飛び出して来たのだと分かる風情に、俺とコリウスは真顔になった。
社に何かあったのかと思ったからだったが、違った。
ファーストン氏は俺たちを見て、深々と安堵の息を吐いたのだ。
「――ま、間に合いましたか……」
「おお、ファーストン!」
元気よく参謀を呼ぶ社長に、ファーストン氏は少々恨めしげな目を向けた。
「社長――。わたくしにもお知らせいただけば良いものを。新聞に目を通していたところにアンジェラから、救世主さま方がいらしたと聞いて心臓の止まる思いがいたしました。ご挨拶し損ねるところでございましたよ」
責める声音のその言葉に、社長は豪放磊落に笑った。
「構わん。わしが重々挨拶申し上げたとも。そも、本日は救世主さまからのお頼み事のためのご来訪よ」
「それにしてもです! わたくしとて重々恩を感じているのですから……」
しょぼ、と目を瞬かせて、ファーストン氏は社長との会話を打ち切り、俺たちに歩み寄って丁寧に頭を下げた。
俺たちも慌ててお辞儀を返す。
「お久しゅうございます、コリウス閣下、ルドベキア閣下。ご挨拶が遅れ申して、大変な失礼を申し上げ奉りました」
「気にしないでください。今日は俺の、社長への頼み事のためだったので――」
わたわたと言い募る俺を他所に、社長はコリウスに話し掛けていた。
「その絨毯で飛んで行かれると?」
無表情に頷くコリウス。
「はい」
「ほう……」
顎に手を遣り、社長はしみじみと。
「消費する魔力が甚大でなくば、空を行く運輸業として成り立ちますのになあ」
根っからの商売人根性の窺えるその発言に、コリウスは唇の端で笑った。
「残念ながら、僕も自分以外にこの芸当を可能にする魔術師は知りません」
――と、そんなこんなで出発である。
コリウスが空中に絨毯を広げたところで、ファーストン氏が手にした新聞を振りつつ、にこやかに言った。
「お早くガルシアに戻られるがよろしゅうございましょう。リリタリスのご令嬢はガルシアにいらっしゃるのでございましょ? きっとお待ちかねでいらっしゃるでしょう」
違和感を覚えて、俺はファーストン氏を振り返った。
「――なんでリリタリスの令嬢が出てくるんです?」
声があからさまに冷たくなったため、ファーストン氏が訝しそうにする。
自分が俺の機嫌を損ねたのかと、ちょっと不安そうにする彼に、コリウスが素早く言った。
「お気になさらず。ルドベキアはリリタリスのご令嬢と仲が悪くて」
――違う。
合ってるんだけど、違う。
声に出せずに煩悶する俺に向かって、コリウスは小声で、叱り飛ばすようにして言ってきた。
「トゥイーディアが話題に出ただけで機嫌を損ねるな。子供か」
ふん、と、子供じみた態度で俺はそっぽを向いた。
やれやれと溜息を吐きつつ、コリウスがファーストン氏に向き直る。
「――リリタリスのご令嬢が、何か?」
ファーストン氏は少しびっくりしている様子だったが、すぐに柔和に微笑んで、手にした新聞を広げてみせた。
「いえ、つい先ほど、わたくしもこれで知ったのですが。ご存知なかったのですね」
「……何を?」
首を捻りつつ、コリウスがファーストン氏に歩み寄って新聞を覗き込んだ。
そしてすぐ、「ルドベキア」と短く俺を呼ぶ。
自分の意思ではなしに溜息を零してから、俺もコリウスに続いた。
そして、硬直した。
ファーストン氏の肩越しに新聞を覗き込んで、ダフレン社長が豪快に笑う。
「――はっはぁ、なるほど、これはめでたい!」
俺とコリウスは目を合わせ、全く同じ表情を相手の瞳に見て取った。
ネイラン氏の、老いて筋の浮いた指で示されているのは、小さく囲われた一つの記事だった。
淡々とした活字が報じている――
『ガルシア留学中ノ、リリタリス家御令嬢、救世主ニシテ騎士、トゥイーディア・シンシア・リリタリス嬢、此ノ度目出タク、兼ネテヨリノ御婚約者候補、ロベリア家嫡男ト正式ニ御婚約』
俺は息を吸い込んだ。
さすがの俺も、この記事によって嫉妬を刺激されはしない。
トゥイーディアもヘリアンサスも、お互いに抱いているのは殺意だけだと知っているから。
ただ、この記事によって、俺とコリウスが同時に悟ったことはただ一つだった。
――俺たちが、ガルシアに戻ってすぐにヘリアンサスに挑まなかった理由は一つ。
トゥイーディアの父親のため、彼女の正式な婚約者がガルシアに留学していたのだという事実を作り上げるためだった。
そして今、トゥイーディアとヘリアンサスの、正式な婚約が報じられた。
レヴナントが頻発する今、だからといってすぐにヘリアンサスの討伐のためだけに動けるのか、それは状況次第だが、しかし、それでも。
「……ルドベキア」
コリウスが小声で呼ぶ。
その声音にあるのは、覚悟か畏れか。
俺は無言で頷いた。
――これで、ヘリアンサスを殺しに行くための状況が整ったのだ。
どなたか分かりませんが、誤字報告ありがとうございました。
あと、活動報告もちょっと書きます。
よろしければご覧ください。




